第40話 止める理由
「で、どう止める」
先にそう聞いたのはエルヴィンだった。
ルゥはその問いに、答えるより先に、エクラリアの顔を思い浮かべてしまった。
白衣の袖。
講演会の薄い光。
子どもの手を取る時の、あの穏やかすぎる指先。
人を救う顔をしたまま、人の輪郭へ刃を入れる女。
貸し室の窓の外では、朝の荷車が石畳を軋ませていた。階下では仕込みを始めたらしい物音が続き、誰かが短く笑い、誰かが怒鳴る。乱れていて、濁っていて、生きている音だ。白い施設を抜けてきたばかりの耳には、その雑さがむしろ救いみたいに思えた。
けれど机の上に広がった資料は、その救いさえ均していくための理屈ばかりを並べていた。
セレス・ブルーム。
広域魔力ネットワーク。
秩序。
安定。
抑制。
限定運用。
そして、教祖のいない宗教。
エルヴィンは窓際ではなく、机の向こうに立っていた。眠っていない顔だった。だが疲れているようには見せない。こういう時にだけ、こいつは自分の消耗を隠す。
「聞いてるのか」
エルヴィンが言う。
ルゥは椅子に浅く腰を掛けたまま、ようやく顔を上げた。
「聞いてる」
「なら答えろ」
「うるさいな」
「うるさくなる話だろ」
その一言で、最初からあった苛立ちが少し表へ出た。
エルヴィンは机の上の資料を指で叩く。
「時間がない。向こうが世界ごと薄めるつもりなら、こっちは止め方を決めなきゃならない。証拠を外へ回す。儀式場へ先に入る。節点を切る。順番を間違えたら終わりだ」
ルゥは黙った。
正しい。
言っていることは正しい。
だがその正しさが、今はたまらなく腹立たしい。
「で」
エルヴィンが重ねる。
「お前は、どこから止めたい」
ルゥはしばらく答えなかった。
答えれば、自分の中身がそのまま出るのが分かっていたからだ。
だが、黙っていても意味はない。
今この部屋では、沈黙もまた形になる。
「……エクラリアだ」
言った瞬間、部屋の空気が少し変わった。
エルヴィンは目を細める。
「やっぱりそこか」
「そこだよ」
ルゥは机の上の資料に視線を落としたまま続けた。
「中心はあいつだ。施設の中でやってきたことも、講演会も、献形も、献魔も、全部あいつの手を通ってる。あいつを止めなきゃ何も終わらない」
「終わるわけないだろ」
エルヴィンは即座に返した。
「終わらせたいなら、一人殺して済む話にするな」
ルゥの視線が跳ね上がる。
「殺すなんて言ってない」
「言ってる顔してる」
「ふざけんな」
「ふざけてねえよ」
声が一段上がった。
貸し室の薄い壁の向こうで、誰かが一瞬だけ動きを止めた気配がした。だが、次の物音はすぐ戻る。外の世界は、こっちの喧嘩なんか知ったことじゃない。
ルゥは立ち上がった。椅子の脚が床を引っかいて、鈍い音を立てる。
「お前だって分かってるだろ。あいつが中心だ」
「中心のひとつだ」
「同じだ」
「違う!」
エルヴィンの声も、そこで初めて明確に荒れた。
「儀式がある。理論がある。国家側の窓口がいる。オレリアンがいる。節点がある。お前は何を聞いてた」
「全部だよ」
「なら何で真っ先にあの女だけ見る」
その言い方に、ルゥの腹の底が熱くなる。
見ている。
見ているに決まっている。
だが、世界にまで拡張された計画の輪郭を見れば見るほど、逆にエクラリアの顔だけが濃くなるのだ。白衣の袖も、穏やかな声も、子どもの痛みへ触れる手つきも。あれが全部、世界規模の切除へ繋がっていると思った瞬間、自分の中であいつだけが許せなくなる。
「お前に説明すんのも腹立つけど」
ルゥは吐き出す。
「あいつは救う顔してやるんだよ」
エルヴィンは言い返さない。
ルゥはそこで止まらなかった。
「ただの悪党ならまだ簡単だった。壊してるくせに、あいつは本気で救ってるつもりでいる。だから止めなきゃならないんだ」
「それはお前の理由だ」
「だったら何だよ」
「今してるのは世界の話だ」
その一言が、ルゥの中の何かをきしませた。
「世界」
噛むように繰り返す。
「便利だよな、その言葉。ひとり置いてく時に」
エルヴィンの表情がわずかに固まる。
ルゥはそこへ踏み込んだ。
「構造。計画。節点。全部分かるよ。お前の言ってることは正しい。正しいけど、その正しい順番の中に、置いてかれるやつが出る」
「だから順番を考えてる」
「だから置いてけるって?」
「そういう話にすり替えるな」
「すり替えてねえよ!」
ルゥの声が跳ねた。
「お前はそうやって、でかい話にしとけば自分の痛みが綺麗になると思ってるだけだろ」
そこで、エルヴィンの目つきが変わった。
静かなままではある。
だが、今の一言は確実に当たったのだと分かる変わり方だった。
「……言うな」
低い声だった。
「何でだよ」
「今それを言うなって言ってる」
「図星か」
「言うな!」
今度はエルヴィンの方が先に怒鳴った。
ルゥは一瞬だけ黙る。
こいつがここまで露骨に声を荒げるのは珍しい。
エルヴィンは机へ片手をついた。
紙束が少しずれる。
「俺が妹のことで綺麗に割り切れてるように見えるなら、お前は本当に何も見てない」
「じゃあ何だ」
「だから言ってるんだろ」
エルヴィンは噛みつくみたいに続ける。
「一人に引っ張られると終わるって」
「お前だって引っ張られてるじゃねえか」
「引っ張られてるから止めてるんだよ!」
その言葉で、部屋の温度がまた一段上がった。
ルゥは息を詰める。
エルヴィンはもう隠していなかった。
妹のことを。
割り切れていないことを。
それでもなお、そちらへ引っ張られたまま全部を台無しにしないよう、無理やり順番を守ろうとしていることを。
「俺があいつら一人ずつ殺して終わる話にしてえなら、とっくにそうしてる」
エルヴィンの声は荒い。
けれど、荒さの奥にあるのは激情だけじゃない。ずっと押し殺してきた疲れのようなものも混じっていた。
「でも終わらねえんだよ。聖光団だけ潰しても、理論が残る。理論を潰しても、使えるって言い出す側が残る。オレリアンがいる。計画がある。だから俺は、お前に感情で動くなって言ってるんじゃない」
そこで一拍、息が切れる。
「俺と同じ失敗すんなって言ってる」
ルゥは何も返せなかった。
その言葉だけは、ただの正論じゃなかったからだ。
綺麗な世界のための理屈ではなく、傷ついたやつがそのまま絞り出した警告に近かった。
だが、そこで引けるほど自分も綺麗じゃない。
「それでも」
ルゥは低く言う。
「エクラリアを止めなきゃ終わらない」
「だからひとつだって言ってる」
「私にはひとつじゃない」
即答だった。
自分でも驚くほど迷いがなかった。
「分かってるよ。計画も、外の連中も。全部絡んでる。分かってる」
ルゥは机の上の資料を指で叩く。
「でもその全部に、あいつの顔が混じってる。私の中では、そうなってる」
エルヴィンはルゥを睨んだ。
ルゥも睨み返す。
正しさの押しつけ合いではない。
傷と立場のぶつかり合いだ。
どっちも少しずつ汚い。
どっちも少しずつ、自分の傷を世界の言葉で包もうとしている。
「……最悪だなお前」
エルヴィンが吐き捨てる。
「お前もだ」
「知ってる」
「こっちもだよ」
その返しで、ほんのわずかにだけ空気が動いた。
和んだわけじゃない。
でも、同じ場所の汚さを見た時だけ生まれる種類の静けさがあった。
エルヴィンは乱れた紙束を整え直す。
今度は感情ではなく、仕事の手つきだ。
「外部封鎖は俺がやる」
声はまだ少し荒れている。
「儀式場の外周、避難経路、ギルド側の足止め、オレリアンの動き。そっちは全部こっちで見る」
ルゥは黙って聞く。
「お前は中へ入れ」
エルヴィンが続ける。
「節点の位置、内部の揺れ。お前しか分からない。そこを潰せ」
「エクラリアは」
「見つけたら止めろ」
短い返答。
許したわけでも、譲ったわけでもない。
ただ、現実の中でそこを切り離せないと認めた言い方だった。
「ただし」
エルヴィンが強く言う。
「優先順位を見失うな。お前の怒りのために全部を吹き飛ばすな」
「お前こそ」
ルゥはすぐ返す。
「妹が絡んだら、綺麗にやれるのかよ」
「やれねえよ」
また即答だった。
「だからお前に言ってる。俺が歪んだ時、お前が止めろ」
ルゥはそこで少しだけ言葉を失った。
そういうことを、こいつが口にするのは珍しい。
自分の綻びを、道具じゃなく前提として差し出してくるのは。
「……信じろって?」
「全面的には無理だろ」
「だな」
「こっちもだ」
短い。
乾いている。
でも、それで十分だった。
相棒みたいな綺麗なものじゃない。
友情でもない。
利害と傷と現実が、ぎりぎり同じ方向を向いているだけだ。
エルヴィンは結晶片を布で包み、資料をいくつか分けた。持ち出すもの、残すもの、燃やすもの。判断が速い。こういう時だけ、腹が立つほど無駄がない。
「分かり合えたと思うなよ」
エルヴィンが言う。
「思ってない」
「ならいい」
ルゥはようやく椅子へ座り直した。
足が少し震えていた。喧嘩で消耗したのか、眠っていないからか、自分でも分からない。
窓の外では、朝が完全に始まっていた。
荷車の音。
人の声。
店を開ける音。
乱れていて、うるさくて、生きている世界。
それを薄くする理屈が、もう机の上まで来ている。
分かり合えたわけではなかった。
それでも、同じ方向を向かなければ、もっと悪いものに全部持っていかれることだけは、二人とも知っていた。




