第36話 見届ける者
息が整うより先に、ルゥは腹の底から別の怒りを引きずり上げていた。
これ以上剥がされるだけで終わるつもりはなかった。
審問室の灯りは変わらない。
白い壁も、小さな机も、杯の水も、何ひとつ動いていない。
動いたのはルゥ=イリスの呼吸だけだ。
さっきまで胸の奥を凍らせていた寒さの下で、今度は別の熱がゆっくり立ち上がってくる。
置いていかれた子ども。
被害者でいてほしかった母。
そんなみっともない本音を言葉にされて、黙っているだけで終わるのは、どうしても耐えられなかった。
ルゥはゆっくり顔を上げた。
真正面からではない。
それでも今までよりは確かに、ノクタヴィウスの方を見る。
視線が触れるか触れないか、そのぎりぎりのところへ目を置く。
怖い。
身体の奥ではまだ、顔を上げること自体に警戒が残っている。
それでも見た。
見なければ、ずっと剥がされる側のままだと思ったからだ。
ノクタヴィウスは変わらず静かに座っている。
伏し目がちで、机の上の指先にも乱れがない。
それが今は、さっきまでとは別の意味で腹立たしかった。
「……お前は」
ルゥの声はまだ少し掠れていた。
だが、今度は言葉を止めなかった。
「お前は、残してる」
ノクタヴィウスの指先が、ほんのわずかにだけ動く。
それだけだった。
けれど、ルゥには十分だった。
「耳も」
言葉を選ばない。
もう綺麗にする必要はなかった。
「見る力も」
ノクタヴィウスの睫毛が、わずかに震える。
「魔法も」
そこで初めて、ノクタヴィウスは顔を上げた。
真正面ではない。
いつものように角度を抑えたまま。
それでも、今までよりは明確にこちらを見る。
ルゥの背筋に冷たいものが走った。
だがもう引かなかった。
引いたら終わる気がした。
「お前は見て、聞いて、止める力まで持ったまま、そこに立ってる」
声が少し強くなる。
怒鳴りにはならない。
それでも、自分の中で何かが前へ出た感覚はあった。
「何ひとつ失っていない側が、失えと言ってるだけじゃないか」
言い切った瞬間、審問室の静けさが一段深くなった気がした。
ノクタヴィウスは、すぐには返さなかった。
それがルゥには意外だった。
即座に否定されると思っていた。
あるいは、もっと綺麗な理屈で返されると思っていた。
だがノクタヴィウスは、ただ短く沈黙した。
綻び。
ルゥはその一瞬を、そう呼んだ。
ほんの僅かだ。
だが今までこの男に見えなかった“間”が、確かにそこにあった。
「……失っていない、ですか」
やがてノクタヴィウスが口を開く。
声は相変わらず低い。
だが、その低さの底に、さっきまでなかった重みが混じっていた。
「あなたには、そう見えるのでしょうね」
否定ではない。
まっすぐな反論でもない。
ただ、その見え方自体を一度受け止める言い方だった。
ルゥはそこで、逆に踏み込む。
「そう見えるも何もないだろ」
机の縁へ手を置いたまま、前へ身体を寄せる。
「お前は耳を切ってない。見られたら終わるって噂されるくらいの目も、そのままだ。力もそのままだ。なのに下のやつらには、差し出せ、削れ、軽くなれって言う」
ノクタヴィウスは黙って聞いている。
「自分は何も手放してない」
ルゥの喉が熱を持つ。
「そのくせ、失えば楽になるみたいな顔して立ってる」
そこで、ノクタヴィウスはようやく一度だけ目を伏せた。
ごく短く。
だが確かに、視線が落ちた。
ルゥはその小さな動きを見逃さなかった。
この男は無敵ではない。
完全に信じ切っているわけでもない。
少なくとも、今この瞬間だけは。
「誰かが最後まで見届けなければならない」
ノクタヴィウスは静かに言った。
その一言は、言い訳にも聞こえたし、祈りの残骸にも聞こえた。
「削る側にも、削られない側が必要だ」
ルゥは顔をしかめる。
「都合のいい話だな」
「都合がいいのでしょうね」
ノクタヴィウスは否定しない。
「ですが、最後に残る苦痛を観察し、限界を見定め、どこで止めるべきかを判断する者がいなければ、処置はただの破壊になります」
ただの破壊。
その言葉に、ルゥは奥歯を噛んだ。
では今のあれは破壊ではないのか。
ミナも、第二階梯の候補者たちも、倉庫で怯えていた助手も。
その輪郭を削ることが、破壊ではないとでも言うのか。
「見届ける、だって?」
ルゥは吐き捨てるように言う。
「自分だけ岸に立ったままか」
「岸に立っているつもりはありません」
「同じだ」
「違います」
今度の返答は少しだけ速かった。
だが強くはない。
強くないことが、むしろ揺れを隠しきれていない気配になる。
「見ている者もまた、削られます」
ノクタヴィウスは言う。
「形ではなく、別の場所を」
その言い方に、ルゥは一瞬だけ言葉を失った。
それは自己弁護に聞こえる。
使命感にも聞こえる。
そして何より、完全な嘘には聞こえなかった。
「だから何だよ」
少し遅れて吐き出す。
「だから許せって?」
「許しを求めてはいません」
ノクタヴィウスの声は戻っていた。
いや、戻ったように聞こえるだけかもしれない。
でもルゥはさっきの沈黙をもう見てしまっている。
「必要なのは、見届ける者です」
「誰のために」
「壊れすぎないために」
その答えは、ルゥの怒りをさらに煽った。
「壊してる側が何言ってんだ」
息が荒くなる。
視線を向けたままなのが、もうぎりぎりだった。
「お前は見てるだけで済むんだろ。聞こえるものも、見えるものも、そのまま持って。最後に“ここまでなら壊していい”って線を引くだけだ」
ノクタヴィウスは答えない。
「楽だよな」
ルゥは続ける。
「失うのはいつも他のやつだ」
その一言が、部屋の中へ落ちた。
今度の沈黙は、前のものより少し長かった。
ノクタヴィウスは机の上で組んでいた指を、ほんの僅かに解く。
それからまた組み直す。
小さな動きだ。
だが、この男が初めて“整え直した”ように見えた。
「楽ではありません」
ようやく出た声は、前より低かった。
ルゥは思わず鼻で笑いそうになった。
だが、笑えなかった。
「ですが、必要だと思っています」
その言い方に、ルゥは嫌な理解を覚えた。
この男もまた、囚われている。
命令だけで動いているのではない。
恐怖で従っているだけでもない。
“見届ける側であること”に、自分の役割を縫い止めてしまっている。
耳も、目も、力も持ったまま。
持ったまま残ることでしか、この場所に立てなくなっている。
理解できる。
理解できるのがまた、腹立たしい。
理解できる敵が増えるたび、世界は単純じゃなくなる。
単純じゃなくなるたび、怒りの刃は振り下ろしにくくなる。
それでも、許せるわけではない。
「……お前も囚われてるだけだ」
ルゥは低く言った。
ノクタヴィウスは否定しなかった。
「そうでしょう」
そのあまりにあっさりした肯定が、逆にルゥの言葉を鈍らせる。
「ですが、人は囚われていても役割を果たせます」
「誇ることじゃない」
「誇ってはいません」
また、静かな即答。
ノクタヴィウスはそこで初めて、ほんの少しだけ呼吸を落としたように見えた。
疲れているようには見えない。
だが、揺れないまま整っている人間とももう言い切れなかった。
ルゥはそれを見て、ようやく少しだけ理解する。
この男は怪物である前に、人でもある。
そして人であるからこそ、怪物の役目に縫い止められている。
嫌な理解だった。
情けでも共感でもない。
ただ、敵の輪郭が少しだけ増えた感じだった。
「痛みを言葉にしなさい」
ノクタヴィウスが、ふいにそう言った。
静かな声だった。
脅しではない。
本気の提案に聞こえる。
ルゥは眉を寄せる。
「何」
「あなたは、怒りに変えることでしか保てない部分が多すぎる。言葉にすれば、それは少し軽くなる」
軽くなる。
第二階梯でも、第三階梯でも、何度も聞いた語だ。
耳を置いて、少し楽になる。
削って、少し生きやすくなる。
言葉にして、少し軽くなる。
どれも同じ顔をしている気がした。
「楽になることが、そんなに怖いですか」
ノクタヴィウスは問う。
ルゥはそこで、すぐには答えられなかった。
怖い。
怖いに決まっている。
楽になる、という言葉に乗ること。
軽くなる、という誘いに頷くこと。
苦しみを少しでも手放したいと思うこと。
その一歩だけは、どうしても認めたくなかった。
そこへ足を乗せた瞬間、母のいた場所へ、自分も行ってしまう気がしたからだ。
痛みを減らす代わりに、何か大事な棘を失う場所。
穏やかになる代わりに、遠くなってしまう場所。
ミナが前ほど怖くないと言った時の、あの冷たさのある穏やかさ。
あそこへ。
「……いらない」
ルゥはやっと言った。
声は小さかったが、今度は震えなかった。
「何がです」
「楽になるとか、そういうの」
ノクタヴィウスはしばらく黙っていた。
その黙り方には失望も嘲りもない。
ただ、本当にそう思っているのかを測るような静けさだけがある。
ルゥは視線を逸らさなかった。
怖いままだった。
それでも、さっきよりは少しだけ耐えられる。
楽になる、という言葉にだけは、どうしても乗れなかった。
それに乗った瞬間、母のいた場所へ、自分も行ってしまう気がしたからだ。




