第1話「遠ざかる背中」
登場人物紹介
◇アリア
つつましい男爵家の令嬢。
控えめで心優しい性格だが、芯の強さも持ち合わせている。
幼馴染のセリウスに長年想いを寄せているが、身分差を理由にその感情に蓋をし、彼のためを思って身を引こうとする。
◇セリウス
若くして公爵位を継いだ美貌の青年。
冷たく優秀な当主として社交界で一目置かれつつも高い人気を誇る。
実は幼い頃からアリアに対して深い執着と愛情を抱いており、彼女を自らの妻にするために長年かけて周到な計画を進めてきた。
シャンデリアの眩い光が、広間の大理石を滑るように照らしている。
着飾った貴族たちが交わす笑い声が、波のように寄せては返す。
弦楽器が奏でる優雅な旋律が、人々のざわめきの下を縫うように流れていた。
幾十もの蝋燭が燃える熱気と、甘すぎる香水の匂いが鼻を突く。
熟成された果実酒の芳醇な香りが、空気をさらに重くしていた。
壁際にある分厚いベルベットのカーテンの陰に、アリアは身を潜めている。
手にしたグラスの冷たさだけが、今の彼女を現実に繋ぎ止めていた。
グラスの表面に結露した水滴が、指先を伝って滑り落ちる。
広間の中央には、誰よりも目を引く青年が立っていた。
夜空を切り取ったような漆黒の礼服が、彼の長身を隙なく包み込んでいる。
肩に掛けられた濃紺のマントが、彼が動くたびに重厚な軌跡を描いた。
襟元に輝く黄金の刺繍は、彼が背負う権力の大きさを無言で示す。
銀糸を紡いだような髪が、シャンデリアの光を弾いて冷たく輝いていた。
氷を思わせる青い瞳は、周囲を取り囲む人々を静かに見下ろしている。
若くして公爵位を継いだセリウス。
彼こそが、この夜会における中心だった。
美しい令嬢たちが、色とりどりの扇で口元を隠しながら彼を取り囲んでいる。
絹が擦れ合う音が、耳障りなほどに重なり合っていた。
高位の貴族たちが、彼に取り入ろうと隙を窺って身を乗り出している。
セリウスは表情を崩すことなく、短い言葉でそれらに応じた。
唇の端に張り付けられた微かな微笑みは、誰の心にも届かない冷え切ったものだ。
その佇まいは、まるで手の届かない遠い星のように見えた。
アリアはそっと息を吐き出す。
吐息は誰の耳にも届くことなく、熱気を帯びた空気の中に溶けていった。
自身の身なりを見下ろし、小さく唇を噛む。
身に着けているドレスは、母のお下がりを何度も仕立て直したものだ。
色褪せた水色の生地は、このきらびやかな広間ではひどくみすぼらしく映る。
袖口にあしらわれた古びたレースを、もう片方の手でそっと覆い隠した。
周囲の令嬢たちが身にまとう最新の絹や宝石とは、比べることすらおこがましい。
胸の奥で、乾いた風が吹き抜けるような虚しさが広がっていく。
アリアは自身の腕を抱くようにして、さらに壁際へと身を引いた。
誰の目にも留まらないよう、ただ息を潜める。
彼との距離を測ることすら、今の自分には許されないのだ。
『昔は、もっと近くにいたはずなのに』
記憶の中のセリウスは、いつも泥だらけだった。
領地の森を駆け回り、木登りをしては服を破いていた。
転んで膝を擦りむいたアリアの手を引き、笑いかけてくれた温かな記憶。
彼の掌はいつも熱を帯びていて、握られているだけで安心できた。
陽だまりの匂いがするその背中を、いつまでも追いかけていられると信じていた。
しかし、そんな日々は遠い過去の幻に過ぎない。
彼が公爵家を継いだあの日から、二人の間の距離は決定的なものになった。
今のアリアは、領地の経営に行き詰まる男爵家の令嬢に過ぎない。
そのとき、不意に視線の重みを感じてアリアは顔を上げた。
人波の隙間から、セリウスの青い瞳が真っ直ぐにこちらを射抜いている。
呼吸が止まる。
周囲のざわめきが、一瞬だけ遠ざかった気がした。
交わった視線が、目に見えない糸のように二人を繋ぐ。
彼はこちらに向かって、僅かに足を踏み出そうとした。
しかし、すぐに恰幅の良い伯爵が彼の前に立ち塞がる。
セリウスの足が止まり、その視線がアリアから外れた。
胸の奥で、鋭い痛みが走る。
安堵なのか、それとも落胆なのか、自分でもわからない。
ただ、これ以上この華やかな場所にいることは限界だった。
空になったグラスを近くのテーブルに置く。
広間の出口を目指して、壁沿いにそっと歩き出した。
できるだけ足音を殺し、誰の視界にも入らないように身を縮める。
そのとき、曲がり角から歩いてきた令嬢と肩が強くぶつかった。
令嬢の手にあったワイングラスが大きく傾く。
赤い液体が弧を描き、アリアのドレスの裾に降り注いだ。
冷たい感触が脚に広がる。
色褪せた水色の生地に、赤黒い染みが痛々しく広がっていた。
熟成された葡萄の匂いが、鼻先を掠める。
令嬢が扇で口元を覆い、刺すような声を上げた。
「まあ、なんてこと。私のドレスが汚れるところだったわ」
謝罪の言葉はなく、ただ迷惑そうな視線がアリアに突き刺さる。
周囲の人々が歩みを止め、面白半分にこちらを振り向いた。
好奇の目と、あからさまな嘲笑が混ざり合う。
アリアは震える唇を噛み締め、深く頭を下げた。
「申し訳ございません。私の不注意です」
声が震えないよう、必死に喉の奥に力を込める。
早くこの場を離れなければ。
そう思って身を翻そうとした瞬間、広間の空気が一変した。
ざわめきが波を打つように消え去り、重い静寂が降りる。
人垣が左右に割れ、一つの道ができた。
そこを歩いてくるのは、セリウスだった。
彼の靴音が、大理石の床に冷たく響き渡る。
普段の穏やかな歩みとは違う、鋭く張り詰めた足取りだった。
周囲の貴族たちが、その異様な気配に押されて後ずさる。
ワインをこぼした令嬢の顔から、さっと血の気が引いていくのが見えた。
セリウスはアリアの目の前で立ち止まった。
その長身が、広間の光を遮ってアリアの上に深い影を落とす。
彼は何も言わず、自らの胸元から真っ白な絹のハンカチを取り出した。
公爵家の紋章が金糸で縫い取られた、美しい布地。
彼はそれを手に、汚れたドレスを拭うために膝を折ろうとする。
アリアは息を呑み、とっさに一歩後退した。
「いけません、公爵閣下」
張り詰めた声が、静寂の広間に響く。
セリウス様、という昔からの呼び名を飲み込み、あえて爵位で呼んだ。
公爵である彼が、男爵令嬢のために膝をつくなど許されるはずがない。
ましてや、こんな大勢の貴族たちの前で。
セリウスの動きが止まる。
彼が見上げた瞳の奥には、黒い炎のような感情が揺らいでいた。
怒りにも、悲しみにも似た、ひどく切実な色。
手首を掴もうと彼が伸ばした手を、アリアは背中に隠すようにして避けた。
空を切った彼の手が、空中で行き場を失う。
周囲から、なぜ公爵閣下があんな惨めな娘に関わるのかという戸惑いや、男爵家の分際で彼の手を拒むなんてという非難の囁きが漏れ始めた。
刃のような言葉の数々が、アリアの心を容赦なく切り裂いていく。
これ以上、彼をこの騒ぎに巻き込むわけにはいかない。
アリアは震える手でドレスの裾をつまみ、深く礼をとった。
「お気遣い、感謝いたします。ですが、私はこれで失礼いたします」
顔を上げることなく、背を向けて立ち去る。
背中越しに、彼が小さく息を呑む音が聞こえた気がした。
しかし、アリアは立ち止まることなく広間の重い扉へと向かった。
◆ ◆ ◆
扉を抜け、人気の無い廊下に出る。
窓から吹き込む夜風が、火照った頬を打ち据えた。
暗闇の中で、ようやく深く息を吸い込む。
肺の奥まで冷たい空気を満たし、込み上げてくる熱を押し殺した。
彼との間に引かれた境界線は、もう決して超えられない。
その事実だけが、冷たい夜の空気とともにアリアを包み込んでいた。




