エピローグ「終わらない春の陽だまり」
公爵家が所有する南部の広大な領地には、王都の厳しい冬の寒さが嘘のように、穏やかな春の陽光が降り注いでいた。
ガラス張りの巨大な温室の中には、幾種類もの色彩豊かな薔薇が咲き乱れ、甘く重い香りを空間の隅々にまで満たしている。
籐で編まれた長椅子に深く腰掛けたアリアは、膝の上に広げた分厚い植物図鑑から静かに顔を上げた。
ふくらみを大きく増した自らの腹部に手を当てると、内側から小さな命が力強く蹴り上げる確かな感触が手のひらに伝わってくる。
「元気な子ね。お父様に似て、とても力が強いのかしら」
誰にともなく口に出した声は、かつての男爵邸で未来に怯えていた少女のものとは思えないほどに穏やかだった。
温室の重いガラス戸が開き、微かな足音とともに高い背丈の男性が姿を現す。
領地の視察を終えたばかりのセリウスが、執務用の黒い上着を脱ぎ捨てながら足早に歩み寄ってきた。
「ここは冷えるのではないかと言ったはずだ。なぜ厚手のショールを羽織っていない」
彼は手にしたカシミアのショールをアリアの肩に掛け、そのまま彼女の身体を壊れ物のように気遣って抱きすくめる。
「ここは日当たりの良い温室ですから、少しも寒くありませんよ。それに、今の時間は日差しがとても暖かいですから」
アリアが首を傾げて微笑むと、セリウスの張り詰めていた表情が少しだけ緩んで息を吐き出した。
彼がアリアを甘やかす度合いは、結婚して数年が経過した今でも少しも変わっていない。
それどころか、アリアの腹部に新しい命が宿ってからは、彼の過保護ぶりはさらに拍車がかかっていた。
少しでも足元がふらつけば即座に抱き上げられ、食事の温度から寝室の湿度に至るまで、彼自身が全てを細かく管理している。
「あまり過保護にされると、生まれてくる子供まで甘やかされて育ってしまいますよ」
「構わない。君と私の子供だ、世界中の誰よりも甘やかして育てる義務が私にはある」
セリウスは長椅子に腰を下ろし、アリアの膨らんだ腹部にそっと大きな掌を添えた。
彼の手のひらを通して、子供の小さな連続した蹴りが彼にも伝わったのか、彼の青い瞳が驚きに見開かれる。
「動いた……。信じられないほど、力強い命の鼓動だ」
冷酷な氷の公爵と周囲から恐れられていた男が、小さな命の動きに言葉を失い、泣きそうな顔をして固まっている。
その不器用な姿がひどく愛おしくて、アリアは彼の手を自分の両手で上から優しく包み込んだ。
「あなたの美しい銀の髪に似るか、私の茶色の髪に似るか、今からとても楽しみですね」
「君に似てくれた方がいい。私に似て頑固になっては、君が苦労するからな」
セリウスは自嘲気味に笑い、アリアの額に深く長い口づけを落とした。
高い窓から差し込む太陽の光が二人の影を長く伸ばし、温室の白い石の床の上で一つに溶け合わせている。
長く、そして酷く冷たかった彼らの冬は、とうの昔に終わりを告げていた。
彼が何年もの歳月を懸けて築き上げてくれたこの安全で温かな鳥籠の中で、アリアはこれからも果てしない愛を注がれ続けるのだろう。
背中に回された彼の強い腕の感触に身を委ねながら、アリアは静かに目を閉じた。
花々の香りと彼の高い体温に包まれたこの場所は、永遠に終わることのない春の陽だまりだった。




