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君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第11章 母の記録

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第45話 遅すぎた国

 怒り尽くしたあとで残るのは、いつも沈黙だ。

 その沈黙の中でだけ、人は自分が本当に何を憎んでいたのかを考えさせられる。


 小さな保管室の空気は変わらなかった。

 紙の匂い。

 封蝋。

 鍵。

 冷えた石壁。

 国家の中の個人の残り香。

 その全部が、ルゥの呼吸だけを少しずつ現実へ戻していく。


 便箋はまだ手の中にある。

 皺が寄ってしまった角を、親指が無意識に何度も撫でていた。


 オレリアンは机の向こうへ戻らなかった。

 扉の近くに立ったまま、ルゥが言葉を持つのを待っている。

 急かさない。

 だが、逃がしもしない。

 この男のやり方は終始そうだった。


 ルゥはようやく息を整え、ゆっくりと顔を上げた。


「……遅すぎたんだよ」


 最初に出たのは、その一言だった。


 オレリアンの目がわずかに動く。


「全部」


 ルゥは続ける。


「守るのも、止めるのも、記録を閉じるのも、開けるのも。何もかも遅すぎた」


 便箋を握る手に、また少し力が入る。


「母を守れなかった。教団に行く前に止められなかった。案件にして、観察して、閉じて、今になって理由もあったみたいな顔するなよ」


 声は低い。

 さっきほど崩れてはいない。

 だが、そのぶん痛みが芯へ戻っている。


「国家が彼女を守れなかった。そこは否定しない」


 オレリアンは静かに言った。


 同じ台詞でも、今は第43話より重い。

 母の言葉を読んだ後だからだ。


「遅かった。鈍かった。案件として扱った。君からも隠した。そこは全部、こちらの責任だ」


 ルゥは歯を噛んだ。


「責任だって言えば済むのか」


「済まない」


 短い返答。

 言い逃れがない。

 そのことがかえって苛立たしい。


「済まないが、それでも国家の側にいた者として、言えることはある」


 オレリアンは少しだけ机へ手を置いた。

 前のめりになりすぎない程度に。


「君は今、聖光団を壊したいと思っている」


「思ってる」


 即答だった。


「壊す」


 便箋を握ったまま、ルゥは言う。


「母の言葉を見たあとで、なおさらだ。苦痛を減らすとか、軽くするとか、そういう理屈で人の輪郭を書き換えるのは間違ってる」


 母の字が頭の中でよみがえる。


 あなたには、あなたのままで生きてほしい。

 耳をふさいでも、世界はやさしくならない。


 あの言葉は、ルゥの中で今ようやく芯になり始めていた。


「人格を書き換えていい理由にはならない」


 ルゥは低く、しかしはっきりと言う。


「どれだけ苦しいやつがいても、どれだけ助けを必要としてても、それで削っていい理由にはならない」


 オレリアンは頷きもしない。

 否定もしない。


「では誰が、今日を越させる」


 その問いは、やはり静かだった。


 だが、逃げ場はなかった。


「支援が遅い者を。眠れない者を。暴走しかけた者を。種族差の壁で働けない者を。家族の手だけでは支えきれない者を。誰が今日、越えさせる」


 ルゥはすぐには答えられない。


「私たちの恐ろしさは、私が知っている」


 オレリアンは続ける。


「人格へ触れる。削る。整える。あれを救済の言葉で包む危険も分かっている」


 そこで一拍、言葉が切れる。


「だが、君も見たはずだ。そこへ来る者の切実さを」


 第二階梯。

 翼持ちの青年。

 角持ちの老女。

 普通の部屋で眠れるようになるという、小さくて切実すぎる願い。

 ミナの穏やかすぎる声。


 ルゥは目を閉じそうになって、やめた。


「だからって」


 低く返す。


「だからって、あれを許す理由にはならない」


「ならない」


オレリアンはすぐに言う。


「許す理由ではない」


 その返答に、ルゥは少しだけ呼吸を止める。


 もっと国家の弁護をすると思っていた。

 秩序のためだとか、限定利用だとか、またあの冷たい会議の言葉を持ち出してくると思っていた。


「では、何だ」


「現実だ」


 オレリアンの声は低いままだった。


「許されないものが、切実な現実に支えられてしまうことがある。それが一番厄介だ」


 ルゥは黙る。


「聖光団は、その現実を知っている。国家は、その現実へ届くのが遅い。そこに空白ができる」


 オレリアンは言う。


「その空白へ、怪物が仕事を持っていく」


 ルゥの喉がわずかに動く。


 怪物。

 その語を、この男が使うのを聞くのは初めてだった。


「怪物にそこまで仕事をさせたのは、私たちの側だ」


 その台詞は、保管室の冷たい空気の中で、妙にはっきりと響いた。


 国家もまた共犯だ。

 その認識を、この男は隠さない。


 ルゥは便箋を持つ指へ力を込める。


「分かってるなら止めろよ」


「止める」


「遅いんだよ」


「そうだ」


 また認める。

 だから余計に楽にならない。


「遅すぎた」


 ルゥは吐き出す。


「母にも。ミナにも。たぶん、他のやつにも」


「そうだろう」


「それで今さら、理由もあったって?」


 オレリアンはそこで初めて、ほんの少しだけ息を深く吐いた。


「理由があることと、正しいことは同じではない」


 ルゥは返さない。


「君の母上にも理由があった。聖光団にもあった。国家にもあった」


 オレリアンの視線が、ルゥの手の中の便箋へ落ちる。


「だが理由のある行為が、必ずしも守るべき結果を生むわけではない」


 静かな部屋だった。

 その静けさの中で、ルゥは自分の怒りが少しずつ形を変えていくのを感じる。


 教団だけが悪なら、もっと楽だった。

 国家だけが悪でも、まだ楽だった。

 でも実際には、切実さと不足と遅さと善意と管理の欲望が、全部絡まり合って今の怪物を育てている。


「お前が壊したいのは聖光団か?」


 オレリアンが言う。


「それとも、遅すぎた世界そのものか?」


 その問いは、今までのどの言葉よりも深く入った。


 ルゥはすぐには答えられない。

 聖光団を壊したい。

 それは本当だ。

 エクラリアも、献魔も、セレス・ブルームも、止める。

 それは揺らがない。


 でも、それだけでは済まないのももう知っている。


 遅すぎた世界。

 母が制度の隙間で疲弊し、聖光団へ手を伸ばすしかなかった世界。

 ミナがまだここを全部嫌いになれないと言わざるを得ない世界。

 その世界ごと憎んでいるのではないか、と問われれば、否定しきれない。


「……両方だ」


 ルゥはようやく言った。

 声は低いが、逃げてはいなかった。


「聖光団は壊す」


 便箋を握りしめる。


「でも、あれだけ壊して終わりにしたら、また別の顔で同じものが出る」


 オレリアンは黙って聞いている。


「だからって、答えがあるわけじゃない」


 ルゥは続けた。


「何を残せばいいかなんて、まだ分からない。けど、壊すだけで終わるわけにはいかないことだけは分かった」


 その言葉は、誰かを説得するためではなく、自分の中でようやく形になった覚悟に近かった。


 オレリアンはわずかに頷いた。

 それは同意というより、この段階へ来たことの確認だった。


「それで十分だ」


「十分じゃない」


「今は、だ」


 短い返し。

 そこに妙な厳しさがあった。


 オレリアンは机の引き出しから薄い封筒をひとつ取り出し、ルゥの前へ置いた。


「何だ」


「閉鎖区域の閲覧符号。限定だが、今夜だけ通る」


 ルゥは眉を寄せる。


「こんなの渡していいのか」


「良くない」


 オレリアンは淡々と言う。


「だが、君がここまで来た時点で、もう正規の手続きは役に立たない」


 さらにもう一枚、小さな記録札が置かれる。


「これは?」


「旧研究棟の移送経路札だ。今は使われていないことになっている」


 ことになっている。

 その言い方で十分だった。


「味方になるつもりか」


 ルゥが問うと、オレリアンは少しだけ目を細める。


「ならない」


 はっきり言う。


「私は私の側の責任を処理する。君は君の怒りで動く。完全に同じ方向は向かない」


 それでいい、とルゥは思った。

 全面的に信じられる相手ではない。

 だが、今この局面で道を開く理由があるのだと分かれば十分だった。


 オレリアンは最後に、便箋へ一度だけ視線を落とした。


「君の母上は、最後まで君を子どもとして扱わなかった」


 低い声。


「その意味を、取り違えるな」


 ルゥはすぐには返せなかった。

 母の言葉は、まだ胸の中で痛いままだ。

 けれどその痛みは、さっきまでの怒りとは違う方向へ伸び始めている。


 聖光団だけを憎んでいられたなら、もっと楽だった。

 けれどルゥはもう知ってしまった。

 怪物は、白い施設の中だけで育ったのではない。

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