第39話 秩序のために
エルヴィンが次に見せた書類には、祈りの言葉は一つもなかった。
その代わり、整然とした欄の中に、秩序、安定、管理、抑制という語だけが並んでいた。
机の上に広げられた紙は、聖光団の内部記録よりずっと冷たく見えた。白い施設の帳面には、まだ「浄化」や「祝福」といった、人を騙すための柔らかさが残っていた。けれど今エルヴィンが押し出してきた資料には、それすらない。
治安維持上の評価。
暴走抑止効果。
局地的安定化への応用可能性。
限定運用の条件。
統治補助資源としての検討余地。
字面だけを追えば、ただの行政文書だ。
それがたまらなく気持ち悪かった。
ルゥ=イリスは紙の端を指で押さえたまま、しばらく黙っていた。夜明けの光はまだ弱く、貸し室の窓から入る灰色の明るさが、机の上の文字を余計に乾いて見せている。階下では仕込みの物音が続き、外では荷車の軋みがときどき不規則に鳴る。世界はいつも通り始まりかけているのに、机の上だけ別の温度を持っていた。
「……何だよ、これ」
やっとそう言うと、エルヴィンは机の反対側で紙をめくった。
「内部メモだ」
「どこの」
「治安監察。行政補佐。軍の一部。名前は出てないが、書き方で分かる」
エルヴィンは声を抑えたまま続ける。
「聖光団を危険視してる連中の文書だけじゃない。逆もある。危険だが、使えるかもしれない、って連中の方だ」
ルゥは眉を寄せた。
使える。
その一語が、喉の奥に刺さる。
エルヴィンは次の紙を引いた。
「こっちは要約だ。原本は見せられない」
紙面には、いくつかの項目が簡潔に並んでいる。
種族差由来の摩擦低減。
属性暴走の発生率減少。
高感応個体の安定化。
局所的衝突の沈静化。
統治効率への寄与可能性。
祈りの言葉は一つもない。
そのかわり、世界を上から均していくような単語ばかりが並んでいる。
「あり得る話だろ」
エルヴィンが言った。
「種族差が壁になってるのは事実だ。暴走が街を壊すのも事実。属性対立や感応過多で、日常のあちこちが軋んでるのも事実」
ルゥは黙っている。
「そこへ抑えられる技術があるって話が来たら、飛びつく奴は出る」
「技術じゃない」
ルゥは低く言った。
「切除だ」
「そうだな」
エルヴィンは否定しない。
「だが、紙の上ではそうは書かれない」
その返しが、ひどく現実的だった。
ルゥは資料の束から別の一枚を引き抜いた。そこには簡単な比較表があり、既存の対策と新規介入案が並べられている。
既存対策。
設備改修。
職能別分離。
巡回支援。
個別看護。
薬草療法。
対話調停。
新規介入案。
広域干渉。
反応閾値の調整。
過剰因子の減衰。
局所安定化。
語彙が気持ち悪いほど似ていた。
聖光団の帳面で見たものと。
ただしこちらは、信仰の布を剥いだあとの骨だけになっている。
「反応閾値の調整って何だよ」
ルゥが問うと、エルヴィンは肩をすくめた。
「要するに過敏すぎるものを鈍くする、だろうな」
「減衰は」
「強すぎるものを弱くする」
ルゥの奥歯がきしんだ。
「言い換えただけじゃないか」
「そうだ」
エルヴィンはあくまで淡々としている。
「だから怖い」
彼は紙を一枚、さらに奥から引き抜く。
「こっちは会議記録の写しだ」
正式な議事録ではないらしい。
走り書きに近い。
だが、そのぶん本音が残っている。
現行制度では対処限界あり。
局地的暴走と種族対立の頻発は秩序維持上の重大懸念。
セレス・ブルーム構想の限定導入、検討に値する。
宗教組織への全面委託は危険。だが理論転用は有効性あり。
運用監督者の適正選別が前提。
ルゥはその最後の行で、ひどく嫌な予感を覚えた。
「……監督者」
「そこだ」
エルヴィンの指が、別の紙面の一箇所を叩く。
そこには個人名が伏せ字のように削られていたが、肩書きだけは残っていた。
中央治安監察補佐。
広域魔力秩序調整部会、兼任。
宗教支援組織監督権限、保有。
「教団の外にいる奴じゃない」
ルゥは低く言う。
「外だけじゃない」
エルヴィンが返した。
「内にもいる」
ルゥは顔を上げた。
「奴の名は、オレリアンだ」
その名は、静かに置かれた。
「治安維持側の人間で、教団の幹部でもある」
エルヴィンは続ける。
「だからこれまで潰しきれない。危険視もする。監視もする。だが同時に、使える可能性を手放せない」
ルゥはしばらく動かなかった。
聖光団の中の論理。
外の世界の不便。
暴走を減らしたいという切実さ。
そして机の上の紙が語る、秩序、管理、抑制。
そこへ今、オレリアンという名前が一本の線で刺さる。
「……兼任、って何だよ」
「そのままの意味だろ」
「両方に足突っ込んでるってことか」
「そういうことになる」
エルヴィンはさらに別の資料を開いた。
今度は映像記録用の結晶片だった。表面に薄く術式の文様が走っている。貸し室の簡素な卓には不釣り合いなほど精密なものだ。エルヴィンが短く術式を起動すると、結晶の上に淡い像が浮かび上がった。
鮮明ではない。
保存用の簡易記録なのだろう。
だが人物の輪郭と声は十分に分かる。
これがオレリアンだった。
ルゥは初めてその顔を、はっきりと見た。
白衣ではない。
軍服でもない。
治安側の上着に近い、無駄のない濃色の衣。
机の向こうへ座り、何人かの前で報告をしているらしい。
声は抑えられ、熱を帯びていない。
だから逆に、嫌というほど耳に残る。
『多様性は資源であると同時に、不安定性でもあります』
その一言で、ルゥはすぐに嫌悪を覚えた。
オレリアンは紙を見ながら続ける。
『種族差は文化を生みます。しかし同時に、設備格差、感応差、属性衝突、就労不均衡を固定化する。暴走の頻発もまた、局地的には治安上の重大要因です』
理屈としては分かる。
分かるから嫌だった。
市場で見た。
ギルドで見た。
宿屋で見た。
普通の部屋が、誰かにとっては普通ではないことも。
能力が役割へ直結し、その役割が壁にもなることも。
オレリアンはそこで一度だけ顔を上げる。
『制度改修だけでは、速度が足りない』
冷たい言い方ではなかった。
むしろ、苦い現実を受け入れている者の顔だった。
『設備を変え、偏見を減らし、支援を増やす。それは当然、続けるべきです。ですが、それだけでは間に合わない局面がある』
エクラリアの講演と似た構造だ、とルゥは思った。
正論を認め、その先で刃を出す。
『セレス・ブルームは、信仰として扱えば危険です』
オレリアンは言う。
『だが理論として見れば、暴走抑止、種族摩擦の低減、広域安定化に資する可能性がある』
資する。
可能性。
低減。
どれも、血の通わない綺麗な言葉だった。
『限定的利用、監督下運用、対象選別の厳格化。この三条件が満たされるなら、全面否定は拙速です』
ルゥはそこで結晶片から目を逸らした。
「何だよ、それ」
声が低くなる。
怒鳴るより先に、吐き気に近い感情が来る。
「限定的利用?」
結晶の中では、オレリアンがさらに続けていた。
『秩序とは、善意だけでは維持できない。過剰な差異が局地的な破綻を生むのであれば、調整技術の導入は統治上の現実的選択肢です』
ルゥは机を叩きそうになって、ぎりぎりで止めた。
「結局、どっちも同じだ」
吐き出す。
「違う形で、人を薄くしたいだけだろ」
エルヴィンは答えなかった。
その沈黙が、かえって腹立たしい。
「救うとか、安定させるとか、言い方を変えてるだけで」
ルゥは続ける。
「扱いやすい人間が欲しいだけだ」
その一言は、貸し室の薄い壁に吸われていった。
階下の物音はまだ続いている。
世界は相変わらず雑で、うるさくて、人間的だ。
それなのに、机の上の資料だけがその世界を上から均そうとしている。
エルヴィンはしばらく黙ったあと、ようやく口を開いた。
「……そういうことだろうな」
弱い同意だった。
全面的な肯定ではない。
だが否定しきれない者の声だった。
「こっち側の理屈も分かる」
彼は視線を資料へ落としたまま言う。
「暴走で死ぬやつがいる。種族差で職も住処も削られるやつがいる。秩序を預かる側は、それを“個人の不幸”だけで片づけられない」
ルゥは眉を寄せる。
「だから削るのか」
「だから欲しがる」
エルヴィンは短く返した。
「使える理屈をな」
その言葉がひどく嫌だった。
エクラリアは救済としてやる。
苦しみを減らしたいと思っている。
エルヴィン自身も認めたように、あれは完全な偽善ではない。
だが今、机の上でオレリアンが語っているのは別の動機だった。
秩序。
安定。
管理。
抑制。
救いたい者と、管理したい者。
動機が違っても、人から何かを奪う理屈は、ひどく似た形をしていた。
ルゥはそれがたまらなく嫌だった。
「聖光団だけなら、まだ分かりやすかった」
自分でも気づかないうちに、そう呟いていた。
エルヴィンが顔を上げる。
「何が」
「敵が」
ルゥは言う。
「奴等だけが狂ってるなら、壊せば済む。そう思えた」
貸し室の窓の外では、ようやく空が少し青み始めている。
朝の荷車は増え、店を開ける音も混じり始めた。
誰かが誰かに怒鳴り、別の誰かが笑う。
乱れている。
でもその乱れの中に、人がいる。
「けど本当に怖いのは」
ルゥは結晶片の淡い光を見た。
「その理屈を、世界の方も分かり始めてるってことだろ」
エルヴィンは何も言わなかった。
否定できない時の沈黙だった。
ルゥは資料の束を見下ろした。
教祖はいない。
Cael は空席だ。
聖光団の起点は啓示ではなく、苦しみから逆算された技術の顔をしている。
そのうえで、外の制度の側までもが利用価値を見ている。
窓の外では、朝の荷車がまた石畳を軋ませた。
乱れていて、うるさくて、生きている音だった。
そのはずなのにルゥは、その雑多な世界の隅々にまで、白い施設の理屈がもう染み出し始めている気がして、ひどく寒くなった。




