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君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第11章 母の記録

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第44話 母の秘密

 書庫の紙は冷たかった。

 けれど、オレリアンが開いた保管箱の中にあったものは、それよりずっと残酷だった。

 そこには、母が“案件”になる前の文字が残っていた。


 書庫の最奥からさらに奥へ進むとは思っていなかった。


 オレリアンは多くを語らないまま、閉架区画の脇を抜け、書庫とは別の細い廊下へルゥを導いた。そこは閲覧のための動線ではなく、保管と移送のための通路らしかった。石壁は同じだが、空気が違う。紙と封蝋の乾いた匂いに、少しだけ人の気配が混じる。ここでは記録がただ積まれているだけではなく、誰かの判断によって出し入れされるのだと分かる匂いだった。


 突き当たりの小部屋は、私室というより閉鎖保管室に近かった。

 広くはない。

 机。

 鍵付きの戸棚。

 保管箱。

 壁際の棚には、書庫の箱より小さな文書筒や封印袋が並んでいる。

 整っている。

 だが書庫より少しだけ、人がここで立ち止まった形跡がある。

 杯の輪染み。

 開かれたままの記録具。

 椅子の足跡。


 国家の中の、個人の残り香。


 それでもここが国家の外でないことは、扉の鍵と封印帯がはっきり告げていた。


 オレリアンは机の奥へ回り、戸棚の一番下から平たい保管箱を引き出した。動作に迷いはない。何度も開けた箱なのか、逆にずっと開けなかった箱なのか、ルゥには分からない。ただ、その箱を持ち上げる手つきだけが、書庫の資料を扱う時より少し遅かった。


「ここにあるのは、提出されなかったものだ」


 オレリアンが言う。


「あるいは、提出の前に止まったもの。公的記録へ変換される前の断片」


 箱が机へ置かれる。

 封を切る音が、やけに小さく聞こえた。


 中に入っていたのは、書庫の綴じられた案件記録とは違った。

 便箋。

 面談覚書。

 走り書きの報告。

 返送されなかった文書。

 宛名だけ書かれて送られなかった封筒。

 どれも、公文書になる前のまま止まっている。


 書庫の記録にはなかった“声”が、ここにはある。


 ルゥは息を浅く吸い、最初の紙へ手を伸ばした。


 母の筆跡だった。


 それだけで、胸の奥が強く縮む。


 整った字ではない。

 きれいではある。

 けれど、公的な書式へ寄せた字ではなく、日常の中で書かれた筆圧の揺れが残っている。

 書庫の中の母の名前は、どれも冷たかった。

 この紙の上の字は、まだ母の体温を持っている。


「……何で」


 ルゥの声は掠れた。


「何で、こんなものがここにある」


「提出を止めたからだ」


 オレリアンは短く答える。


「誰が」


 問い返したあとで、自分でも半分は分かっていた。

 止めた者。

 閉じた者。

 保管していた者。

 この部屋へ導いた者。


 オレリアンは否定しない。


「私も、その一端だ」


 その認め方は、言い逃れがなくて余計に腹立たしかった。


 ルゥは次の紙を見る。

 面談の覚書らしい。

 そこには母の状態が、書庫の記録よりずっと具体的に記されていた。


 感応過多により睡眠障害。

 種族反応への羞恥と疲弊。

 保護対象児との生活継続を強く希望。

 処置提案に対し、拒否と保留を反復。


 ルゥの視線が、最後の一行で止まる。


 拒否と保留を反復。


 母は、最初から頷いていたわけではなかった。


「君の母上は、何も知らず流されていたわけではない」


 オレリアンが言う。


「少なくとも最初は」


 最初は。

 その留保が、かえって重い。


 ルゥは別の紙を取る。

 今度は、もっと短い文だ。誰かへ提出する前の下書きらしい。冒頭の宛名だけが書かれ、その先が途切れている。


 私は、子の前で穏やかな母でいたい。

 けれど、穏やかであるために、自分でなくなるのなら、それは別の喪失だと思います。


 その文字を追った瞬間、ルゥの喉が詰まった。


 母は分かっていたのだ。

 少なくとも途中までは。

 穏やかになることが、そのまま救いではないことを。

 穏やかさの代わりに失われるものがあることを。


 そして、その“子”は自分だ。


 ルゥはそこで初めて、紙を持つ手を少し下げた。


 怒りだけで読めなくなりかける。


「完全な強制ではなかった」


 オレリアンの声が続く。


「だが、自由でもない。追い詰められた人間の選択は、自由意志という言葉では守れない」


 ルゥは黙っている。


「君の母上は疲弊していた。高感応で、環境にも、人の感情にも削られていた。支援はあったが足りなかった。制度は遅く、保護の枠も狭かった。聖光団はそこへ入った」


 オレリアンは事実を並べるように言う。

 責めるでもなく、擁護するでもなく。

 だから余計に、逃げ場がない。


「助けは必要だった」


「だからって」


 ルゥはやっと声を出した。

 うまく続かない。

 喉の奥が熱くて、冷たかった。


「だからって、それで……」


「それで正当化されるわけではない」


 オレリアンが言う。


「だがなぜそこへ行ったかは、その前にある不足を抜いて語れない」


 ルゥは机へ片手をついた。


 母は選んでいた。

 それはもう否定できない。

 ただしそれは、好きなものを好きに選ぶ自由とはまったく違う。追い詰められた者が、その中でまだ壊れ切らずにいられる方へ手を伸ばした選択だ。


 次の紙は、もっと個人的だった。


 封筒に入れられたままの便箋。

 宛名はない。

 けれど最初の一文で、誰へ向けたものか分かる。


 ルゥへ。


 ルゥはそこで完全に息を止めた。


 オレリアンは何も言わない。

 その沈黙だけが許可のようにそこにある。


 便箋を開く。

 母の字。

 少し急いで書いた時の、行間の狭さ。

 書き直した跡。

 伝えたいことを、整えきれないまま紙へ押しつけたような字だった。


 最初の数行は、取り留めがなかった。

 眠れていないこと。

 怖がらせたくないこと。

 少しでも前より静かに笑える母でいたいこと。

 だがその先で、字が少しだけ強くなる。


 あなたには、あなたのままで生きてほしい。


 その一文を読んだ瞬間、ルゥは息をするのを忘れた。


 喉の奥で何かが裂けたみたいに痛む。

 怒りではない。

 もっとずっと深いところを、まっすぐに触れられた痛みだった。


 続きの行へ、視線がうまく落ちない。

 文字が少し滲んで見える。


 それでも読む。


『耳をふさいでも、世界はやさしくならない。』


 その一文で、ルゥの中の何かが切れた。


 献耳。

 差異を聞かないという象徴。

 削って、楽になって、整って、前より怖くなくなるという理屈。

 その全部へ、母は最後にひとりの言葉で反論していた。


 教団の理屈ではない。

 講義でもない。

 理論でもない。

 ただ、自分の子へ残したかった祈りとして。


『あなたには、あなたのままで生きてほしい。

 耳をふさいでも、世界はやさしくならない。』


 ルゥの手から便箋が滑りそうになる。

 慌てて掴み直す。

 掴んだせいで紙が少しだけ皺になる。


「……ずるいだろ」


 声が、勝手に出た。


 自分に向けてなのか、母に向けてなのか、分からなかった。

 ずっと誰かに言ってほしかった言葉だった。

 差異のままでいていいと。

 削らなくていいと。

 そのままで生きていいと。


 でももう遅い。

 その言葉は、母の生きている声ではなく、届かなかった便箋の中にある。

 今になって届く。

 今だからこそ、深く刺さる。


 ルゥはそこで初めて、椅子へ座るのでもなく、しゃがみ込むでもなく、中途半端に机へ体重を預けて崩れた。


 息がうまく整わない。

 泣きたくないのに、視界だけが滲む。

 喉が詰まる。

 何か言いたいのに、言葉にすれば何かが壊れそうで、口が開かない。


 怒りではなかった。

 悲しみでも、悔しさだけでもない。


 母に届いてしまったことで崩れる。


 母が、自分を哀れみの中へ閉じ込めようとしていなかったこと。

 被害者としてだけ覚えてほしいのではなく、そのままのルゥを残そうとしていたこと。

 それが今になって、紙の上から容赦なく届く。


 ずっと誰かに言ってほしかった。

 でも、それを一番言ってほしかった相手は、もうここにいない。


 ルゥは片手で目元を押さえた。

 それでも息の乱れは隠せない。

 肩が震える。

 情けないと思う余裕もない。


 オレリアンはそのあいだ、何も言わなかった。


 慰めもしない。

 説明もしない。

 「だから言った」とも言わない。


 ただそこに立ち、母を単純な被害者へ戻すな、という立場だけを黙って残している。


 それが今は、妙にありがたくも腹立たしかった。


 しばらくして、ルゥは便箋を胸に引き寄せたまま、ようやく少しだけ息を吸えた。


 まだ視界は揺れている。

 まだ立てない。

 でも、さっきまでと違う。

 怒りのためだけに母を見ていた場所が、少し壊れてしまった。


 ルゥが暴きたかったのは秘密だった。

 けれど差し出されたのは、秘密ではなく、母が最後までルゥをルゥのままでいさせようとした痕跡だった。

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