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君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第11章 母の記録

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第43話 欠けたページ

 怒鳴られなかったことが、かえって腹立たしかった。


 見つかったのなら捕まえればいい。

 そうしない相手ほど、言葉で足場を奪ってくる。


 書庫の冷たさは変わらない。

 乾いた紙。

 金属棚。

 封蝋。

 番号。

 人の体温より先に、記録の寿命を守るための空気。


 その最奥で、ルゥ=イリスは母の記録の箱に片手を置いたまま、オレリアンを見ていた。

 逃げるなら今かもしれない。

 そう頭のどこかは計算している。

 だが身体はすぐには動かない。

 この男が兵を呼ばず、怒鳴りもせず、ただ「その記録を読む覚悟があるのか」と訊いたせいで、ここが単純な潜入失敗の場ではなくなってしまったからだ。


 オレリアンは書庫の入口寄りに立っている。

 退路を塞ぐには十分な位置。

 それでいて、詰め寄ってはこない。

 白衣のような清潔な威圧も、軍人めいた露骨な威嚇もない。

 けれど、ここが自分の領域であり、そこへ踏み込んだ相手をどう扱うかを静かに決められる側の人間の立ち方だった。


「答えないのか」


 低い声が落ちる。


 ルゥはすぐには答えなかった。

 覚悟なんて言葉で片づけられるものじゃないと分かっていたし、分かっているふりをされるのも嫌だった。


「読ませる気がないなら、そう言えよ」


 低く返すと、オレリアンはわずかに視線を落とした。


「読ませないとは言っていない」


「同じだ」


「違う」


 その返し方が、腹立たしいほど整っていた。


「君は今、知りたいのではなく、確かめたいだけだ」


 ルゥの眉が寄る。


「何を」


「君がまだ憎みやすい形で、母上がそこに残っているかどうかを」


 その言葉に、喉の奥が冷えた。


「……分かったように言うな」


「分かってはいない」


 オレリアンは静かに言う。


「分からないまま読めば、君はここで欲しいものしか拾わない」


 ルゥの喉がきしむ。


「欲しいもの?」


「教団を責めるための形だ」


 その一言で、熱が一気に表へ出た。


「責める?」


 ルゥは低く言う。


「閉じたのはそっちだろ」


 母の記録が入った箱を、少しだけ持ち上げる。

 軽い。

 軽すぎる。


「重要なところだけ抜いて、封印して、番号つけて、知らないふりして。教団だけじゃ足りなかったのか。国家まで母を案件にしてたのか」


 オレリアンは黙って聞いている。

 それが余計に怒りを煽る。


「なぜ隠した」


 ルゥは一歩だけ前へ出た。

 逃げる構えのまま、でも逃げずに。


「何を見せたくなかった。母をどう扱った。なぜいつも遅い。なぜ全部終わってからしか出てこない」


 最後の問いは、ほとんど吐き出すみたいだった。


 オレリアンは少しだけ視線を落とし、近くの棚へ手を添える。

 答えを選んでいるというより、どこから言うべきか考えている沈黙だった。


「記録は事実を残す」


 やがて彼は言った。


「だが、選んだ理由までは残さない」


 その台詞は、書庫の空気に妙によく馴染んだ。

 乾いていて、冷たくて、しかし嘘ではない響きだった。


 ルゥは眉を寄せる。


「だから何だ」


「書類だけでは、君の母上を裁けないということだ」


「裁いてるのはそっちだろ」


「そうだ」


 オレリアンは否定しなかった。


「少なくとも、書類にした時点で一度裁いている。分類し、要約し、扱える形に変える。国家の記録というのは、そういうものだ」


 その認め方に、ルゥは一瞬だけ言葉を失う。

 もっと言い逃れをすると思っていた。

 制度の限界だとか、手続きだとか、そういう厚い布で自分たちを包むのだと思っていた。


「国家は彼女を守らなかった。そこは否定しない」


 オレリアンの声は低いままだった。


 言い訳のための前置きではなく、本当にその一点を先に置く言い方だった。


「遅かった。鈍かった。案件として見た。結果として、君の母上を一人の人間より先に管理対象として扱った時期もある」


 ルゥの指先に、また力が入る。


 聞きたかった。

 でも、聞きたくはなかった。


「そこまで分かってて、何で閉じる」


 かすれるように言う。


「何で私からも奪う」


 オレリアンは少しだけ間を置いた。


「全部を開けば、それで正しくなるわけではないからだ」


「勝手に決めるな」


「決めた」


 即答だった。


「決めて、閉じた。だから恨まれている」


 それは開き直りではない。

 事実を事実として置く言い方だった。

 だが、その淡々さがルゥには許し難い。


「ふざけるな」


「ふざけてはいない」


「母の人生だぞ」


「だからだ」


 初めて、オレリアンの声に少しだけ強さが混じった。


 怒鳴りはしない。

 だが、今までより深く切り込んでくる。


「君の母上を、教団だけの被害者として扱わせないために閉じた部分もある」


 その言葉に、ルゥの呼吸が止まる。


「……何だよ、それ」


「君は今、知りたいのではなく、形にしたい」


 ルゥは反射で言い返そうとして、わずかに遅れた。

 その遅れが、すでに答えのひとつになっている気がして、さらに腹が立つ。


「教団が奪った。母上は壊された。そう言い切れれば、おそらく君は怒りを保ちやすい」


「違う」


「違わない部分もあるのだろう」


 このやりとりの嫌さに、ルゥは一瞬だけノクタヴィウスを思い出す。

 言い当てる精度。

 断定しきらず、しかし逃げ道を狭める話し方。

 ただしオレリアンは、ノクタヴィウスみたいに人の傷へ美しく触れてはこない。もっと乾いている。だからなおさら、記録側の人間だと分かる。


「君の母上は、救われたかっただけの人ではない」


 静かなその一言で、書庫の冷たさが一段深くなった気がした。


 ルゥはすぐには反応できなかった。


 救われたかっただけの人ではない。


 それはつまり、母がただ受け身で削られたわけではない、ということだ。

 その可能性を、もう一度突きつけられる。


「……何を言ってる」


 やっと出た声は低かった。


「母さんが、自分から選んだって言いたいのか」


「追い詰められた者の選択を、自由意志と同じ意味で語るつもりはない」


 オレリアンは言う。


「だが、彼女は何も知らず、何も考えず、ただ流されただけの人でもなかった」


 ルゥは首を振った。


「違う」


 その否定は、さっきまでの怒りより脆かった。

 怒りではなく、崩れたくないものを押さえるための否定だった。


「違う。そんなの……」


「君が違うと思いたいことと、違う事実は同じではない」


 ルゥは箱を掴んだまま、視線を落とす。


 母は、教団に壊された。

 その図式だけでいたい。

 いたいに決まっている。

 そうでなければ、自分は何を憎めばいいのか分からなくなる。


 オレリアンはそこで近づきすぎない程度に一歩だけ歩み寄った。

 足音が石床へ短く返る。


「書庫には残らないものがある」


 ルゥは顔を上げる。


「何だよ」


「事実の外にあるものだ」


「意味分かんない」


「分からなくていい。今は」


 その返しに、また腹が立つ。

 だが同時に、ここでこの男が何かを隠し持っていることも分かる。


「母上の理由を知りたいなら、書庫の記録だけでは足りない」


 オレリアンは箱へ目を落とした。


「ここにあるのは案件、処置、移管、保管の記録だ。誰が何をされたか、どこへ運ばれたか、どの欄が欠けているか。そういう事実は読める。だが、選んだ理由、黙った理由、残したかったものは、ここには残らない」


 ルゥの喉がきしんだ。


 知りたくない。

 でも、ここで引くことももうできない。


「どこにある」


 オレリアンは少しだけルゥを見た。


 試すような目ではない。

 確認する目だった。

 ここで名前を出せば、もう後戻りできないと知っている者の目。


「私室だ」


 短く、しかしはっきりと言う。


「あるいは、私的保管室と言った方が正確かもしれない」


 書庫ではなく。

 公的記録ではなく。

 もっと別の場所に、母の“理由”が残っている。


 ルゥはすぐには頷かなかった。

 行けば、たぶんもう母を教団だけの被害者としては見られなくなる。

 今よりもっと苦い事実が出る。

 自分の怒りの形も、また変わる。


 それでも。


「見せろ」


 声は掠れていた。

 だが、逃げなかった。


 オレリアンはわずかに息を吐く。

 安堵ではない。

 覚悟を一段階進めた時の吐息に近い。


「来るなら見せる」


 それだけ言って、彼は踵を返した。


 追え、とは言わない。

 選べ、ということなのだろう。

 ここで来るなら、次を見せる。

 来ないなら、書庫の事実だけで帰れということだ。


 ルゥはほんの一瞬だけ動けなかった。


 書庫の中にあったのは事実だけだった。

 そして今、ルゥはそれより厄介なもの――母の理由の方へ連れて行かれようとしていた。

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