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君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第12章 君の耳は、もう要らない

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第47話 真の癒し

 ミナの姿を見つけた瞬間より、その少しあとでエクラリアを見つけた時の方が、ルゥは自分の息が冷えていくのを感じた。


 そこにいるのが、敵というより、完成した思想そのものに見えたからだった。


 白い座の手前。

 誰も座らないはずの中心へ最も近い位置に、エクラリアは立っていた。


 講演会の時と同じ白衣だった。

 けれどあの時よりずっと静かに見える。

 子どもの手を取る時と変わらない手つきで、術式盤の端へ指を置いている。

 焦りはない。

 怒りもない。

 侵入者を迎える顔ではなく、どうしてここまで来てしまったのか、とでも言いたげな哀しみに近いまなざしだけがあった。


 ルゥ=イリスは一歩、儀式場へ踏み込む。


 祈祷師たちの声がわずかに揺れる。

 補佐役が動こうとする。

 けれどエクラリアが片手を軽く上げるだけで、その気配は止まった。


「来てしまったのね」


 その第一声が、あまりにも静かだったので、ルゥは一瞬だけ何も返せなかった。


 責めるのでもない。

 驚くのでもない。

 予想していたより早かった、と言うような声でもない。


 来てしまった。

 そう表現されると、まるで自分が間違った場所へ迷い込んだ子どもみたいだった。


「黙れ」


 ルゥは低く言う。


 喉は乾いている。

 それでも視線を逸らさない。


「ミナを離せ」


 エクラリアはすぐには答えなかった。

 代わりに、媒介の列と白い座、その周囲を緩く囲む術式をひとつ眺め、それからルゥへ戻る。


「離せる段階なら、きっともっと前に離していたわ」


 その言い方に、ルゥの奥歯がきしむ。


「ふざけるな」


「ふざけてはいないの」


 エクラリアは言う。

 穏やかで、腹立たしいほど本気の声で。


「ここまで来た以上、もう“途中で止める”という選択は、個人の身体に最も重い反動を返すだけになる」


 ルゥは眉を寄せる。


「脅しか」


「説明よ」


 即答だった。


「あなたはもう、そういう言葉しか信じないでしょうけれど」


 その返しが、かえってルゥの怒りを煽る。

 怒鳴りたい。

 走ってミナを引き剥がしたい。

 中央へ飛び込みたい。

 でも今は、そのどれもが儀式ごと崩す危うさを持っていることも分かる。


 分かるのがまた、たまらなく嫌だった。


「セレス・ブルームは、ここまで来てようやく完成する」


 エクラリアが言う。


「献耳も、献形も、献魔も、そのための手順でしかなかった」


 ルゥは黙って聞く。

 聞きたくはない。

 だが、聞かないまま飛び込めば、こいつの理屈に負ける気がした。


「個人の苦痛を、個人の中だけで均していても足りないの」


 エクラリアは白い座の方へ目を向けた。


「壁は、ひとりの中だけにあるのではないから」


 その言い方は講演会の時と似ていた。

 でも今はもっと深い。

 症例でも、理論でもなく、完成した結論として語っている。


「差異は美しい、と言う人がいる。私も昔はそう思いたかった」


 彼女の声は低く、広い儀式場へよく通った。


「けれど臨床の現場で見てきたのは、その美しさに毎日削られていく人たちだった。翼があるせいで眠れない子。感応が強すぎるせいで他人の感情に溺れる人。角があるせいで抱きしめることを躊躇われる老女。属性が違うせいで、家の中ですら安らげない者たち」


 ルゥの脳裏に、第二階梯の顔がよぎる。

 翼持ちの青年。

 角持ちの老女。

 普通の部屋で眠れるようになると、泣きそうな声で言った誰か。


 エクラリアは続ける。


「個人に処置を施すだけでは、追いつかなかった」


 白い術式盤へ指先を滑らせる。


「個人を救っても、世界の方がその人を削る。宿屋の天井は低いまま。浴場は拒むまま。工房の道具は合わないまま。制度は遅いまま。偏見はやわらがないまま」


 その言葉の中に、オレリアンの論理と同じ匂いが混じっていることに、ルゥは気づく。


 動機は違う。

 エクラリアは救いたいのだ。

 オレリアンは安定させたい。

 でも、行き着く先が近すぎる。


「だから世界の側へ触れる必要があった」


 エクラリアの声が、ほんの少しだけ強くなる。


「暴走を減らす。過負荷を減らす。種族差が生む摩擦を低減する。恐れなくてよい未来へ近づける。セレス・ブルームは、そのための技術なの」


「技術じゃない」


 ルゥは低く返す。


「切除だ」


 エクラリアは首を振らない。

 否定もしない。

 ただ、その語の粗さを受け入れたうえで、それでも進む者の目をしていた。


「あなたがそう呼ぶのなら、それでもいい」


 その返しに、ルゥは逆に一瞬だけ言葉を失う。

 もっと否定すると思っていた。

 もっと飾ると思っていた。


「でも、切除と呼ばれることを恐れて、今日を越えられない人を見捨てる方が、私には耐えられなかった」


 白い座の上には誰もいない。


 それなのに、エクラリアの言葉はいつもそこへ向かって収束しているように見える。


「なあ、Cael って何だ」


 ルゥはついに口にした。


「そいつは誰なんだよ」


 その問いに、儀式場の空気がほんのわずかだけ揺れる。


 エクラリアは白い座を見る。

 まるでそこに誰かが本当にいるみたいに。

 いや、誰かがいないからこそ、そこを見てしまうのかもしれない。


「いないわ」


 あまりにも静かな答えだった。


「最初から、個人としての Cael はいない」


 ルゥの喉が冷える。

 分かっていた。

 記録でも洗った。

 系譜にもいなかった。

 でもこうして本人の口から聞くと、別の嫌悪が立ち上がる。


「じゃあ、全部嘘か」


「虚構ではあるでしょうね」


 エクラリアは淡々と言う。


「でも、嘘ではないの」


「意味分かんねえよ」


「分かるはずよ」


 その言い方が、腹立たしいほど柔らかい。


「誰もが、自分の救われたかった形をそこへ置ける。ひとりの人間が教祖なら、その人が間違えば終わってしまう。けれど空席なら、必要は死なない」


 白い座。

 誰も座らない中心。

 それが、教義の核そのものだった。


「Cael は、人じゃない」


 エクラリアの声が落ちる。


「苦しみの側が、自分で作った中心よ」


 ルゥはその一言で、ようやく本当の意味を理解した。


 教祖がいない。

 だから責任の所在が曖昧になる。

 誰かを殺して終わる宗教ではなくなる。

 そして何より、苦しむ者がいる限り、また誰でもそこへ祈れる。


 必要そのものが教祖の形を取っている。


 それがあまりにもひどかった。


「……最低だな」


 ルゥは吐き捨てるように言う。


「そうかもしれない」


 エクラリアは否定しなかった。


「でも、それほどまでに必要だったの」


 ルゥはミナの方を見る。

 術式帯に繋がれた細い腕。

 閉じかけた目。

 未完成だからこそ使われる身体。


「必要なら何やってもいいのか」


 エクラリアの視線が、ようやくミナへも落ちる。


「良い、ではないわ」


「じゃあ何だ」


「それでもやるしかない時がある、ということ」


 その答え方が、オレリアンに似ていて、ルゥは吐き気を覚えた。


 救いたい者と、管理したい者。

 動機が違っても、人から何かを奪う理屈は似た形をしていた。

 その最悪の重なりが、今ここにある。


「あなたも苦しまなくていい」


 ふいに、エクラリアがそう言った。


 声色が変わる。

 講演の時とも違う。

 審問の時とも違う。

 もっと近く、もっと静かな位置から響く。


「ここまで来たのなら、もう分かっているでしょう」


 ルゥは息を止める。


「あなたは敏い。聞こえすぎる。見えすぎる。置いていかれた痛みも、母上への怒りも、ミナを救えなかった苦さも、全部抱えたまま歩いている」


 やめろ、と言いたかった。

 でも声が出ない。


「それを少しだけ軽くしてもいい」


 エクラリアは言う。


「あなたも、苦しまなくていいのよ」


 その言葉は、甘かった。

 だからこそ危険だった。


 あの時よりずっと深い位置で、同じ声が刺さる。

 理解されたくない相手に、いちばん理解されたくない場所を撫でられる。


 ルゥは歯を食いしばった。


「……分かるよ」


 ようやく出た声は、掠れていた。


 エクラリアがわずかに目を細める。


「分かる」


 ルゥはもう一度言う。

 今度は少しだけ強く。


「分かるから、余計に駄目なんだ」


 儀式場の空気が一瞬止まったように思えた。


「苦しみがあることと」


 ルゥは前へ一歩出る。


「苦しんでる人間を薄くしていいことは、同じじゃない」


 その言葉は、誰かから借りた理屈ではなかった。

 ようやく、自分の中から出たものだった。


 エクラリアはすぐには返さない。

 ほんのわずかにだけ、悲しそうな目をした。


 ルゥはそこで、母の便箋を思い出す。


 あなたには、あなたのままで生きてほしい。

 耳をふさいでも、世界はやさしくならない。


 胸の中で、その言葉がまだ痛い。

 痛いまま、芯になっていく。


「耳をふさいでも、世界はやさしくならない」


 ルゥははっきり言った。


 エクラリアの指先が、術式盤の上でほんのわずかに止まる。


「だから聞くんだ」


 ルゥは続ける。


「聞こえたままで、生きるしかないだろ」


 多様で、うるさくて、濁っていて、誰にも優しくない世界。

 それでも、削って静かにすることでしか救えない未来を選ぶわけにはいかない。


 目の前の理屈は、もう十分すぎるほど理解できていた。

 それでもルゥは、その理解の中に膝をつく代わりに、一歩だけ前へ出た。

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