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君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第10章 セレス・ブルーム

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第40話 止める理由

「で、どう止める」


 先にそう聞いたのはエルヴィンだった。


 ルゥはその問いに、答えるより先に、エクラリアの顔を思い浮かべてしまった。


 白衣の袖。

 講演会の薄い光。

 子どもの手を取る時の、あの穏やかすぎる指先。

 人を救う顔をしたまま、人の輪郭へ刃を入れる女。


 貸し室の窓の外では、朝の荷車が石畳を軋ませていた。階下では仕込みを始めたらしい物音が続き、誰かが短く笑い、誰かが怒鳴る。乱れていて、濁っていて、生きている音だ。白い施設を抜けてきたばかりの耳には、その雑さがむしろ救いみたいに思えた。


 けれど机の上に広がった資料は、その救いさえ均していくための理屈ばかりを並べていた。


 セレス・ブルーム。

 広域魔力ネットワーク。

 秩序。

 安定。

 抑制。

 限定運用。


 そして、教祖のいない宗教。


 エルヴィンは窓際ではなく、机の向こうに立っていた。眠っていない顔だった。だが疲れているようには見せない。こういう時にだけ、こいつは自分の消耗を隠す。


「聞いてるのか」


 エルヴィンが言う。


 ルゥは椅子に浅く腰を掛けたまま、ようやく顔を上げた。


「聞いてる」


「なら答えろ」


「うるさいな」


「うるさくなる話だろ」


 その一言で、最初からあった苛立ちが少し表へ出た。


 エルヴィンは机の上の資料を指で叩く。


「時間がない。向こうが世界ごと薄めるつもりなら、こっちは止め方を決めなきゃならない。証拠を外へ回す。儀式場へ先に入る。節点を切る。順番を間違えたら終わりだ」


 ルゥは黙った。


 正しい。

 言っていることは正しい。

 だがその正しさが、今はたまらなく腹立たしい。


「で」


 エルヴィンが重ねる。


「お前は、どこから止めたい」


 ルゥはしばらく答えなかった。

 答えれば、自分の中身がそのまま出るのが分かっていたからだ。


 だが、黙っていても意味はない。

 今この部屋では、沈黙もまた形になる。


「……エクラリアだ」


 言った瞬間、部屋の空気が少し変わった。


 エルヴィンは目を細める。


「やっぱりそこか」


「そこだよ」


 ルゥは机の上の資料に視線を落としたまま続けた。


「中心はあいつだ。施設の中でやってきたことも、講演会も、献形も、献魔も、全部あいつの手を通ってる。あいつを止めなきゃ何も終わらない」


「終わるわけないだろ」


 エルヴィンは即座に返した。


「終わらせたいなら、一人殺して済む話にするな」


 ルゥの視線が跳ね上がる。


「殺すなんて言ってない」


「言ってる顔してる」


「ふざけんな」


「ふざけてねえよ」


 声が一段上がった。

 貸し室の薄い壁の向こうで、誰かが一瞬だけ動きを止めた気配がした。だが、次の物音はすぐ戻る。外の世界は、こっちの喧嘩なんか知ったことじゃない。


 ルゥは立ち上がった。椅子の脚が床を引っかいて、鈍い音を立てる。


「お前だって分かってるだろ。あいつが中心だ」


「中心のひとつだ」


「同じだ」


「違う!」


 エルヴィンの声も、そこで初めて明確に荒れた。


「儀式がある。理論がある。国家側の窓口がいる。オレリアンがいる。節点がある。お前は何を聞いてた」


「全部だよ」


「なら何で真っ先にあの女だけ見る」


 その言い方に、ルゥの腹の底が熱くなる。


 見ている。

 見ているに決まっている。

 だが、世界にまで拡張された計画の輪郭を見れば見るほど、逆にエクラリアの顔だけが濃くなるのだ。白衣の袖も、穏やかな声も、子どもの痛みへ触れる手つきも。あれが全部、世界規模の切除へ繋がっていると思った瞬間、自分の中であいつだけが許せなくなる。


「お前に説明すんのも腹立つけど」


 ルゥは吐き出す。


「あいつは救う顔してやるんだよ」


 エルヴィンは言い返さない。

 ルゥはそこで止まらなかった。


「ただの悪党ならまだ簡単だった。壊してるくせに、あいつは本気で救ってるつもりでいる。だから止めなきゃならないんだ」


「それはお前の理由だ」


「だったら何だよ」


「今してるのは世界の話だ」


 その一言が、ルゥの中の何かをきしませた。


「世界」


 噛むように繰り返す。


「便利だよな、その言葉。ひとり置いてく時に」


 エルヴィンの表情がわずかに固まる。


 ルゥはそこへ踏み込んだ。


「構造。計画。節点。全部分かるよ。お前の言ってることは正しい。正しいけど、その正しい順番の中に、置いてかれるやつが出る」


「だから順番を考えてる」


「だから置いてけるって?」


「そういう話にすり替えるな」


「すり替えてねえよ!」


 ルゥの声が跳ねた。


「お前はそうやって、でかい話にしとけば自分の痛みが綺麗になると思ってるだけだろ」


 そこで、エルヴィンの目つきが変わった。


 静かなままではある。

 だが、今の一言は確実に当たったのだと分かる変わり方だった。


「……言うな」


 低い声だった。


「何でだよ」


「今それを言うなって言ってる」


「図星か」


「言うな!」


 今度はエルヴィンの方が先に怒鳴った。

 ルゥは一瞬だけ黙る。

 こいつがここまで露骨に声を荒げるのは珍しい。


 エルヴィンは机へ片手をついた。

 紙束が少しずれる。


「俺が妹のことで綺麗に割り切れてるように見えるなら、お前は本当に何も見てない」


「じゃあ何だ」


「だから言ってるんだろ」


 エルヴィンは噛みつくみたいに続ける。


「一人に引っ張られると終わるって」


「お前だって引っ張られてるじゃねえか」


「引っ張られてるから止めてるんだよ!」


 その言葉で、部屋の温度がまた一段上がった。


 ルゥは息を詰める。

 エルヴィンはもう隠していなかった。

 妹のことを。

 割り切れていないことを。

 それでもなお、そちらへ引っ張られたまま全部を台無しにしないよう、無理やり順番を守ろうとしていることを。


「俺があいつら一人ずつ殺して終わる話にしてえなら、とっくにそうしてる」


 エルヴィンの声は荒い。

 けれど、荒さの奥にあるのは激情だけじゃない。ずっと押し殺してきた疲れのようなものも混じっていた。


「でも終わらねえんだよ。聖光団だけ潰しても、理論が残る。理論を潰しても、使えるって言い出す側が残る。オレリアンがいる。計画がある。だから俺は、お前に感情で動くなって言ってるんじゃない」


 そこで一拍、息が切れる。


「俺と同じ失敗すんなって言ってる」


 ルゥは何も返せなかった。


 その言葉だけは、ただの正論じゃなかったからだ。

 綺麗な世界のための理屈ではなく、傷ついたやつがそのまま絞り出した警告に近かった。


 だが、そこで引けるほど自分も綺麗じゃない。


「それでも」


 ルゥは低く言う。


「エクラリアを止めなきゃ終わらない」


「だからひとつだって言ってる」


「私にはひとつじゃない」


 即答だった。

 自分でも驚くほど迷いがなかった。


「分かってるよ。計画も、外の連中も。全部絡んでる。分かってる」


 ルゥは机の上の資料を指で叩く。


「でもその全部に、あいつの顔が混じってる。私の中では、そうなってる」


 エルヴィンはルゥを睨んだ。

 ルゥも睨み返す。

 正しさの押しつけ合いではない。

 傷と立場のぶつかり合いだ。

 どっちも少しずつ汚い。

 どっちも少しずつ、自分の傷を世界の言葉で包もうとしている。


「……最悪だなお前」


 エルヴィンが吐き捨てる。


「お前もだ」


「知ってる」


「こっちもだよ」


 その返しで、ほんのわずかにだけ空気が動いた。

 和んだわけじゃない。

 でも、同じ場所の汚さを見た時だけ生まれる種類の静けさがあった。


 エルヴィンは乱れた紙束を整え直す。

 今度は感情ではなく、仕事の手つきだ。


「外部封鎖は俺がやる」


 声はまだ少し荒れている。


「儀式場の外周、避難経路、ギルド側の足止め、オレリアンの動き。そっちは全部こっちで見る」


 ルゥは黙って聞く。


「お前は中へ入れ」


 エルヴィンが続ける。


「節点の位置、内部の揺れ。お前しか分からない。そこを潰せ」


「エクラリアは」


「見つけたら止めろ」


 短い返答。

 許したわけでも、譲ったわけでもない。

 ただ、現実の中でそこを切り離せないと認めた言い方だった。


「ただし」


 エルヴィンが強く言う。


「優先順位を見失うな。お前の怒りのために全部を吹き飛ばすな」


「お前こそ」


 ルゥはすぐ返す。


「妹が絡んだら、綺麗にやれるのかよ」


「やれねえよ」


 また即答だった。


「だからお前に言ってる。俺が歪んだ時、お前が止めろ」


 ルゥはそこで少しだけ言葉を失った。


 そういうことを、こいつが口にするのは珍しい。

 自分の綻びを、道具じゃなく前提として差し出してくるのは。


「……信じろって?」


「全面的には無理だろ」


「だな」


「こっちもだ」


 短い。

 乾いている。

 でも、それで十分だった。


 相棒みたいな綺麗なものじゃない。

 友情でもない。

 利害と傷と現実が、ぎりぎり同じ方向を向いているだけだ。


 エルヴィンは結晶片を布で包み、資料をいくつか分けた。持ち出すもの、残すもの、燃やすもの。判断が速い。こういう時だけ、腹が立つほど無駄がない。


「分かり合えたと思うなよ」


 エルヴィンが言う。


「思ってない」


「ならいい」


 ルゥはようやく椅子へ座り直した。

 足が少し震えていた。喧嘩で消耗したのか、眠っていないからか、自分でも分からない。


 窓の外では、朝が完全に始まっていた。

 荷車の音。

 人の声。

 店を開ける音。

 乱れていて、うるさくて、生きている世界。


 それを薄くする理屈が、もう机の上まで来ている。


 分かり合えたわけではなかった。

 それでも、同じ方向を向かなければ、もっと悪いものに全部持っていかれることだけは、二人とも知っていた。

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