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君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第12章 君の耳は、もう要らない

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第46話 最奥

 最後の回廊は、ひどく静かだった。


 ここまで来るあいだに何度も白い壁を見てきたはずなのに、最奥へ近づくほど、その白さだけが別の意味を持ち始める。清潔ではなく、削り取られた色の名残みたいだった。


 ルゥ=イリスは息を浅くし、足音をできるだけ石床へ沈めながら進んだ。


 回廊は長くはない。

 だが、ここまでのどの通路よりも密度がある。

 壁に刻まれた祈りの意匠は少なく、代わりに術式の線が細く走っている。飾りではない。機構としての線だ。灯りは抑えられているのに、床に描かれた白い紋だけはぼんやりと浮き、踏むたびに足裏へ微かな震えが伝わる。


 祈りの場というより、祈りを技術に変えるための通路。

 そんな感じがした。


 白衣の補佐がひとり、角の先で立ち止まっていた。

 祈祷文を刻んだ板を抱え、巡回の合間らしく灯りの具合を見ている。

 ルゥはすぐ近くの柱陰へ身体を押しつけた。


 柱の冷たさが肩へ伝わる。

 鼻先に、薄い薬品と乾いた花の匂い。

 白い施設の匂いだ。

 薄く、均されていて、刺激だけが抜かれている。


 補佐が去るのを待つ。

 慌ててはいけない。

 ここまで来て焦れば、それだけで終わる。


 やがて白衣の裾が角を曲がり、足音が遠ざかった。

 ルゥは呼吸をひとつ整え、柱陰から離れる。


 最奥は近い。

 分かるのは、空気が少しずつ変わっていくからだ。


 祈りの気配が濃くなるわけではない。

 むしろ逆だった。

 人の声は減り、灯りも弱く、静かになる。

 そのくせ、何か巨大なものがすでに動いている気配だけが、床と壁の奥に満ちている。


 まるで建物そのものが息を潜めているみたいだった。


 回廊の途中、細い格子窓がひとつだけ外へ開いていた。

 そこから見える夜は深い。

 施設の裏手、さらに向こう、街の端の方ではまだ灯がちらちらと残っている。荷揚げ場か、夜通し開いている宿屋か、あるいはエルヴィンたちが動かしている避難導線か。


 遠くで、人のざわめきがほんの僅かに混じっていた。


 完全な静寂ではない。

 外でも何かが動いている。

 エルヴィンは言っていた。外部封鎖と避難誘導はやる、と。必要ならギルドも動かす、と。全面制圧ではない。そんな力はない。けれど、崩れるなら崩れるで、せめて巻き込まれる者を減らすしかない、と。


 そしてたぶん、オレリアン側の治安要員も出ている。


 教団の全面発動は、向こうにとっても都合が悪い。

 使える理屈でも、制御不能になれば意味がない。

 そういう現実だけが、今だけこちらと噛み合っている。


 それが腹立たしい。


 同じものを止めようとしていても、見ている先は同じではない。

 エルヴィンは巻き込まれる人間を減らしたい。

 オレリアンは秩序の崩壊を抑えたい。

 ルゥは、ここまで来てもなお、ミナと母の顔を見ている。


 それでも前へ行くしかなかった。


 次の角を曲がると、回廊はそこで終わっていた。


 扉は開かれている。

 いや、正確には、開かれたまま固定されていた。

 儀式の最中なのだろう。

 閉じることを前提にしていない入口。


 ルゥは壁沿いに寄り、扉の脇から中を見た。


 息が止まる。


 広かった。


 聖堂というほど華美ではない。

 診療棟というには広すぎる。

 そのどちらでもあるような空間だった。


 白い床一面に、幾重もの術式円が描かれている。

 外周には祈祷師たち。

 その内側に、白衣の補佐と医療役。

 さらに中心へ近い位置に、いくつもの寝台めいた台。

 寝台ではある。だが休ませるためのものではない。媒介を固定し、接続し、流れへ組み込むための台だと一目で分かった。


 術式の線は単純ではない。

 種族ごとの魔法紋。

 属性干渉を示す符。

 医療系の制御図。

 祈りの文字。

 それら全部が複雑に絡み合い、個人の処置を超えて、空間そのものをひとつの巨大な機構へ変えている。


 多様だった。


 皮肉なほどに。


 差異を薄めるための儀式の床が、誰よりも多くの差異の記号で埋め尽くされている。

 世界から過剰な魔法性を均そうとする場所が、もっとも濃く魔法性を集めている。


 その中央に、白い座があった。


 誰も座っていない。


 座ではある。

 壇上というほど高くはない。

 けれど、確かに中心だった。

 白い円環のど真ん中、あらゆる術式線が最後にそこへ収束し、そこから再び全体へ広がっている。


 人ひとりが座れる広さ。

 だが誰もいない。


 ルゥはそれを見た瞬間、ぞっとした。


 Cael。


 教祖の席。

 けれど教祖はいない。

 最初からいない。

 それでも、その不在の座だけが、この儀式のいちばん深い中心に見えた。


 誰もいないからこそ、誰でもそこへ祈れる。

 誰もいないからこそ、個人の死や失脚では終わらない。

 救いを必要とする者が、自分の欠けたものを勝手にあそこへ置ける。


 Cael はいなかったのではない。

 空席のまま、機能していたのだ。


 ルゥの喉が冷える。


 ひとりの啓示ではない。

 必要そのものが、教祖の形を取っている。


 その空席の周囲に、媒介たちが配置されていた。


 何人もいる。

 白布を巻かれた者。

 すでに献形を受けたらしい者。

 目を閉じ、半ば眠ったように術式へ身を預けている者。

 年齢も種族もばらばらだ。


 そして、その中に。


 ミナがいた。


 ルゥの視界から、いったん他のすべてが遠のいた。


 中央にもっとも近い台のひとつ。

 完全な中心ではない。

 けれど、かなり深い位置。

 白い布の上に横たえられ、胸元から腕にかけて細い術式帯が渡されている。耳の処置痕はそのままだ。第二献形を受けたようには見えない。少なくとも大きな身体改変はされていない。


 なのに、そこにいる。


 ルゥは一瞬、それがどういう意味か分からなかった。

 いや、分かりたくなかっただけかもしれない。


 完全に整えられた者ではない。

 まだ揺らぎが残っている。

 まだ均され切っていない。

 

 その方が、広域干渉の核には向いている。


 未完成だから使われる。

 それがひどく残酷だった。


 ルゥの手が、扉の脇の石を強く掴む。

 冷たさでようやく、叫ばずにいられる。


 ミナは目を閉じているように見えた。

 いや、半分だけ。

 眠っているのとも違う。

 意識が薄く、けれど完全には途切れていない顔だ。


 その時、ミナの指先がほんの僅かに動いた。


 ルゥは息を止めた。


 偶然かもしれない。

 術式帯の震えかもしれない。

 でも違った。


 ミナの目が、ゆっくりと開く。


 焦点の合いきらない、薄い目。

 それでもその視線は、儀式場の白い光を越え、扉の脇の暗がりへ留まった。


 気づいた。


 それだけで分かる。

 名前を呼ばなくても。

 涙も驚きもなく、ただ呼吸の深さだけが一瞬変わった。

 指先に、微かな力が戻る。


 残っている。


 その事実が、希望より先に痛みになる。


 ここまで来ても、まだ間に合うとは思えなかった。


 儀式はもう始まっている。

 術式円は淡く脈打ち、祈祷師たちは低く声を重ねている。

 白い座の空席は、誰もいないくせに中心として機能し続けている。

 いまここで全部を止めるには、もう遅すぎるかもしれない。


 それでもルゥは、扉の脇から身体を離した。


 間に合うかどうかではない。

 もう見ているだけでは終われなかったからだ。


 中央の白い座には、最後まで誰もいなかった。

 それなのに、あの場所だけが、この儀式のいちばん深い中心に見えた。

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