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君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第10章 セレス・ブルーム

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第39話 秩序のために

 エルヴィンが次に見せた書類には、祈りの言葉は一つもなかった。


 その代わり、整然とした欄の中に、秩序、安定、管理、抑制という語だけが並んでいた。


 机の上に広げられた紙は、聖光団の内部記録よりずっと冷たく見えた。白い施設の帳面には、まだ「浄化」や「祝福」といった、人を騙すための柔らかさが残っていた。けれど今エルヴィンが押し出してきた資料には、それすらない。


 治安維持上の評価。

 暴走抑止効果。

 局地的安定化への応用可能性。

 限定運用の条件。

 統治補助資源としての検討余地。


 字面だけを追えば、ただの行政文書だ。

 それがたまらなく気持ち悪かった。


 ルゥ=イリスは紙の端を指で押さえたまま、しばらく黙っていた。夜明けの光はまだ弱く、貸し室の窓から入る灰色の明るさが、机の上の文字を余計に乾いて見せている。階下では仕込みの物音が続き、外では荷車の軋みがときどき不規則に鳴る。世界はいつも通り始まりかけているのに、机の上だけ別の温度を持っていた。


「……何だよ、これ」


 やっとそう言うと、エルヴィンは机の反対側で紙をめくった。


「内部メモだ」


「どこの」


「治安監察。行政補佐。軍の一部。名前は出てないが、書き方で分かる」


 エルヴィンは声を抑えたまま続ける。


「聖光団を危険視してる連中の文書だけじゃない。逆もある。危険だが、使えるかもしれない、って連中の方だ」


 ルゥは眉を寄せた。

 使える。

 その一語が、喉の奥に刺さる。


 エルヴィンは次の紙を引いた。


「こっちは要約だ。原本は見せられない」


 紙面には、いくつかの項目が簡潔に並んでいる。


 種族差由来の摩擦低減。

 属性暴走の発生率減少。

 高感応個体の安定化。

 局所的衝突の沈静化。

 統治効率への寄与可能性。


 祈りの言葉は一つもない。

 そのかわり、世界を上から均していくような単語ばかりが並んでいる。


「あり得る話だろ」


 エルヴィンが言った。


「種族差が壁になってるのは事実だ。暴走が街を壊すのも事実。属性対立や感応過多で、日常のあちこちが軋んでるのも事実」


 ルゥは黙っている。


「そこへ抑えられる技術があるって話が来たら、飛びつく奴は出る」


「技術じゃない」


 ルゥは低く言った。


「切除だ」


「そうだな」


 エルヴィンは否定しない。


「だが、紙の上ではそうは書かれない」


 その返しが、ひどく現実的だった。


 ルゥは資料の束から別の一枚を引き抜いた。そこには簡単な比較表があり、既存の対策と新規介入案が並べられている。


 既存対策。

 設備改修。

 職能別分離。

 巡回支援。

 個別看護。

 薬草療法。

 対話調停。


 新規介入案。

 広域干渉。

 反応閾値の調整。

 過剰因子の減衰。

 局所安定化。


 語彙が気持ち悪いほど似ていた。

 聖光団の帳面で見たものと。

 ただしこちらは、信仰の布を剥いだあとの骨だけになっている。


「反応閾値の調整って何だよ」


 ルゥが問うと、エルヴィンは肩をすくめた。


「要するに過敏すぎるものを鈍くする、だろうな」


「減衰は」


「強すぎるものを弱くする」


 ルゥの奥歯がきしんだ。


「言い換えただけじゃないか」


「そうだ」


 エルヴィンはあくまで淡々としている。


「だから怖い」


 彼は紙を一枚、さらに奥から引き抜く。


「こっちは会議記録の写しだ」


 正式な議事録ではないらしい。

 走り書きに近い。

 だが、そのぶん本音が残っている。


 現行制度では対処限界あり。

 局地的暴走と種族対立の頻発は秩序維持上の重大懸念。

 セレス・ブルーム構想の限定導入、検討に値する。

 宗教組織への全面委託は危険。だが理論転用は有効性あり。

 運用監督者の適正選別が前提。


 ルゥはその最後の行で、ひどく嫌な予感を覚えた。


「……監督者」


「そこだ」


 エルヴィンの指が、別の紙面の一箇所を叩く。


 そこには個人名が伏せ字のように削られていたが、肩書きだけは残っていた。


 中央治安監察補佐。

 広域魔力秩序調整部会、兼任。

 宗教支援組織監督権限、保有。


「教団の外にいる奴じゃない」


 ルゥは低く言う。


「外だけじゃない」


 エルヴィンが返した。


「内にもいる」


 ルゥは顔を上げた。


「奴の名は、オレリアンだ」


 その名は、静かに置かれた。


「治安維持側の人間で、教団の幹部でもある」


 エルヴィンは続ける。


「だからこれまで潰しきれない。危険視もする。監視もする。だが同時に、使える可能性を手放せない」


 ルゥはしばらく動かなかった。


 聖光団の中の論理。

 外の世界の不便。

 暴走を減らしたいという切実さ。

 そして机の上の紙が語る、秩序、管理、抑制。


 そこへ今、オレリアンという名前が一本の線で刺さる。


「……兼任、って何だよ」


「そのままの意味だろ」


「両方に足突っ込んでるってことか」


「そういうことになる」


 エルヴィンはさらに別の資料を開いた。


 今度は映像記録用の結晶片だった。表面に薄く術式の文様が走っている。貸し室の簡素な卓には不釣り合いなほど精密なものだ。エルヴィンが短く術式を起動すると、結晶の上に淡い像が浮かび上がった。


 鮮明ではない。

 保存用の簡易記録なのだろう。

 だが人物の輪郭と声は十分に分かる。


 これがオレリアンだった。


 ルゥは初めてその顔を、はっきりと見た。


 白衣ではない。

 軍服でもない。

 治安側の上着に近い、無駄のない濃色の衣。

 机の向こうへ座り、何人かの前で報告をしているらしい。

 声は抑えられ、熱を帯びていない。

 だから逆に、嫌というほど耳に残る。


『多様性は資源であると同時に、不安定性でもあります』


 その一言で、ルゥはすぐに嫌悪を覚えた。


 オレリアンは紙を見ながら続ける。


『種族差は文化を生みます。しかし同時に、設備格差、感応差、属性衝突、就労不均衡を固定化する。暴走の頻発もまた、局地的には治安上の重大要因です』


 理屈としては分かる。

 分かるから嫌だった。


 市場で見た。

 ギルドで見た。

 宿屋で見た。

 普通の部屋が、誰かにとっては普通ではないことも。

 能力が役割へ直結し、その役割が壁にもなることも。


 オレリアンはそこで一度だけ顔を上げる。


『制度改修だけでは、速度が足りない』


 冷たい言い方ではなかった。

 むしろ、苦い現実を受け入れている者の顔だった。


『設備を変え、偏見を減らし、支援を増やす。それは当然、続けるべきです。ですが、それだけでは間に合わない局面がある』


 エクラリアの講演と似た構造だ、とルゥは思った。

 正論を認め、その先で刃を出す。


『セレス・ブルームは、信仰として扱えば危険です』


 オレリアンは言う。


『だが理論として見れば、暴走抑止、種族摩擦の低減、広域安定化に資する可能性がある』


 資する。

 可能性。

 低減。

 どれも、血の通わない綺麗な言葉だった。


『限定的利用、監督下運用、対象選別の厳格化。この三条件が満たされるなら、全面否定は拙速です』


 ルゥはそこで結晶片から目を逸らした。


「何だよ、それ」


 声が低くなる。

 怒鳴るより先に、吐き気に近い感情が来る。


「限定的利用?」


 結晶の中では、オレリアンがさらに続けていた。


『秩序とは、善意だけでは維持できない。過剰な差異が局地的な破綻を生むのであれば、調整技術の導入は統治上の現実的選択肢です』


 ルゥは机を叩きそうになって、ぎりぎりで止めた。


「結局、どっちも同じだ」


 吐き出す。


「違う形で、人を薄くしたいだけだろ」


 エルヴィンは答えなかった。

 その沈黙が、かえって腹立たしい。


「救うとか、安定させるとか、言い方を変えてるだけで」


 ルゥは続ける。


「扱いやすい人間が欲しいだけだ」


 その一言は、貸し室の薄い壁に吸われていった。

 階下の物音はまだ続いている。

 世界は相変わらず雑で、うるさくて、人間的だ。

 それなのに、机の上の資料だけがその世界を上から均そうとしている。


 エルヴィンはしばらく黙ったあと、ようやく口を開いた。


「……そういうことだろうな」


 弱い同意だった。

 全面的な肯定ではない。

 だが否定しきれない者の声だった。


「こっち側の理屈も分かる」


 彼は視線を資料へ落としたまま言う。


「暴走で死ぬやつがいる。種族差で職も住処も削られるやつがいる。秩序を預かる側は、それを“個人の不幸”だけで片づけられない」


 ルゥは眉を寄せる。


「だから削るのか」


「だから欲しがる」


 エルヴィンは短く返した。


「使える理屈をな」


 その言葉がひどく嫌だった。


 エクラリアは救済としてやる。

 苦しみを減らしたいと思っている。

 エルヴィン自身も認めたように、あれは完全な偽善ではない。


 だが今、机の上でオレリアンが語っているのは別の動機だった。

 秩序。

 安定。

 管理。

 抑制。


 救いたい者と、管理したい者。

 動機が違っても、人から何かを奪う理屈は、ひどく似た形をしていた。


 ルゥはそれがたまらなく嫌だった。


「聖光団だけなら、まだ分かりやすかった」


 自分でも気づかないうちに、そう呟いていた。


 エルヴィンが顔を上げる。


「何が」


「敵が」


 ルゥは言う。


「奴等だけが狂ってるなら、壊せば済む。そう思えた」


 貸し室の窓の外では、ようやく空が少し青み始めている。

 朝の荷車は増え、店を開ける音も混じり始めた。

 誰かが誰かに怒鳴り、別の誰かが笑う。

 乱れている。

 でもその乱れの中に、人がいる。


「けど本当に怖いのは」


 ルゥは結晶片の淡い光を見た。


「その理屈を、世界の方も分かり始めてるってことだろ」


 エルヴィンは何も言わなかった。

 否定できない時の沈黙だった。


 ルゥは資料の束を見下ろした。

 教祖はいない。

 Cael は空席だ。

 聖光団の起点は啓示ではなく、苦しみから逆算された技術の顔をしている。

 そのうえで、外の制度の側までもが利用価値を見ている。


 窓の外では、朝の荷車がまた石畳を軋ませた。

 乱れていて、うるさくて、生きている音だった。

 そのはずなのにルゥは、その雑多な世界の隅々にまで、白い施設の理屈がもう染み出し始めている気がして、ひどく寒くなった。

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