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君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第9章 告解

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第36話 見届ける者

 息が整うより先に、ルゥは腹の底から別の怒りを引きずり上げていた。


 これ以上剥がされるだけで終わるつもりはなかった。


 審問室の灯りは変わらない。

 白い壁も、小さな机も、杯の水も、何ひとつ動いていない。

 動いたのはルゥ=イリスの呼吸だけだ。

 さっきまで胸の奥を凍らせていた寒さの下で、今度は別の熱がゆっくり立ち上がってくる。


 置いていかれた子ども。

 被害者でいてほしかった母。

 そんなみっともない本音を言葉にされて、黙っているだけで終わるのは、どうしても耐えられなかった。


 ルゥはゆっくり顔を上げた。


 真正面からではない。

 それでも今までよりは確かに、ノクタヴィウスの方を見る。


 視線が触れるか触れないか、そのぎりぎりのところへ目を置く。

 怖い。

 身体の奥ではまだ、顔を上げること自体に警戒が残っている。

 それでも見た。

 見なければ、ずっと剥がされる側のままだと思ったからだ。


 ノクタヴィウスは変わらず静かに座っている。

 伏し目がちで、机の上の指先にも乱れがない。

 それが今は、さっきまでとは別の意味で腹立たしかった。


「……お前は」


 ルゥの声はまだ少し掠れていた。

 だが、今度は言葉を止めなかった。


「お前は、残してる」


 ノクタヴィウスの指先が、ほんのわずかにだけ動く。


 それだけだった。

 けれど、ルゥには十分だった。


「耳も」


 言葉を選ばない。

 もう綺麗にする必要はなかった。


「見る力も」


 ノクタヴィウスの睫毛が、わずかに震える。


「魔法も」


 そこで初めて、ノクタヴィウスは顔を上げた。


 真正面ではない。

 いつものように角度を抑えたまま。

 それでも、今までよりは明確にこちらを見る。


 ルゥの背筋に冷たいものが走った。

 だがもう引かなかった。

 引いたら終わる気がした。


「お前は見て、聞いて、止める力まで持ったまま、そこに立ってる」


 声が少し強くなる。

 怒鳴りにはならない。

 それでも、自分の中で何かが前へ出た感覚はあった。


「何ひとつ失っていない側が、失えと言ってるだけじゃないか」


 言い切った瞬間、審問室の静けさが一段深くなった気がした。


 ノクタヴィウスは、すぐには返さなかった。


 それがルゥには意外だった。


 即座に否定されると思っていた。

 あるいは、もっと綺麗な理屈で返されると思っていた。

 だがノクタヴィウスは、ただ短く沈黙した。


 綻び。


 ルゥはその一瞬を、そう呼んだ。


 ほんの僅かだ。

 だが今までこの男に見えなかった“間”が、確かにそこにあった。


「……失っていない、ですか」


 やがてノクタヴィウスが口を開く。

 声は相変わらず低い。

 だが、その低さの底に、さっきまでなかった重みが混じっていた。


「あなたには、そう見えるのでしょうね」


 否定ではない。

 まっすぐな反論でもない。

 ただ、その見え方自体を一度受け止める言い方だった。


 ルゥはそこで、逆に踏み込む。


「そう見えるも何もないだろ」


 机の縁へ手を置いたまま、前へ身体を寄せる。


「お前は耳を切ってない。見られたら終わるって噂されるくらいの目も、そのままだ。力もそのままだ。なのに下のやつらには、差し出せ、削れ、軽くなれって言う」


 ノクタヴィウスは黙って聞いている。


「自分は何も手放してない」


 ルゥの喉が熱を持つ。


「そのくせ、失えば楽になるみたいな顔して立ってる」


 そこで、ノクタヴィウスはようやく一度だけ目を伏せた。


 ごく短く。

 だが確かに、視線が落ちた。


 ルゥはその小さな動きを見逃さなかった。


 この男は無敵ではない。

 完全に信じ切っているわけでもない。

 少なくとも、今この瞬間だけは。


「誰かが最後まで見届けなければならない」


 ノクタヴィウスは静かに言った。


 その一言は、言い訳にも聞こえたし、祈りの残骸にも聞こえた。


「削る側にも、削られない側が必要だ」


 ルゥは顔をしかめる。


「都合のいい話だな」


「都合がいいのでしょうね」


 ノクタヴィウスは否定しない。


「ですが、最後に残る苦痛を観察し、限界を見定め、どこで止めるべきかを判断する者がいなければ、処置はただの破壊になります」


 ただの破壊。


 その言葉に、ルゥは奥歯を噛んだ。

 では今のあれは破壊ではないのか。

 ミナも、第二階梯の候補者たちも、倉庫で怯えていた助手も。

 その輪郭を削ることが、破壊ではないとでも言うのか。


「見届ける、だって?」


 ルゥは吐き捨てるように言う。


「自分だけ岸に立ったままか」


「岸に立っているつもりはありません」


「同じだ」


「違います」


 今度の返答は少しだけ速かった。

 だが強くはない。

 強くないことが、むしろ揺れを隠しきれていない気配になる。


「見ている者もまた、削られます」


 ノクタヴィウスは言う。


「形ではなく、別の場所を」


 その言い方に、ルゥは一瞬だけ言葉を失った。


 それは自己弁護に聞こえる。

 使命感にも聞こえる。

 そして何より、完全な嘘には聞こえなかった。


「だから何だよ」


 少し遅れて吐き出す。


「だから許せって?」


「許しを求めてはいません」


 ノクタヴィウスの声は戻っていた。

 いや、戻ったように聞こえるだけかもしれない。

 でもルゥはさっきの沈黙をもう見てしまっている。


「必要なのは、見届ける者です」


「誰のために」


「壊れすぎないために」


 その答えは、ルゥの怒りをさらに煽った。


「壊してる側が何言ってんだ」


 息が荒くなる。

 視線を向けたままなのが、もうぎりぎりだった。


「お前は見てるだけで済むんだろ。聞こえるものも、見えるものも、そのまま持って。最後に“ここまでなら壊していい”って線を引くだけだ」


 ノクタヴィウスは答えない。


「楽だよな」


 ルゥは続ける。


「失うのはいつも他のやつだ」


 その一言が、部屋の中へ落ちた。


 今度の沈黙は、前のものより少し長かった。


 ノクタヴィウスは机の上で組んでいた指を、ほんの僅かに解く。

 それからまた組み直す。

 小さな動きだ。

 だが、この男が初めて“整え直した”ように見えた。


「楽ではありません」


 ようやく出た声は、前より低かった。


 ルゥは思わず鼻で笑いそうになった。

 だが、笑えなかった。


「ですが、必要だと思っています」


 その言い方に、ルゥは嫌な理解を覚えた。


 この男もまた、囚われている。


 命令だけで動いているのではない。

 恐怖で従っているだけでもない。

 “見届ける側であること”に、自分の役割を縫い止めてしまっている。


 耳も、目も、力も持ったまま。

 持ったまま残ることでしか、この場所に立てなくなっている。


 理解できる。

 理解できるのがまた、腹立たしい。


 理解できる敵が増えるたび、世界は単純じゃなくなる。

 単純じゃなくなるたび、怒りの刃は振り下ろしにくくなる。


 それでも、許せるわけではない。


「……お前も囚われてるだけだ」


 ルゥは低く言った。


 ノクタヴィウスは否定しなかった。


「そうでしょう」


 そのあまりにあっさりした肯定が、逆にルゥの言葉を鈍らせる。


「ですが、人は囚われていても役割を果たせます」


「誇ることじゃない」


「誇ってはいません」


 また、静かな即答。


 ノクタヴィウスはそこで初めて、ほんの少しだけ呼吸を落としたように見えた。

 疲れているようには見えない。

 だが、揺れないまま整っている人間とももう言い切れなかった。


 ルゥはそれを見て、ようやく少しだけ理解する。


 この男は怪物である前に、人でもある。

 そして人であるからこそ、怪物の役目に縫い止められている。


 嫌な理解だった。

 情けでも共感でもない。

 ただ、敵の輪郭が少しだけ増えた感じだった。


「痛みを言葉にしなさい」


 ノクタヴィウスが、ふいにそう言った。


 静かな声だった。

 脅しではない。

 本気の提案に聞こえる。


 ルゥは眉を寄せる。


「何」


「あなたは、怒りに変えることでしか保てない部分が多すぎる。言葉にすれば、それは少し軽くなる」


 軽くなる。


 第二階梯でも、第三階梯でも、何度も聞いた語だ。

 耳を置いて、少し楽になる。

 削って、少し生きやすくなる。

 言葉にして、少し軽くなる。


 どれも同じ顔をしている気がした。


「楽になることが、そんなに怖いですか」


 ノクタヴィウスは問う。


 ルゥはそこで、すぐには答えられなかった。


 怖い。

 怖いに決まっている。


 楽になる、という言葉に乗ること。

 軽くなる、という誘いに頷くこと。

 苦しみを少しでも手放したいと思うこと。


 その一歩だけは、どうしても認めたくなかった。


 そこへ足を乗せた瞬間、母のいた場所へ、自分も行ってしまう気がしたからだ。


 痛みを減らす代わりに、何か大事な棘を失う場所。

 穏やかになる代わりに、遠くなってしまう場所。

 ミナが前ほど怖くないと言った時の、あの冷たさのある穏やかさ。


 あそこへ。


「……いらない」


 ルゥはやっと言った。


 声は小さかったが、今度は震えなかった。


「何がです」


「楽になるとか、そういうの」


 ノクタヴィウスはしばらく黙っていた。

 その黙り方には失望も嘲りもない。

 ただ、本当にそう思っているのかを測るような静けさだけがある。


 ルゥは視線を逸らさなかった。

 怖いままだった。

 それでも、さっきよりは少しだけ耐えられる。


 楽になる、という言葉にだけは、どうしても乗れなかった。

 それに乗った瞬間、母のいた場所へ、自分も行ってしまう気がしたからだ。


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