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君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第9章 告解

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第37話 残っていたもの

 言葉にしたところで、失ったものは戻らない。


 ルゥはそう思っていたし、今でも半分はそう思っていた。

 けれど、戻らないからこそ、手放してはいけないものもある。


 審問室の灯りは静かだった。

 机。

 椅子。

 杯。

 祈りの意匠。

 脅しの道具は何もないのに、脅しだけがずっと続いているみたいな部屋。


 ルゥ=イリスは、しばらく黙っていた。

 黙ること自体が、また何かを明かしているのだろうと分かっていても、すぐには返せない。


 楽になればいい。

 軽くなればいい。

 痛みを言葉にすれば少しほどける。

 その理屈は分かる。

 分かるから、余計に嫌だった。


 ルゥは楽になりたくないのではない。

 苦しいままでいたいわけでもない。

 ただ、なかったことにされたくなかった。


 母を失ったことも。

 置いていかれた子どもだったことも。

 ミナを置いていけなかったことも。

 第二階梯で見た願いの小ささも。

 講演会で一瞬だけ頷きかけた自分も。


 その全部を「言葉にして軽くする」という手つきで整えられるのが、たまらなく嫌だった。


「……話したところで」


 ようやく出た声は低かった。


「戻るわけじゃない」


 ノクタヴィウスはすぐには答えなかった。

 その沈黙が、否定ではなく待機であると分かるのがまた嫌だ。


「戻るためのものではありません」


 やがて落ちた声は、相変わらず静かだった。


「では何のためだ」


「あなたが、その痛みと同じ形のまま壊れ続けないために」


 ルゥは少しだけ笑いそうになって、やめた。

 笑えるような場所ではない。

 それに、その言葉をただ綺麗事だと切り捨てきれない自分が、まだいる。


「壊れてる方が都合がいいくせに」


「そう見えるでしょう」


「違うのか」


 ノクタヴィウスはそこで、初めてごく小さく目を伏せた。


「違わない部分もあるのでしょうね」


 ルゥは眉を寄せる。

 この男は、こういう返し方をする。

 全部は否定しない。

 だから刃が鈍らない。


 その時だった。


 審問室の外で、何かの気配が変わった。


 大きな物音ではない。

 怒鳴り声でもない。

 ただ、空気の流れが少しだけ乱れる。

 遠くで足音が増え、次にそれが止まり、また別の扉が開閉される。


 定例の祈祷か。

 夜の巡回の交代か。

 あるいは深部処置の移送か。


 白い施設では、そういう小さな乱れの方が怖い。

 大騒ぎならまだ異常だと分かる。

 だが今のは、日常の中に混じる程度の揺れだった。


 ノクタヴィウスもその気配を聞いたはずだ。

 けれど顔色は変えない。

 ただ耳を澄ませるように、ほんの一瞬だけ呼吸を止めた。


 ルゥはそのわずかな間を見た。


 隙というほどではない。

 だが、この部屋の外にも世界が動いているという事実が、急に近くなる。


「なかったことにされたくない」


 ルゥは自分でも不意に、その言葉を口にしていた。


 ノクタヴィウスがゆっくりこちらを見る。


「何がです」


「全部だよ」


 机の下の手を握る。


「楽になるとか、軽くなるとか、そういう言い方で」


 声は少し掠れていた。

 でも、今は止めなかった。


「削って、整えて、前より生きやすくなったからいい、みたいに片づけられるのが嫌なんだ」


 ノクタヴィウスは答えない。

 続きを待っている。


「苦しみを削除して、はい解決ですって顔されるのが、一番嫌なんだよ」


 そこで初めて、ノクタヴィウスの目がほんの少しだけ揺れたように見えた。

 ほんの少しだけ。

 でも、ルゥにはそれで十分だった。


「……だから、話したくない」


 最後にそう付け足した時、扉の向こうで小さな金属音がした。


 封の外れる音に似ていた。


 ルゥが顔を上げる。

 ノクタヴィウスもまた、その方向へ視線を向ける。

 今度の沈黙は、待機ではなく警戒だった。


 そして次の瞬間、扉が開いた。


 大きくではない。

 慎重に、内側の様子を確かめるように。


 そこに立っていたのは、ミナだった。


 ルゥは一瞬、声を失った。


 耳の処置跡。

 薄い顔色。

 白い施設の灰衣。

 前より穏やかな顔。

 けれど今、その穏やかさの上に、別の震えが乗っている。


 震えていた。

 目元も、指先も、呼吸も。


 誰かに命じられて来た顔ではない。

 自分の意志でここまで来て、だからこそ怖がっている顔だった。


「……ミナ」


 呼ぶと、ミナは唇をきゅっと結んだ。

 泣きそうなのをこらえる時みたいな、子どもっぽい仕草だった。


「早く」


 それだけ言った。


 説明はない。

 どうやってここへ来たのかも、なぜ今ここへ来られたのかも、何も言わない。

 ただ、その一言だけで十分だった。


 ルゥは立ち上がりかけ、拘束布の感触を思い出す。

 だが腕の拘束は、いつの間にか緩んでいた。

 完全に自由ではない。

 それでも走れる程度には。


 ノクタヴィウスが立つ気配を見せる。

 ルゥの背筋が強張る。


 だが、彼はすぐには視線を上げなかった。


 ほんの一拍。

 それだけ遅れる。


 その遅れが、今は命取りにならなかった。


 ルゥは椅子を蹴るように立ち上がり、扉の方へ踏み出した。

 ミナが半歩だけ下がって道を空ける。

 その顔は青い。

 けれど目だけは、ちゃんとこちらを見ていた。


「お前も来い」


 ルゥはすぐに言った。


 当然のように。

 言わなければならないこととして。


 ミナは首を振った。


 その動きは小さい。

 けれど、はっきりしていた。


「何でだよ」


 ルゥの声が低くなる。

 焦りで喉が詰まりそうになる。


「今なら」


「今だから」


 ミナは短く言った。

 それから、少しだけ息を吸って、続ける。


「わたしは、まだここを全部嫌いになれない」


 その一言で、ルゥの足が止まった。


 分かっていた。

 頭のどこかでは、ずっと。


 聖光団は、ただ奪うだけの場所じゃない。

 寝床を与えた。

 食べ物を与えた。

 怖がり続けていたミナに、少しだけ穏やかでいられる場所を与えてしまった。

 その事実がある。


 だから、この物語は単純に切れない。


 それでも、聞きたくなかった。


「嫌いになれなくても」


 ルゥは絞り出す。


「それでも出ろよ」


 ミナは目を伏せた。

 白布のない耳元が、少しだけ震える。


「わたし、まだ分からないの」


 静かな声だった。


「ここが嫌だって思うところもある。怖いって思うところもある。でも、助けられたって思うところも、まだある」


 ルゥは何も言えなかった。


 ミナは完全に整えられていない。

 だからこそ、こうして来られた。

 だからこそ、残る理由まで自分の中に持っている。


 それが苦かった。


「早く」


 ミナがもう一度言う。


 今度は少し強く。


「今なら、まだ」


 その時、回廊の向こうで人の気配が増えた。

 大騒ぎではない。

 けれど、白衣がこちらへ向かっている気配。

 祈祷布の擦れる音。

 小さな、しかし確実な追撃。


 ルゥはミナの手首を掴もうとして、止めた。

 強引に引けば連れて行けるかもしれない。

 でも、それはミナの中にまだ残っている意志まで否定することになる。


 母を選ばせてもらえなかった怒りを抱えてきたくせに、今ここでミナの選ぶ余地を奪うのか。


 その一瞬の躊躇が、全部だった。


「……来ないのかよ」


 自分でも情けない声だと思った。


 ミナは小さく首を振る。


「ごめん」


 その謝り方は、完全に昔のミナだった。

 穏やかになりすぎた今の彼女の中に、それでもまだ残っている棘と迷いの名残。


 ルゥはそこで初めて、自分が救われる側にいるのだと知った。


 助けに来たつもりだった。

 取り戻す側でいたつもりだった。

 でも今、審問室の封を外し、震えながらここまで来て、「早く」と言っているのはミナの方だ。


 自分は助けられている。


 それなのに、ミナを救いきれない。


 足音が近づく。


 ルゥは息を呑み、最後に一歩だけ後ろへ下がった。

 ミナの目を見る。

 彼女は泣いていない。

 ただ、今にも泣きそうな顔で、それでも逃げろと言っている。


 ノクタヴィウスの気配が背後にある。

 振り返らなくても分かる。

 それなのに、決定的な視線が来ない。


 来れば止まる。

 来れば足が遅れる。

 来れば終わる。


 だがその一撃が、なぜか一拍遅い。


 ルゥはそのことを理解するより先に、審問室の外へ飛び出していた。


 白い回廊。

 薄い薬品の匂い。

 魔導灯。

 白衣の影。

 交差する足音。


 追撃はある。

 完全に見逃されたわけではない。

 でも、どこか決定打が遅れる。

 それがミナのせいなのか、ノクタヴィウスのせいなのか、あるいは偶然なのか、今は分からない。


 ただ、逃げるしかなかった。


 曲がり角をひとつ。

 裏回廊。

 洗い場脇。

 冷たい石床。

 水の匂い。

 夜気。


 外へ出た瞬間、世界の匂いが一気に戻ってきた。

 湿った木。

 遠い酒。

 川の冷たさ。

 市場の残り火。

 白い施設の薄い空気とは違う、濃くて、雑で、生きている匂い。


 ルゥは壁へ手をつき、荒く息を吐いた。


 助かった。

 それは事実だった。


 ミナが助けた。

 それも事実だった。


 でも、ミナは残った。

 一緒には来なかった。

 来られなかったのではなく、来ないことを選んだ。


 その違いが、胸の奥に鈍く残る。


 助けられたのに、救えなかった。


 そういう形の脱出があることを、ルゥはその夜、初めて知った。

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