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没落寸前の男爵令嬢なのに、冷徹な美貌の公爵が我が家を買い取って私のすべては俺のものだと迫ってくる  作者: 黒崎 隼人


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19/20

番外編「氷の玉座の裏側」

 ◇セリウス視点


 公爵家の本館の最奥に位置する広大な書斎は、真夏であっても常に冷ややかな空気に満ちていた。

 厚い樫の木の机の上に山のように積み上げられた報告書の束に、セリウスは疲労でひどく重くなった視線を落とす。

 父の急死によって若くして当主の座に就いたあの日から、彼の周囲は隙あらば寝首を掻こうとする政敵ばかりだった。

 毒の混入を避けるために与えられた水すら満足に飲めず、寝台の枕元に短剣を隠し持って短い眠りにつく日々が何年も続いている。

 そんな暗く血生臭い日々の中で、彼が狂うことなく正気を保つための唯一の理由が、王都の片隅にいる一人の少女だった。


『アリア・メルローズ男爵令嬢。本日は下町の市場にて、最も安価な根菜と古着を購入』


 影の護衛から毎日欠かさず届けられる報告書を読むときだけが、セリウスの肺に新鮮な空気が入る瞬間だった。

 没落していく生家を細腕一つで支え、粗末な服を着て泥にまみれる彼女の姿を想像するたび、心臓が直接握り潰されるように痛む。

 今すぐにでも公爵家の莫大な財力で彼女を助け出し、誰も手の届かない豪華な部屋の奥深くへと閉じ込めてしまいたかった。

 しかし、力が備わっていない段階でそんな真似をすれば、彼女は確実に政敵たちの格好の標的となる。

 後ろ盾を持たない下級貴族の娘など、公爵の最大の弱点として暗殺されるか、人質として拉致されるのが関の山だ。

 彼女を誰にも傷つけられずに安全に妻として迎えるためには、セリウス自身が何者にも脅かされない強大な権力を掌握するしかなかった。

 そのためには、自身の中に渦巻く昏い恋情を深く隠し、冷酷な氷の公爵としての仮面を顔に張り付け続ける必要がある。

 王女との間に流した偽装婚約の噂も、その盤石な地盤固めの一環に過ぎなかった。

 他国への望まない輿入れを嫌がる王女と秘密裏に利害が一致し、表面上だけの婚約者のふりをする。

 その噂を隠れ蓑にして、セリウスは自らの邪魔になる高位貴族たちを次々と失脚させ、自らの勢力を確実に拡大していった。

 全ては順調に進み、長年の一掃計画が完了したあの夜会の後で、彼女を大々的に迎えに行くだけのはずだった。

 しかし、自らが密かに贈ったドレスを着ずに、青ざめた顔で王宮の庭園に現れたアリアを見た瞬間、長年の緻密な計算が音を立てて崩れ去った。

 彼女の瞳から自分への期待が完全に失われていることに気づき、背筋に冷たい刃を深々と突き立てられたような恐怖を覚えたのだ。

 周囲の貴族たちの目などどうでもよくなり、気がつけば大階段を駆け下りて彼女の細い腕をきつく掴んでいた。

 その夜、彼女が男爵邸から姿を消したという報告を受けたとき、セリウスは初めて自らの過剰な忍耐を呪った。

 月のない夜の闇の中、馬の腹を蹴って走らせながら、もし彼女がこのまま自分の前から消えてしまったら、この国ごと全てを焼き尽くしてやると本気で考えた。

 粗末な荷馬車の奥で震える彼女を見つけたときの、安堵と胸を切り裂くような痛みは今でも忘れることができない。


『君の全ては私のものだ』


 薄暗い荷台の中で口にした言葉は、美しい愛の告白などではなく、泥のように濁った執着の塊だった。

 それでも、彼女はその恐ろしい執着を受け入れ、自分の隣で生きることを選んでくれた。

 机の引き出しの奥に隠されていた古い報告書の束を燃炉の火に放り投げ、セリウスは静かに立ち上がる。

 彼が帰るべき場所は、もうこの冷たい書斎の中にはない。

 愛するただ一人の妻が待つ、温かな陽だまりの部屋だけだ。

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