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没落寸前の男爵令嬢なのに、冷徹な美貌の公爵が我が家を買い取って私のすべては俺のものだと迫ってくる  作者: 黒崎 隼人


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2/20

第2話「すり抜ける温度」

 男爵家の庭園には、手入れの行き届いていない草木が生い茂っている。

 朝の光が葉の上の朝露を照らし、足元の泥濘が湿った土の匂いを放っていた。

 錆びついた鉄格子の門は、開け閉めするたびに酷く軋む音を立てる。

 アリアは簡素な木綿のドレスに身を包み、花壇の雑草を抜いていた。

 指先には土が入り込み、手のひらには小さな擦り傷がいくつもできている。

 社交界の令嬢が持つべき白く滑らかな肌は、とうの昔に失われていた。

 昨夜の夜会での出来事が、まだ頭の片隅に重く居座っている。

 あの冷たい大理石の床、周囲の嘲笑、そしてセリウスの切実な瞳。

 思い出すたびに胸の奥が軋み、呼吸が浅くなるのを感じた。

 そのとき、屋敷の前の砂利道を重たい車輪が砕く音が響く。

 顔を上げると、見上げるほどに巨大な黒塗りの馬車が停まっていた。

 扉に刻印されているのは、銀の剣と盾をあしらった公爵家の紋章だ。

 心臓が跳ね上がり、手にしていた雑草が土の上に落ちた。

 御者が恭しく扉を開け、中から長身の青年が姿を現す。

 セリウスだった。

 昨夜の漆黒の礼服とは違い、濃緑色の乗馬服を身にまとっている。

 仕立ての良い生地が彼の引き締まった体躯を包み、隙のない洗練さを漂わせていた。

 しかし、その表情はどこか陰り、目の下には薄く疲労の色がにじんでいる。

 銀色の髪も普段より少し乱れ、彼がどれほど急いでここへ来たかを物語っていた。

 アリアは土のついた手をエプロンで拭い、深く腰を折って礼をとる。


「ようこそおいでくださいました、公爵閣下。このようなむさ苦しい場所へ」


 顔を上げたとき、セリウスの眉間に深いしわが刻まれるのが見えた。

 彼は足元の泥濘など気にする様子もなく、大股でアリアに近づいてくる。


「その呼び方はやめてくれと、何度も言っているはずだ」


 低く沈んだ声が、静かな庭園に響く。

 アリアは視線を逸らし、彼から一歩だけ距離を置いた。


「私は男爵家の娘に過ぎません。公爵閣下に対して無礼な振る舞いはできません」

「アリア」


 切羽詰まったような響きに、アリアは小さく肩を震わせた。

 昔のように名前を呼ばれるだけで、築き上げた決意が揺らいでしまいそうになる。


「立ち話もなんですから、中へどうぞ。お茶を淹れます」


 逃げるように背を向け、屋敷の中へと案内する。

 案内された応接間は、色褪せた壁紙と古びた家具ばかりが並ぶ狭い部屋だった。

 座面がすり減ったソファに、セリウスは静かに腰を下ろす。

 彼の存在感が大きすぎて、部屋がさらに狭く感じられた。

 アリアは厨房へ向かい、欠けのあるティーカップを二つ用意する。

 高価な茶葉などあるはずもなく、戸棚の奥にあった香りの薄い茶葉をお湯に沈めた。

 立ち上る湯気の向こうに、かつての光景が重なる。

 昔は彼が訪ねてくるとき、二人で笑い合いながらお茶を飲んでいた。

 彼はどんなに安い茶葉でも、美味しいと言って笑顔を見せてくれた。

 けれど今は、その笑顔を期待することすら罪のように思える。

 トレイに乗せたティーカップをテーブルに置き、アリアは向かいの椅子に座った。

 膝の上で両手を固く組み、背筋を伸ばして彼と向き合う。

 セリウスは紅茶に口をつけることなく、ただじっとアリアを見つめていた。


「昨夜は、すまなかった」


 沈黙を破ったのは、彼の方だった。


「私が不用意に近づいたせいで、君に不快な思いをさせた」

「とんでもございません。私の不注意でドレスを汚しただけのことです」


 淡々と返すアリアの言葉に、セリウスは苦しげに顔を歪める。

 彼はテーブルの上に置かれたアリアの手に向かって、ゆっくりと右手を伸ばした。

 大きな掌が、アリアの冷たい指先を包み込む。

 剣を振るい続けたことでできた硬いマメが、肌に触れた。

 伝わってくる体温はひどく熱い。

 それがアリアの胸の奥を激しく揺さぶった。


「私は、ただ君を助けたかっただけだ。昔のように」


 懇願するような彼の瞳から、アリアは無理やり目を逸らした。

 重なる体温に溺れてしまいたい衝動を、奥歯を噛み締めて押さえ込む。

 彼にふさわしいのは、自分のような落ちぶれた貴族の娘ではない。


「昔とは違います。あなたは公爵であり、私はただの男爵令嬢です」


 そっと彼の手を振りほどき、膝の上に戻す。

 空虚を掴んだ彼の手が、テーブルの上で力なく震えていた。

 そのとき、屋敷の玄関を乱暴に叩く音が響いた。

 重い足音とともに、磨き上げられた鎧を着た王室の騎士が応接間に足を踏み入れる。


「セリウス公爵閣下、こちらにおられましたか」


 騎士の額には汗が浮かび、息を切らしていた。


「なんだ、騒々しい」


 セリウスは鋭い視線を騎士に向ける。

 先ほどまでの痛ましさは消え、冷徹な公爵としての顔に戻っていた。


「王宮より至急の呼び出しです。王女殿下とのご婚約に向けた最終調整の場に、閣下の立ち会いが不可欠とのこと」


 騎士の言葉が、小さな応接間に響き渡る。

 アリアの視界が不意にぐらりと揺れた。

 耳の奥で、心臓の脈打つ音だけが異常に大きく鳴り響く。

 噂は本当だったのだ。

 彼は王女と結婚し、王家の人間となる。

 それは公爵として、最も名誉で輝かしい未来のはずだった。

 セリウスが弾かれたように立ち上がり、アリアを振り返る。


「違う、アリア。これは」


 言い淀む彼の顔には、かつて見たことのない焦燥が浮かんでいた。

 何かを弁明しようとする彼に向けて、アリアは静かに微笑んでみせた。


「おめでとうございます、公爵閣下」


 喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど平坦だった。


「素晴らしいご縁ですね。どうか、王女殿下を大切になさってください」

「待ってくれ、話を聞いてほしい。私は」

「お急ぎください。王室の方をお待たせするわけにはまいりません」


 冷たく遮る言葉に、セリウスは息を詰まらせた。

 騎士が苛立たしげに足を踏み鳴らし、出発を急かす。

 セリウスは何度もアリアを振り返りながら、重い足取りで扉へと向かった。


「必ず戻る。だから、私の話を聞いてくれ」


 去り際に残された言葉は、虚空に溶けて消えた。

 馬車の車輪が砂利を蹴り上げる音が遠ざかっていく。

 静まり返った応接間に、アリアは一人取り残された。

 テーブルの上には、手付かずのまま冷え切った紅茶が残されている。

 アリアは自らの両手を見つめた。

 先ほどまで彼に握られていた右手が、ひどく冷たく感じられる。


『私がここにいては、彼の邪魔になる』


 彼が王女と結ばれ、完璧な未来を手に入れるために。

 不要な過去の遺物は、静かに消え去るべきなのだ。


 ◆ ◆ ◆


 アリアは立ち上がり、寝室の古い木箱から粗末な革の鞄を取り出した。

 冷たい布地の手触りが、彼女の決意を静かに後押ししていた。

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