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没落寸前の男爵令嬢なのに、冷徹な美貌の公爵が我が家を買い取って私のすべては俺のものだと迫ってくる  作者: 黒崎 隼人


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第3話「灰色の街角」

 鉛色の厚い雲が、王都の空を低く覆い隠している。

 冷たい雨粒が石畳を打ち据え、無数の波紋を作っては消えていった。

 灰色の空から降り注ぐ雨は、街全体の色を奪い去っていくように見える。

 アリアは使い古された粗末な外套を深く被り、人通りの少ない裏通りを歩いていた。

 雨水をたっぷり吸ったウールの生地は重く、肩に深く食い込んでくる。

 足元の泥濘を避けるように歩を進めるが、泥水は容赦なく革靴の縫い目から染み込んだ。

 足先の感覚はとうに失われ、氷に触れているかのように冷たくなっている。

 息を吐くたびに白い息が空気に混ざり、すぐに雨に叩き落とされた。

 華やかな大通りを避けて進む彼女の視界には、くすんだレンガ造りの建物ばかりが並んでいる。

 時折、交差する大通りの向こうを立派な装飾を施された馬車が通り過ぎていくのが見えた。

 そのたびに、車輪に刻まれた貴族の紋章を無意識に探してしまう自分を小さく嘲笑う。

 あんな豪華な世界に、セリウスは生きているのだ。

 泥にまみれ、雨に打たれて歩く自分とは、生きている場所も吸っている空気も違う。

 彼と並んで歩ける未来など、最初からどこにも存在しなかったのだ。

 薄暗い路地の奥にある、古びた木造の建物を見上げる。

 看板に書かれた文字は雨風に晒され、半分ほど削れ落ちていた。

 重い木の扉を両手で押し開けると、錆びた蝶番が耳障りな音を立てる。

 室内は昼間だというのに薄暗く、油ランプの灯りがわずかに周囲を照らしているだけだった。

 古紙とインクの匂いに、カビの生えたような湿った空気が混ざり合って鼻を突く。

 壁際には書類の束が崩れそうなほど積み上げられ、埃の匂いが立ち込めていた。

 部屋の奥のカウンターには、白髪の混じった初老の事務員が座っている。

 アリアが外套のフードを下ろすと、事務員は羽ペンを置いて目を丸くした。


「貴族の令嬢が、このような場所に何の用ですかな」


 探るような視線に対し、アリアは静かに一歩前に出た。


「住み込みで働ける仕事を探しています。できるだけ、王都から遠い場所で」


 声が震えないよう、お腹の底に力を込めて言葉を紡ぐ。

 事務員は短く息を吐き、山積みにされた書類の中から数枚の羊皮紙を引き出した。

 インクに染まった指先が、ざらついた紙の表面を滑っていく。


「王都から馬車で十日はかかる辺境の男爵領で、娘たちの家庭教師の口があります」


 提示された条件は、決して良いものではなかった。

 給金は安く、生活環境も王都とは比べ物にならないほど厳しいだろう。

 それでも、アリアは迷わずにうなずいた。


「そこでお願いいたします。いつから出発できますか」

「明後日の早朝に出る乗合馬車に空きがあります。それに乗れますかな」

「はい。問題ありません」


 事務員は新しい羊皮紙を取り出し、羽ペンをインク壺に浸した。

 ペン先が紙を擦る乾いた音が、静寂の室内に響き渡る。

 差し出された契約書に、アリアは自らの名前を記した。

 インクの冷たさが指先に伝わり、それが逃れられない現実の冷たさのように感じられる。

 署名を終えたとき、胸の奥にあった何かが音を立てて崩れ落ちたような気がした。

 これで後戻りはできない。

 セリウスのいる王都から、彼の手の届かない遠い場所へと去るのだ。


 ◆ ◆ ◆


 手続きを終えて外に出ると、雨はさらに勢いを増していた。

 大粒の雨が外套の肩を叩き、容赦なく体温を奪っていく。

 冷たい水滴が頬を伝い落ちるが、それを拭う気力すら湧かなかった。

 アリアは再びフードを深く被り、足早に家路についた。


 ◆ ◆ ◆


 屋敷に戻ると、軋む階段を上り、冷え切った自室の扉を静かに閉める。

 暖炉に火を入れる余裕もなく、部屋の中は外と同じくらい冷え込んでいた。

 濡れた外套を脱いで木製の椅子に掛け、部屋の隅にある小さな木箱を引き寄せる。

 中に入っているのは、アリアの数少ない私物だけだった。

 荷造りをするために中身を取り出していくと、一番底から一本の色褪せた赤いリボンが現れる。

 幼い頃、セリウスが初めて街の市場で買ってくれたものだ。


『アリアの髪に似合うと思って』


 少し照れたように笑った幼い彼の顔が、鮮明に脳裏に蘇る。

 市場に漂っていた焼き菓子の甘い匂いと、春の陽射しの温かさまでが思い出された。

 リボンを握りしめると、ざらついた布の感触とともに、当時の記憶が押し寄せてくる。

 彼の不器用な優しさが、痛いほどに胸を締め付ける。

 視界がにじみ、手の甲に熱い雫が落ちた。

 しかし、この温もりに縋ってはいけない。

 アリアはゆっくりと息を吐き、涙を手のひらで乱暴に拭い去る。

 リボンを綺麗に折りたたみ、木箱の一番底にそっと戻した。

 彼との思い出も、彼への想いも、すべてこの屋敷に置いていく。

 それが、立派な公爵となる彼にできる唯一の恩返しなのだから。

 小さな旅行鞄に最低限の衣類だけを詰め込む。

 蓋を閉じる乾いた音が、彼女の決意に最後の鍵をかけた。

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