第46話 最奥
最後の回廊は、ひどく静かだった。
ここまで来るあいだに何度も白い壁を見てきたはずなのに、最奥へ近づくほど、その白さだけが別の意味を持ち始める。清潔ではなく、削り取られた色の名残みたいだった。
ルゥ=イリスは息を浅くし、足音をできるだけ石床へ沈めながら進んだ。
回廊は長くはない。
だが、ここまでのどの通路よりも密度がある。
壁に刻まれた祈りの意匠は少なく、代わりに術式の線が細く走っている。飾りではない。機構としての線だ。灯りは抑えられているのに、床に描かれた白い紋だけはぼんやりと浮き、踏むたびに足裏へ微かな震えが伝わる。
祈りの場というより、祈りを技術に変えるための通路。
そんな感じがした。
白衣の補佐がひとり、角の先で立ち止まっていた。
祈祷文を刻んだ板を抱え、巡回の合間らしく灯りの具合を見ている。
ルゥはすぐ近くの柱陰へ身体を押しつけた。
柱の冷たさが肩へ伝わる。
鼻先に、薄い薬品と乾いた花の匂い。
白い施設の匂いだ。
薄く、均されていて、刺激だけが抜かれている。
補佐が去るのを待つ。
慌ててはいけない。
ここまで来て焦れば、それだけで終わる。
やがて白衣の裾が角を曲がり、足音が遠ざかった。
ルゥは呼吸をひとつ整え、柱陰から離れる。
最奥は近い。
分かるのは、空気が少しずつ変わっていくからだ。
祈りの気配が濃くなるわけではない。
むしろ逆だった。
人の声は減り、灯りも弱く、静かになる。
そのくせ、何か巨大なものがすでに動いている気配だけが、床と壁の奥に満ちている。
まるで建物そのものが息を潜めているみたいだった。
回廊の途中、細い格子窓がひとつだけ外へ開いていた。
そこから見える夜は深い。
施設の裏手、さらに向こう、街の端の方ではまだ灯がちらちらと残っている。荷揚げ場か、夜通し開いている宿屋か、あるいはエルヴィンたちが動かしている避難導線か。
遠くで、人のざわめきがほんの僅かに混じっていた。
完全な静寂ではない。
外でも何かが動いている。
エルヴィンは言っていた。外部封鎖と避難誘導はやる、と。必要ならギルドも動かす、と。全面制圧ではない。そんな力はない。けれど、崩れるなら崩れるで、せめて巻き込まれる者を減らすしかない、と。
そしてたぶん、オレリアン側の治安要員も出ている。
教団の全面発動は、向こうにとっても都合が悪い。
使える理屈でも、制御不能になれば意味がない。
そういう現実だけが、今だけこちらと噛み合っている。
それが腹立たしい。
同じものを止めようとしていても、見ている先は同じではない。
エルヴィンは巻き込まれる人間を減らしたい。
オレリアンは秩序の崩壊を抑えたい。
ルゥは、ここまで来てもなお、ミナと母の顔を見ている。
それでも前へ行くしかなかった。
次の角を曲がると、回廊はそこで終わっていた。
扉は開かれている。
いや、正確には、開かれたまま固定されていた。
儀式の最中なのだろう。
閉じることを前提にしていない入口。
ルゥは壁沿いに寄り、扉の脇から中を見た。
息が止まる。
広かった。
聖堂というほど華美ではない。
診療棟というには広すぎる。
そのどちらでもあるような空間だった。
白い床一面に、幾重もの術式円が描かれている。
外周には祈祷師たち。
その内側に、白衣の補佐と医療役。
さらに中心へ近い位置に、いくつもの寝台めいた台。
寝台ではある。だが休ませるためのものではない。媒介を固定し、接続し、流れへ組み込むための台だと一目で分かった。
術式の線は単純ではない。
種族ごとの魔法紋。
属性干渉を示す符。
医療系の制御図。
祈りの文字。
それら全部が複雑に絡み合い、個人の処置を超えて、空間そのものをひとつの巨大な機構へ変えている。
多様だった。
皮肉なほどに。
差異を薄めるための儀式の床が、誰よりも多くの差異の記号で埋め尽くされている。
世界から過剰な魔法性を均そうとする場所が、もっとも濃く魔法性を集めている。
その中央に、白い座があった。
誰も座っていない。
座ではある。
壇上というほど高くはない。
けれど、確かに中心だった。
白い円環のど真ん中、あらゆる術式線が最後にそこへ収束し、そこから再び全体へ広がっている。
人ひとりが座れる広さ。
だが誰もいない。
ルゥはそれを見た瞬間、ぞっとした。
Cael。
教祖の席。
けれど教祖はいない。
最初からいない。
それでも、その不在の座だけが、この儀式のいちばん深い中心に見えた。
誰もいないからこそ、誰でもそこへ祈れる。
誰もいないからこそ、個人の死や失脚では終わらない。
救いを必要とする者が、自分の欠けたものを勝手にあそこへ置ける。
Cael はいなかったのではない。
空席のまま、機能していたのだ。
ルゥの喉が冷える。
ひとりの啓示ではない。
必要そのものが、教祖の形を取っている。
その空席の周囲に、媒介たちが配置されていた。
何人もいる。
白布を巻かれた者。
すでに献形を受けたらしい者。
目を閉じ、半ば眠ったように術式へ身を預けている者。
年齢も種族もばらばらだ。
そして、その中に。
ミナがいた。
ルゥの視界から、いったん他のすべてが遠のいた。
中央にもっとも近い台のひとつ。
完全な中心ではない。
けれど、かなり深い位置。
白い布の上に横たえられ、胸元から腕にかけて細い術式帯が渡されている。耳の処置痕はそのままだ。第二献形を受けたようには見えない。少なくとも大きな身体改変はされていない。
なのに、そこにいる。
ルゥは一瞬、それがどういう意味か分からなかった。
いや、分かりたくなかっただけかもしれない。
完全に整えられた者ではない。
まだ揺らぎが残っている。
まだ均され切っていない。
その方が、広域干渉の核には向いている。
未完成だから使われる。
それがひどく残酷だった。
ルゥの手が、扉の脇の石を強く掴む。
冷たさでようやく、叫ばずにいられる。
ミナは目を閉じているように見えた。
いや、半分だけ。
眠っているのとも違う。
意識が薄く、けれど完全には途切れていない顔だ。
その時、ミナの指先がほんの僅かに動いた。
ルゥは息を止めた。
偶然かもしれない。
術式帯の震えかもしれない。
でも違った。
ミナの目が、ゆっくりと開く。
焦点の合いきらない、薄い目。
それでもその視線は、儀式場の白い光を越え、扉の脇の暗がりへ留まった。
気づいた。
それだけで分かる。
名前を呼ばなくても。
涙も驚きもなく、ただ呼吸の深さだけが一瞬変わった。
指先に、微かな力が戻る。
残っている。
その事実が、希望より先に痛みになる。
ここまで来ても、まだ間に合うとは思えなかった。
儀式はもう始まっている。
術式円は淡く脈打ち、祈祷師たちは低く声を重ねている。
白い座の空席は、誰もいないくせに中心として機能し続けている。
いまここで全部を止めるには、もう遅すぎるかもしれない。
それでもルゥは、扉の脇から身体を離した。
間に合うかどうかではない。
もう見ているだけでは終われなかったからだ。
中央の白い座には、最後まで誰もいなかった。
それなのに、あの場所だけが、この儀式のいちばん深い中心に見えた。




