第45話 遅すぎた国
怒り尽くしたあとで残るのは、いつも沈黙だ。
その沈黙の中でだけ、人は自分が本当に何を憎んでいたのかを考えさせられる。
小さな保管室の空気は変わらなかった。
紙の匂い。
封蝋。
鍵。
冷えた石壁。
国家の中の個人の残り香。
その全部が、ルゥの呼吸だけを少しずつ現実へ戻していく。
便箋はまだ手の中にある。
皺が寄ってしまった角を、親指が無意識に何度も撫でていた。
オレリアンは机の向こうへ戻らなかった。
扉の近くに立ったまま、ルゥが言葉を持つのを待っている。
急かさない。
だが、逃がしもしない。
この男のやり方は終始そうだった。
ルゥはようやく息を整え、ゆっくりと顔を上げた。
「……遅すぎたんだよ」
最初に出たのは、その一言だった。
オレリアンの目がわずかに動く。
「全部」
ルゥは続ける。
「守るのも、止めるのも、記録を閉じるのも、開けるのも。何もかも遅すぎた」
便箋を握る手に、また少し力が入る。
「母を守れなかった。教団に行く前に止められなかった。案件にして、観察して、閉じて、今になって理由もあったみたいな顔するなよ」
声は低い。
さっきほど崩れてはいない。
だが、そのぶん痛みが芯へ戻っている。
「国家が彼女を守れなかった。そこは否定しない」
オレリアンは静かに言った。
同じ台詞でも、今は第43話より重い。
母の言葉を読んだ後だからだ。
「遅かった。鈍かった。案件として扱った。君からも隠した。そこは全部、こちらの責任だ」
ルゥは歯を噛んだ。
「責任だって言えば済むのか」
「済まない」
短い返答。
言い逃れがない。
そのことがかえって苛立たしい。
「済まないが、それでも国家の側にいた者として、言えることはある」
オレリアンは少しだけ机へ手を置いた。
前のめりになりすぎない程度に。
「君は今、聖光団を壊したいと思っている」
「思ってる」
即答だった。
「壊す」
便箋を握ったまま、ルゥは言う。
「母の言葉を見たあとで、なおさらだ。苦痛を減らすとか、軽くするとか、そういう理屈で人の輪郭を書き換えるのは間違ってる」
母の字が頭の中でよみがえる。
あなたには、あなたのままで生きてほしい。
耳をふさいでも、世界はやさしくならない。
あの言葉は、ルゥの中で今ようやく芯になり始めていた。
「人格を書き換えていい理由にはならない」
ルゥは低く、しかしはっきりと言う。
「どれだけ苦しいやつがいても、どれだけ助けを必要としてても、それで削っていい理由にはならない」
オレリアンは頷きもしない。
否定もしない。
「では誰が、今日を越させる」
その問いは、やはり静かだった。
だが、逃げ場はなかった。
「支援が遅い者を。眠れない者を。暴走しかけた者を。種族差の壁で働けない者を。家族の手だけでは支えきれない者を。誰が今日、越えさせる」
ルゥはすぐには答えられない。
「私たちの恐ろしさは、私が知っている」
オレリアンは続ける。
「人格へ触れる。削る。整える。あれを救済の言葉で包む危険も分かっている」
そこで一拍、言葉が切れる。
「だが、君も見たはずだ。そこへ来る者の切実さを」
第二階梯。
翼持ちの青年。
角持ちの老女。
普通の部屋で眠れるようになるという、小さくて切実すぎる願い。
ミナの穏やかすぎる声。
ルゥは目を閉じそうになって、やめた。
「だからって」
低く返す。
「だからって、あれを許す理由にはならない」
「ならない」
オレリアンはすぐに言う。
「許す理由ではない」
その返答に、ルゥは少しだけ呼吸を止める。
もっと国家の弁護をすると思っていた。
秩序のためだとか、限定利用だとか、またあの冷たい会議の言葉を持ち出してくると思っていた。
「では、何だ」
「現実だ」
オレリアンの声は低いままだった。
「許されないものが、切実な現実に支えられてしまうことがある。それが一番厄介だ」
ルゥは黙る。
「聖光団は、その現実を知っている。国家は、その現実へ届くのが遅い。そこに空白ができる」
オレリアンは言う。
「その空白へ、怪物が仕事を持っていく」
ルゥの喉がわずかに動く。
怪物。
その語を、この男が使うのを聞くのは初めてだった。
「怪物にそこまで仕事をさせたのは、私たちの側だ」
その台詞は、保管室の冷たい空気の中で、妙にはっきりと響いた。
国家もまた共犯だ。
その認識を、この男は隠さない。
ルゥは便箋を持つ指へ力を込める。
「分かってるなら止めろよ」
「止める」
「遅いんだよ」
「そうだ」
また認める。
だから余計に楽にならない。
「遅すぎた」
ルゥは吐き出す。
「母にも。ミナにも。たぶん、他のやつにも」
「そうだろう」
「それで今さら、理由もあったって?」
オレリアンはそこで初めて、ほんの少しだけ息を深く吐いた。
「理由があることと、正しいことは同じではない」
ルゥは返さない。
「君の母上にも理由があった。聖光団にもあった。国家にもあった」
オレリアンの視線が、ルゥの手の中の便箋へ落ちる。
「だが理由のある行為が、必ずしも守るべき結果を生むわけではない」
静かな部屋だった。
その静けさの中で、ルゥは自分の怒りが少しずつ形を変えていくのを感じる。
教団だけが悪なら、もっと楽だった。
国家だけが悪でも、まだ楽だった。
でも実際には、切実さと不足と遅さと善意と管理の欲望が、全部絡まり合って今の怪物を育てている。
「お前が壊したいのは聖光団か?」
オレリアンが言う。
「それとも、遅すぎた世界そのものか?」
その問いは、今までのどの言葉よりも深く入った。
ルゥはすぐには答えられない。
聖光団を壊したい。
それは本当だ。
エクラリアも、献魔も、セレス・ブルームも、止める。
それは揺らがない。
でも、それだけでは済まないのももう知っている。
遅すぎた世界。
母が制度の隙間で疲弊し、聖光団へ手を伸ばすしかなかった世界。
ミナがまだここを全部嫌いになれないと言わざるを得ない世界。
その世界ごと憎んでいるのではないか、と問われれば、否定しきれない。
「……両方だ」
ルゥはようやく言った。
声は低いが、逃げてはいなかった。
「聖光団は壊す」
便箋を握りしめる。
「でも、あれだけ壊して終わりにしたら、また別の顔で同じものが出る」
オレリアンは黙って聞いている。
「だからって、答えがあるわけじゃない」
ルゥは続けた。
「何を残せばいいかなんて、まだ分からない。けど、壊すだけで終わるわけにはいかないことだけは分かった」
その言葉は、誰かを説得するためではなく、自分の中でようやく形になった覚悟に近かった。
オレリアンはわずかに頷いた。
それは同意というより、この段階へ来たことの確認だった。
「それで十分だ」
「十分じゃない」
「今は、だ」
短い返し。
そこに妙な厳しさがあった。
オレリアンは机の引き出しから薄い封筒をひとつ取り出し、ルゥの前へ置いた。
「何だ」
「閉鎖区域の閲覧符号。限定だが、今夜だけ通る」
ルゥは眉を寄せる。
「こんなの渡していいのか」
「良くない」
オレリアンは淡々と言う。
「だが、君がここまで来た時点で、もう正規の手続きは役に立たない」
さらにもう一枚、小さな記録札が置かれる。
「これは?」
「旧研究棟の移送経路札だ。今は使われていないことになっている」
ことになっている。
その言い方で十分だった。
「味方になるつもりか」
ルゥが問うと、オレリアンは少しだけ目を細める。
「ならない」
はっきり言う。
「私は私の側の責任を処理する。君は君の怒りで動く。完全に同じ方向は向かない」
それでいい、とルゥは思った。
全面的に信じられる相手ではない。
だが、今この局面で道を開く理由があるのだと分かれば十分だった。
オレリアンは最後に、便箋へ一度だけ視線を落とした。
「君の母上は、最後まで君を子どもとして扱わなかった」
低い声。
「その意味を、取り違えるな」
ルゥはすぐには返せなかった。
母の言葉は、まだ胸の中で痛いままだ。
けれどその痛みは、さっきまでの怒りとは違う方向へ伸び始めている。
聖光団だけを憎んでいられたなら、もっと楽だった。
けれどルゥはもう知ってしまった。
怪物は、白い施設の中だけで育ったのではない。




