第2話「すり抜ける温度」
男爵家の庭園には、手入れの行き届いていない草木が生い茂っている。
朝の光が葉の上の朝露を照らし、足元の泥濘が湿った土の匂いを放っていた。
錆びついた鉄格子の門は、開け閉めするたびに酷く軋む音を立てる。
アリアは簡素な木綿のドレスに身を包み、花壇の雑草を抜いていた。
指先には土が入り込み、手のひらには小さな擦り傷がいくつもできている。
社交界の令嬢が持つべき白く滑らかな肌は、とうの昔に失われていた。
昨夜の夜会での出来事が、まだ頭の片隅に重く居座っている。
あの冷たい大理石の床、周囲の嘲笑、そしてセリウスの切実な瞳。
思い出すたびに胸の奥が軋み、呼吸が浅くなるのを感じた。
そのとき、屋敷の前の砂利道を重たい車輪が砕く音が響く。
顔を上げると、見上げるほどに巨大な黒塗りの馬車が停まっていた。
扉に刻印されているのは、銀の剣と盾をあしらった公爵家の紋章だ。
心臓が跳ね上がり、手にしていた雑草が土の上に落ちた。
御者が恭しく扉を開け、中から長身の青年が姿を現す。
セリウスだった。
昨夜の漆黒の礼服とは違い、濃緑色の乗馬服を身にまとっている。
仕立ての良い生地が彼の引き締まった体躯を包み、隙のない洗練さを漂わせていた。
しかし、その表情はどこか陰り、目の下には薄く疲労の色がにじんでいる。
銀色の髪も普段より少し乱れ、彼がどれほど急いでここへ来たかを物語っていた。
アリアは土のついた手をエプロンで拭い、深く腰を折って礼をとる。
「ようこそおいでくださいました、公爵閣下。このようなむさ苦しい場所へ」
顔を上げたとき、セリウスの眉間に深いしわが刻まれるのが見えた。
彼は足元の泥濘など気にする様子もなく、大股でアリアに近づいてくる。
「その呼び方はやめてくれと、何度も言っているはずだ」
低く沈んだ声が、静かな庭園に響く。
アリアは視線を逸らし、彼から一歩だけ距離を置いた。
「私は男爵家の娘に過ぎません。公爵閣下に対して無礼な振る舞いはできません」
「アリア」
切羽詰まったような響きに、アリアは小さく肩を震わせた。
昔のように名前を呼ばれるだけで、築き上げた決意が揺らいでしまいそうになる。
「立ち話もなんですから、中へどうぞ。お茶を淹れます」
逃げるように背を向け、屋敷の中へと案内する。
案内された応接間は、色褪せた壁紙と古びた家具ばかりが並ぶ狭い部屋だった。
座面がすり減ったソファに、セリウスは静かに腰を下ろす。
彼の存在感が大きすぎて、部屋がさらに狭く感じられた。
アリアは厨房へ向かい、欠けのあるティーカップを二つ用意する。
高価な茶葉などあるはずもなく、戸棚の奥にあった香りの薄い茶葉をお湯に沈めた。
立ち上る湯気の向こうに、かつての光景が重なる。
昔は彼が訪ねてくるとき、二人で笑い合いながらお茶を飲んでいた。
彼はどんなに安い茶葉でも、美味しいと言って笑顔を見せてくれた。
けれど今は、その笑顔を期待することすら罪のように思える。
トレイに乗せたティーカップをテーブルに置き、アリアは向かいの椅子に座った。
膝の上で両手を固く組み、背筋を伸ばして彼と向き合う。
セリウスは紅茶に口をつけることなく、ただじっとアリアを見つめていた。
「昨夜は、すまなかった」
沈黙を破ったのは、彼の方だった。
「私が不用意に近づいたせいで、君に不快な思いをさせた」
「とんでもございません。私の不注意でドレスを汚しただけのことです」
淡々と返すアリアの言葉に、セリウスは苦しげに顔を歪める。
彼はテーブルの上に置かれたアリアの手に向かって、ゆっくりと右手を伸ばした。
大きな掌が、アリアの冷たい指先を包み込む。
剣を振るい続けたことでできた硬いマメが、肌に触れた。
伝わってくる体温はひどく熱い。
それがアリアの胸の奥を激しく揺さぶった。
「私は、ただ君を助けたかっただけだ。昔のように」
懇願するような彼の瞳から、アリアは無理やり目を逸らした。
重なる体温に溺れてしまいたい衝動を、奥歯を噛み締めて押さえ込む。
彼にふさわしいのは、自分のような落ちぶれた貴族の娘ではない。
「昔とは違います。あなたは公爵であり、私はただの男爵令嬢です」
そっと彼の手を振りほどき、膝の上に戻す。
空虚を掴んだ彼の手が、テーブルの上で力なく震えていた。
そのとき、屋敷の玄関を乱暴に叩く音が響いた。
重い足音とともに、磨き上げられた鎧を着た王室の騎士が応接間に足を踏み入れる。
「セリウス公爵閣下、こちらにおられましたか」
騎士の額には汗が浮かび、息を切らしていた。
「なんだ、騒々しい」
セリウスは鋭い視線を騎士に向ける。
先ほどまでの痛ましさは消え、冷徹な公爵としての顔に戻っていた。
「王宮より至急の呼び出しです。王女殿下とのご婚約に向けた最終調整の場に、閣下の立ち会いが不可欠とのこと」
騎士の言葉が、小さな応接間に響き渡る。
アリアの視界が不意にぐらりと揺れた。
耳の奥で、心臓の脈打つ音だけが異常に大きく鳴り響く。
噂は本当だったのだ。
彼は王女と結婚し、王家の人間となる。
それは公爵として、最も名誉で輝かしい未来のはずだった。
セリウスが弾かれたように立ち上がり、アリアを振り返る。
「違う、アリア。これは」
言い淀む彼の顔には、かつて見たことのない焦燥が浮かんでいた。
何かを弁明しようとする彼に向けて、アリアは静かに微笑んでみせた。
「おめでとうございます、公爵閣下」
喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「素晴らしいご縁ですね。どうか、王女殿下を大切になさってください」
「待ってくれ、話を聞いてほしい。私は」
「お急ぎください。王室の方をお待たせするわけにはまいりません」
冷たく遮る言葉に、セリウスは息を詰まらせた。
騎士が苛立たしげに足を踏み鳴らし、出発を急かす。
セリウスは何度もアリアを振り返りながら、重い足取りで扉へと向かった。
「必ず戻る。だから、私の話を聞いてくれ」
去り際に残された言葉は、虚空に溶けて消えた。
馬車の車輪が砂利を蹴り上げる音が遠ざかっていく。
静まり返った応接間に、アリアは一人取り残された。
テーブルの上には、手付かずのまま冷え切った紅茶が残されている。
アリアは自らの両手を見つめた。
先ほどまで彼に握られていた右手が、ひどく冷たく感じられる。
『私がここにいては、彼の邪魔になる』
彼が王女と結ばれ、完璧な未来を手に入れるために。
不要な過去の遺物は、静かに消え去るべきなのだ。
◆ ◆ ◆
アリアは立ち上がり、寝室の古い木箱から粗末な革の鞄を取り出した。
冷たい布地の手触りが、彼女の決意を静かに後押ししていた。




