第41話 前段階の被験者
いったん話が終わって、紙束を閉じようとしたときだった。
その名前を見つけた瞬間だけ、ルゥの中で、それまでの議論が全部遠くなった。
貸し室の中には、さっきの口論の熱がまだ少し残っていた。机の上には広げたままの資料、布で包み直された結晶片、役割ごとに分けられた紙束。窓の外では朝が完全に立ち上がり、荷車の音も、人の声も、仕込みの物音も、すっかり昼の方へ傾き始めている。
それなのに、ルゥ=イリスの耳には、その全部が急に薄くなった。
紙の端に、母の名があった。
大きく書かれていたわけではない。
見出しでもない。
資料の末尾に近い、小さな照合欄の中。
関連記号と注釈の並ぶ、誰も感情を込めて読まない種類の場所に、それは静かに混じっていた。
母の名前。
ルゥの指が止まる。
呼吸も一拍だけ遅れる。
名の横には、短い符号が並んでいた。
前段階群・B-12
高感応個体
処置後経過、要継続観察
たったそれだけだった。
それだけなのに、喉の奥が冷えた。
名簿ではない。
信徒記録でもない。
あまりにも、研究と管理の匂いがする書き方だった。
「……何だ、これ」
声は思ったより低かった。
怒鳴るより前に、足元が抜けた時の声だった。
エルヴィンが顔を上げる。
ルゥの視線の落ちた先を追い、すぐには何も言わない。
机の反対側から身を寄せ、紙束を引き寄せる。
ルゥはそのあいだ、紙面から目を離せなかった。
前段階群。
その四文字が、じわじわ嫌な意味を帯び始める。
セレス・ブルームの理論形成期。
個体処置。
広域干渉。
暴走抑止。
過剰因子の減衰。
さっきまで机の上で世界規模の話をしていたものが、急にひとりの名へ縮んで戻ってくる。
母。
またそこへ戻る。
戻るというより、最初からそこへ繋がっていたものが、今ようやく同じ線の上に現れた感じだった。
「ただの信徒記録じゃないな」
エルヴィンが低く言う。
ルゥは返事をしなかった。
する余裕がなかった。
エルヴィンは資料を二、三枚めくり、同じ記号のついた別紙を探す。
指先の動きは速いが、雑ではない。
こういう時のこいつは、腹が立つほど仕事の顔になる。
「B-12……前段階群……」
独り言のように繰り返しながら、別の紙を引き抜く。
今度の紙はもっと古かった。
端が擦れている。
正規の写しではなく、誰かが急いで抜き書きした控えらしい。
見出しにはぼかしたような表現が並んでいる。
高感応群における安定化前観察
処置後反応の個体差
広域干渉理論に資する基礎群
ルゥは息を止めた。
「基礎群って何だよ」
エルヴィンは紙面から目を上げない。
「言い方を変えた被験群だろうな」
その答えは短すぎた。
短すぎるせいで、余計に現実味が出る。
「……被験者って書けよ」
ルゥが吐き出すと、エルヴィンはようやく顔を上げた。
「書かない方が通るからだろ」
その返しが、ひどく冷たく聞こえた。
「保護、観察、処置、経過、適応。そういう語で包んだ方が、救済の記録に見える」
ルゥは紙を持つ指に力を込めた。
破れそうになる。
だが今ここで破ったところで何にもならないことくらい、分かっている。
「断定はまだできない」
エルヴィンが言う。
「でも、これはセレス・ブルームの前段階理論と繋がる」
彼は机の上に別の紙を広げた。
今度はさっき見ていた広域魔力干渉図の草案に近いものだ。個体単位の処置記録と、集団単位の反応観察が矢印で結ばれている。中央には、まだ未確定の注記が走り書きされていた。
個別安定化処置の累積観察は、広域調整理論の基礎データとなり得る。
ルゥは目を細めた。
個別安定化。
累積観察。
基礎データ。
紙の上では、全部がなめらかに繋がっている。
ひとりの苦しみ。
ひとりの処置。
ひとりの経過観察。
その全部が、どこかの時点で“世界を調整する理論”の方へ流れていく。
「保護と処置と研究の境目がない」
ルゥが言うと、エルヴィンは小さく頷いた。
「最初から曖昧だったんだろうな」
その声に、いつもの乾きとは別のものが混じる。
嫌悪か、疲れか、あるいはその両方か。
「最初はたぶん、もっと小さかったはずだ」
エルヴィンは紙面を指で追う。
「暴走しやすいやつ。高感応で日常に適応しにくいやつ。属性干渉が強すぎるやつ。そういう連中を“助ける”名目で拾う。処置する。経過を見る。結果が溜まる」
ルゥは黙って聞く。
「それ自体は、外から見れば支援に見える」
「でも中身は観察だ」
「そうだ」
エルヴィンは言う。
「しかも観察だけじゃない。理論の肥やしにもなる」
ルゥの喉がきしんだ。
母は、どこまであの計画に触れていた。
問いが、今度はもっと具体的な形で立ち上がる。
ただの信徒ではなかったのか。
救済を受けた側であると同時に、理論形成期の素材でもあったのか。
知らないうちに記録され、比較され、群へ組み込まれていたのか。
そのどれもがあり得る気がした。
あり得るから、吐き気がする。
「母は何をされた」
ルゥは訊いた。
ほとんど独り言みたいな声だった。
「まだ分からない」
エルヴィンの答えは即座だった。
分からないことを分かったふりでは埋めない。
「ただ、ただの信徒じゃない可能性は高い。前段階群の一人。理論形成期の接触対象。あるいは処置と経過観察の記録が、そのまま流用された」
「流用」
「言葉が悪いか」
「いや」
ルゥは首を振る。
「ちょうどいい」
そう言った瞬間、胸の奥で別の痛みが走る。
ちょうどいい、なんて言葉を母のことに使いたくなかった。
でも今の自分には、もっとましな語が見つからない。
エルヴィンは紙をさらに二枚、三枚と探っていく。
どれも断片だ。
どれも決定打には足りない。
けれど、足りない断片の方がかえって現実味を持つことがある。
「こっちは関連案件照合」
別の控えを引く。
感応高値個体群の追跡記録は、後続理論との照合対象とする。
宗教支援団体経由の観察資料、一部移管。
原記録、管轄保留。
「……管轄保留」
ルゥが繰り返す。
「どこが」
エルヴィンはその紙を見下ろしたまま、少しだけ黙った。
その沈黙で、ルゥは嫌な予感を覚える。
「外に出てる資料はここまでだ」
エルヴィンは言う。
「続きがあるなら、閉じられてる」
「どこに」
問い返しながら、もう半分は分かっていた。
教団の中にはない。
少なくとも、教団の手元だけで完結していない。
広域構想の前段階に関わる記録なら、もっと別の場所で保管されているはずだ。
エルヴィンはすぐには答えなかった。
代わりに、今までより少しゆっくり紙束を揃え直す。
その手つきに、微かなためらいが混じる。
「……国家書庫だ」
その四文字は、静かすぎるほど静かに置かれた。
ルゥはすぐには反応しなかった。
頭の中で、その言葉だけが遅れて広がる。
国家書庫。
教団の奥ではない。
外の世界の側。
秩序と分類と保管の中に、母の記録がある。
聖光団だけではない。
母の秘密は、外側の手でも閉じられている。
「やっぱり、そっちか」
低く言うと、エルヴィンは顔を上げた。
「まだ行くって言ってない」
「でもそういう顔してる」
ルゥは自分でも、今の顔がどんな顔をしているのか分からなかった。
怒っている。
青ざめてもいる。
そしてたぶん、もう決めかけている。
エルヴィンは小さく息を吐いた。
「本当は近づけたくない」
その言葉は思いのほか率直だった。
ルゥは少しだけ目を見開く。
エルヴィンは机の上の断片資料を指で押さえた。
「これだけ持ち出すのだって、もう十分危ない。正式に見つかれば俺の首じゃ済まない。お前をそこへ近づければ、もっとまずい」
「止めるのか」
「止めたい」
今度も即答だった。
「書庫は教団の白い施設とは別の意味で危ない。向こうは痛みを整える顔をしてる。あっちは記録と正しさの顔をしてる。しかもお前の母親の記録だ。触れた時のお前が、どうなるか分からない」
ルゥは黙る。
止めたい。
そう言いながら、それでも完全には止めない声だと分かってしまう。
「だったらなおさら、行くしかないだろ」
低く返す。
「これ見たままで、知らないままで、最終段階に突っ込めるわけない」
「知ったら動けなくなるかもしれない」
「知らないままの方が、もっと駄目だ」
エルヴィンは言い返さなかった。
その沈黙が、ただの反論切れではないことくらい分かる。
こいつはたぶん、止める理由をいくつも持っている。
危険だから。
書庫が向こうの領域だから。
自分も危ない橋を渡っているから。
そして何より、ルゥが母のことになると、世界規模の話さえ一瞬で吹き飛ばす顔をするから。
でも今、その顔を見てしまっている。
ルゥ自身も分かっていた。
今の自分は、綺麗に戦略の話だけをできる状態じゃない。
ついさっきエルヴィンとぶつかった時より、さらにひどい。
セレス・ブルームという世界規模の計画が、もう一度母へ繋がってしまった以上、母のことを知らないまま次へ進めば、どこかで必ず足を取られる。
「……知りたくない」
ルゥはぽつりと言った。
自分でも意外なほど素直な声だった。
「でも」
そこで言葉が切れる。
知りたくない。
母がただの被害者でなくなるかもしれない。
救済の対象であると同時に、理論形成期の材料にもされていたかもしれない。
保護と観察のあいだに置かれていたかもしれない。
そんな記録を読むことは、母をもう一度別の角度から失い直すことに近い。
それでも。
「知らないままじゃ、行けない」
その一言だけは、はっきり出た。
エルヴィンは視線を逸らし、窓の外の朝を見た。
石畳。
荷車。
人の声。
いつも通りに始まる街。
その横顔を見ながら、ルゥは初めて、こいつが本気で自分をそこへ近づけたくないのだと分かった。
危険だから。
面倒だからではない。
使える駒を減らしたくないからでもない。
今のルゥに、その場所は危険すぎると分かっているからだ。
「……最悪だな」
エルヴィンが小さく言う。
「何が」
「どっちに転んでもだ」
それだけだった。
それから机の上の資料を、もう一度分け直す。
持ち出すもの。
残すもの。
燃やすもの。
書庫へ繋がる断片だけを別に抜く。
「追うなら、記録だ」
仕事の声へ戻っている。
だが、完全には戻れていない。
「外に出てるのはここまで。続きは閉じられてる。原記録、移管記録、面談控え、観察欄。全部、向こうにあるはずだ」
「案内できるのか」
「できるとは言ってない」
「でも場所は分かる」
「……おおよそは」
ルゥはそれで十分だと思った。
エルヴィンは最後に、母の名が載った紙を机の中央へ置く。
今までより丁寧な手つきだった。
「急げ」
今度こそ、その声にはためらいがなかった。
「向こうも動く。セレス・ブルームが本格段階に入る前に、お前の母親の記録を押さえろ」
そして、少しだけ間を置く。
「今のお前を、そのまま最終段階へ入れたくない」
ルゥは顔を上げた。
エルヴィンはもうこちらを見ていない。
資料の束をまとめるふりをして、言い過ぎたとでも思ったのかもしれない。
だが、取り消しはしなかった。
その不器用さが少しだけ腹立たしくて、少しだけありがたかった。
ルゥはもう一度、紙の上の母の名を見る。
前段階群。
高感応個体。
処置後経過、要継続観察。
セレス・ブルームは、世界を変える計画だった。
けれどルゥにとってその瞬間、それはもう一度、母を失い直すための名前にもなった。




