第37話 残っていたもの
言葉にしたところで、失ったものは戻らない。
ルゥはそう思っていたし、今でも半分はそう思っていた。
けれど、戻らないからこそ、手放してはいけないものもある。
審問室の灯りは静かだった。
机。
椅子。
杯。
祈りの意匠。
脅しの道具は何もないのに、脅しだけがずっと続いているみたいな部屋。
ルゥ=イリスは、しばらく黙っていた。
黙ること自体が、また何かを明かしているのだろうと分かっていても、すぐには返せない。
楽になればいい。
軽くなればいい。
痛みを言葉にすれば少しほどける。
その理屈は分かる。
分かるから、余計に嫌だった。
ルゥは楽になりたくないのではない。
苦しいままでいたいわけでもない。
ただ、なかったことにされたくなかった。
母を失ったことも。
置いていかれた子どもだったことも。
ミナを置いていけなかったことも。
第二階梯で見た願いの小ささも。
講演会で一瞬だけ頷きかけた自分も。
その全部を「言葉にして軽くする」という手つきで整えられるのが、たまらなく嫌だった。
「……話したところで」
ようやく出た声は低かった。
「戻るわけじゃない」
ノクタヴィウスはすぐには答えなかった。
その沈黙が、否定ではなく待機であると分かるのがまた嫌だ。
「戻るためのものではありません」
やがて落ちた声は、相変わらず静かだった。
「では何のためだ」
「あなたが、その痛みと同じ形のまま壊れ続けないために」
ルゥは少しだけ笑いそうになって、やめた。
笑えるような場所ではない。
それに、その言葉をただ綺麗事だと切り捨てきれない自分が、まだいる。
「壊れてる方が都合がいいくせに」
「そう見えるでしょう」
「違うのか」
ノクタヴィウスはそこで、初めてごく小さく目を伏せた。
「違わない部分もあるのでしょうね」
ルゥは眉を寄せる。
この男は、こういう返し方をする。
全部は否定しない。
だから刃が鈍らない。
その時だった。
審問室の外で、何かの気配が変わった。
大きな物音ではない。
怒鳴り声でもない。
ただ、空気の流れが少しだけ乱れる。
遠くで足音が増え、次にそれが止まり、また別の扉が開閉される。
定例の祈祷か。
夜の巡回の交代か。
あるいは深部処置の移送か。
白い施設では、そういう小さな乱れの方が怖い。
大騒ぎならまだ異常だと分かる。
だが今のは、日常の中に混じる程度の揺れだった。
ノクタヴィウスもその気配を聞いたはずだ。
けれど顔色は変えない。
ただ耳を澄ませるように、ほんの一瞬だけ呼吸を止めた。
ルゥはそのわずかな間を見た。
隙というほどではない。
だが、この部屋の外にも世界が動いているという事実が、急に近くなる。
「なかったことにされたくない」
ルゥは自分でも不意に、その言葉を口にしていた。
ノクタヴィウスがゆっくりこちらを見る。
「何がです」
「全部だよ」
机の下の手を握る。
「楽になるとか、軽くなるとか、そういう言い方で」
声は少し掠れていた。
でも、今は止めなかった。
「削って、整えて、前より生きやすくなったからいい、みたいに片づけられるのが嫌なんだ」
ノクタヴィウスは答えない。
続きを待っている。
「苦しみを削除して、はい解決ですって顔されるのが、一番嫌なんだよ」
そこで初めて、ノクタヴィウスの目がほんの少しだけ揺れたように見えた。
ほんの少しだけ。
でも、ルゥにはそれで十分だった。
「……だから、話したくない」
最後にそう付け足した時、扉の向こうで小さな金属音がした。
封の外れる音に似ていた。
ルゥが顔を上げる。
ノクタヴィウスもまた、その方向へ視線を向ける。
今度の沈黙は、待機ではなく警戒だった。
そして次の瞬間、扉が開いた。
大きくではない。
慎重に、内側の様子を確かめるように。
そこに立っていたのは、ミナだった。
ルゥは一瞬、声を失った。
耳の処置跡。
薄い顔色。
白い施設の灰衣。
前より穏やかな顔。
けれど今、その穏やかさの上に、別の震えが乗っている。
震えていた。
目元も、指先も、呼吸も。
誰かに命じられて来た顔ではない。
自分の意志でここまで来て、だからこそ怖がっている顔だった。
「……ミナ」
呼ぶと、ミナは唇をきゅっと結んだ。
泣きそうなのをこらえる時みたいな、子どもっぽい仕草だった。
「早く」
それだけ言った。
説明はない。
どうやってここへ来たのかも、なぜ今ここへ来られたのかも、何も言わない。
ただ、その一言だけで十分だった。
ルゥは立ち上がりかけ、拘束布の感触を思い出す。
だが腕の拘束は、いつの間にか緩んでいた。
完全に自由ではない。
それでも走れる程度には。
ノクタヴィウスが立つ気配を見せる。
ルゥの背筋が強張る。
だが、彼はすぐには視線を上げなかった。
ほんの一拍。
それだけ遅れる。
その遅れが、今は命取りにならなかった。
ルゥは椅子を蹴るように立ち上がり、扉の方へ踏み出した。
ミナが半歩だけ下がって道を空ける。
その顔は青い。
けれど目だけは、ちゃんとこちらを見ていた。
「お前も来い」
ルゥはすぐに言った。
当然のように。
言わなければならないこととして。
ミナは首を振った。
その動きは小さい。
けれど、はっきりしていた。
「何でだよ」
ルゥの声が低くなる。
焦りで喉が詰まりそうになる。
「今なら」
「今だから」
ミナは短く言った。
それから、少しだけ息を吸って、続ける。
「わたしは、まだここを全部嫌いになれない」
その一言で、ルゥの足が止まった。
分かっていた。
頭のどこかでは、ずっと。
聖光団は、ただ奪うだけの場所じゃない。
寝床を与えた。
食べ物を与えた。
怖がり続けていたミナに、少しだけ穏やかでいられる場所を与えてしまった。
その事実がある。
だから、この物語は単純に切れない。
それでも、聞きたくなかった。
「嫌いになれなくても」
ルゥは絞り出す。
「それでも出ろよ」
ミナは目を伏せた。
白布のない耳元が、少しだけ震える。
「わたし、まだ分からないの」
静かな声だった。
「ここが嫌だって思うところもある。怖いって思うところもある。でも、助けられたって思うところも、まだある」
ルゥは何も言えなかった。
ミナは完全に整えられていない。
だからこそ、こうして来られた。
だからこそ、残る理由まで自分の中に持っている。
それが苦かった。
「早く」
ミナがもう一度言う。
今度は少し強く。
「今なら、まだ」
その時、回廊の向こうで人の気配が増えた。
大騒ぎではない。
けれど、白衣がこちらへ向かっている気配。
祈祷布の擦れる音。
小さな、しかし確実な追撃。
ルゥはミナの手首を掴もうとして、止めた。
強引に引けば連れて行けるかもしれない。
でも、それはミナの中にまだ残っている意志まで否定することになる。
母を選ばせてもらえなかった怒りを抱えてきたくせに、今ここでミナの選ぶ余地を奪うのか。
その一瞬の躊躇が、全部だった。
「……来ないのかよ」
自分でも情けない声だと思った。
ミナは小さく首を振る。
「ごめん」
その謝り方は、完全に昔のミナだった。
穏やかになりすぎた今の彼女の中に、それでもまだ残っている棘と迷いの名残。
ルゥはそこで初めて、自分が救われる側にいるのだと知った。
助けに来たつもりだった。
取り戻す側でいたつもりだった。
でも今、審問室の封を外し、震えながらここまで来て、「早く」と言っているのはミナの方だ。
自分は助けられている。
それなのに、ミナを救いきれない。
足音が近づく。
ルゥは息を呑み、最後に一歩だけ後ろへ下がった。
ミナの目を見る。
彼女は泣いていない。
ただ、今にも泣きそうな顔で、それでも逃げろと言っている。
ノクタヴィウスの気配が背後にある。
振り返らなくても分かる。
それなのに、決定的な視線が来ない。
来れば止まる。
来れば足が遅れる。
来れば終わる。
だがその一撃が、なぜか一拍遅い。
ルゥはそのことを理解するより先に、審問室の外へ飛び出していた。
白い回廊。
薄い薬品の匂い。
魔導灯。
白衣の影。
交差する足音。
追撃はある。
完全に見逃されたわけではない。
でも、どこか決定打が遅れる。
それがミナのせいなのか、ノクタヴィウスのせいなのか、あるいは偶然なのか、今は分からない。
ただ、逃げるしかなかった。
曲がり角をひとつ。
裏回廊。
洗い場脇。
冷たい石床。
水の匂い。
夜気。
外へ出た瞬間、世界の匂いが一気に戻ってきた。
湿った木。
遠い酒。
川の冷たさ。
市場の残り火。
白い施設の薄い空気とは違う、濃くて、雑で、生きている匂い。
ルゥは壁へ手をつき、荒く息を吐いた。
助かった。
それは事実だった。
ミナが助けた。
それも事実だった。
でも、ミナは残った。
一緒には来なかった。
来られなかったのではなく、来ないことを選んだ。
その違いが、胸の奥に鈍く残る。
助けられたのに、救えなかった。
そういう形の脱出があることを、ルゥはその夜、初めて知った。




