第35話 置いていかれた子ども
心の根っこにある母を見抜かれた途端、ルゥは怒りより先に、ひどく古い寒さを思い出した。
小さかったころ、置いていかれる夢を見たあとの朝みたいな寒さだった。
審問室の灯りは変わらない。
白い壁も、机も、祈りの意匠も、さっきと同じ静けさを保っている。
変わったのは、ルゥ=イリスの内側だけだった。
母。
そのたった二文字で、今ここが深部の審問室ではなく、もっと古い、もっと狭い場所へ繋がってしまう。
白い廊下の向こうへ消えていく背中。
戻ってきたはずなのに、前と同じところには立っていない声。
救われたと言われながら、自分だけが救いの外に置かれたような感覚。
ルゥは机の縁を強く握った。
「聖光団が奪った」
声が先に出た。
考えるより早く、吐き出すみたいに。
「母は壊された。それ以上でも以下でもない」
言い切る。
言い切ってしまえば、その図式の中へ戻れる気がした。
奪った側と、奪われた側。
壊した側と、壊された側。
そう分けてしまえば、自分の怒りはまだ真っ直ぐでいられる。
みっともない揺れを見ずに済む。
ノクタヴィウスはそれを遮らなかった。
頷きもしない。
否定もしない。
ただ、その言葉の形が落ち着くまで待っている。
その待ち方が、ルゥにはたまらなく嫌だった。
「それが、あなたの見たい形なのですね」
静かな声だった。
ルゥは反射で顔を上げた。
視線は真正面までは向けない。
それでも、言葉の置かれ方だけで十分に腹が立った。
「見たい形じゃない」
「では、信じていたい形ですか」
「同じだ」
「違います」
ノクタヴィウスは低く言う。
「見たい形は欲望です。信じていたい形は、もっと切実な防御です」
防御。
その一語が、ルゥの胸のどこかへ冷たく入った。
「あなたは図式を守っている」
ノクタヴィウスは言う。
「聖光団が奪った。母は壊された。自分は奪われた。そうであってほしいのでしょう」
「そうだ」
今度は即答した。
即答することで、揺れを押し潰せる気がした。
「そうであってほしい」
ルゥはもう一度言う。
少し強く。
少し乱暴に。
「それが事実だからだ」
ノクタヴィウスはしばらく黙った。
その沈黙は、反論を探している沈黙ではない。
相手が自分で言い切った言葉の重みを、机の上へ置かせるための沈黙だった。
「本当に憎んでいるのは聖光団ですか」
やがて落ちた問いは、あまりにも静かだった。
ルゥの肩がわずかに強張る。
「それとも、自分を置いて救いを選んだ母ですか」
その一言で、世界の温度が変わった気がした。
叫ばれたわけではない。
責め立てられたわけでもない。
ただ、逃げ場のない言葉が、正しい位置へ置かれただけだ。
「違う」
ルゥは即座に否定した。
だが声は、自分で思ったより薄かった。
「違う」
もう一度言う。
今度は強く。
強く言わなければ、そのまま崩れる気がした。
「母は選んでない。選ばされたんだ」
椅子がわずかに軋む。
握った指へ血が戻らない。
「そうかもしれません」
ノクタヴィウスは否定しない。
「ですが、あなたは今、選んだという言葉にだけ強く反応した」
ルゥは息を呑んだ。
またそれだ。
内容ではなく、反応を見ている。
否定の中に混じる揺れを拾っていく。
「やめろ」
「何をです」
「分かったように」
「分かっているとは言っていません」
淡々とした返答。
冷たいわけではない。
だから余計に、逃げにくい。
「ただ、あなたの怒りの奥にあるものが、聖光団そのものと同じ形をしていないことは見えます」
ルゥは立ち上がりかけて、身体が半歩遅れた。
ノクタヴィウスの視線が上がったわけではない。
それなのに、膝の裏へ一瞬だけ冷たい重さが落ちる。
ほんの僅かな硬直。
能力なのか、恐怖なのか、自分でも分からない。
分からないことが、さらに腹立たしかった。
「あなたは私たちを憎んでいる」
ノクタヴィウスは続ける。
「それは本当でしょう。人の輪郭へ手を入れることも、苦痛を救済と呼ぶことも、許せない。ですが」
そこで一度、言葉が切れる。
「それだけなら、母上の名を出された時に、あそこまで震えない」
震えた。
その事実が、自分の身体の方で先に答えてしまっている。
「違う」
ルゥはまた言う。
だが今度は、自分でもその声の揺れを隠せなかった。
「違わない部分があるのでしょう」
低い声。
責める響きはない。
だからこそ、余計に深く刺さる。
ルゥは歯を食いしばった。
違わない部分。
そんなものがあると認めてしまえば、教団への怒りが濁る気がした。
自分が正しい側から滑り落ちる気がした。
だから否定しなければならないのに、否定の言葉ほど空回りする。
「本当に嫌だったのは」
ノクタヴィウスの声が、少しだけ近く聞こえた。
「お母様が傷ついたことですか」
ルゥは黙る。
「それとも、自分を置いていったことですか」
その問いに、ルゥの喉が詰まった。
白い廊下。
小さかった自分。
待っている時間。
戻ってきた母が、前より穏やかで、前より遠かったこと。
あの時に感じた寒さだけが、急に今の審問室へ流れ込んでくる。
「違う」
また言う。
もう何度目か分からない。
「違う、違う、違う」
重ねるごとに、否定の方が薄くなっていく。
言葉ではなく、祈りに近くなる。
ノクタヴィウスはそこを追い詰めない。
ただ、静かに置く。
「被害者でいてほしかったのですね」
ルゥは顔を上げた。
「お母様に、です」
声は平坦だった。
裁きでも同情でもない。
事実をそっと机の上へ置くみたいな言い方だった。
「聖光団に壊された被害者でいてくれれば、あなたは置いていかれた子どもでいるしかなかった自分を、まだ許せる」
その瞬間、ルゥの中で何かがずれた。
母が被害者でなければ困る。
それは母のためではない。
母が自分で何かを選んでいたのだとしたら。
少しでも自分を置いて、別の救いの方を向いたのだとしたら。
それはつまり、自分が選ばれなかったということになる。
置いていかれたことが、ただの事故ではなく、選択になる。
それに耐えられない。
ルゥの呼吸が浅くなる。
胸の奥に、怒りとも羞恥ともつかない熱が広がる。
母が被害者でなければ困るのは、母のためじゃなかった。
ルゥ自身が、置いていかれた子どものままで壊れずにいるためだった。
その理解が、遅れて身体へ落ちてきた。
「……黙れ」
声は低かった。
怒鳴り声にはならない。
喉がうまく開かない。
「黙れ」
もう一度言う。
今度は少し強く。
だがその分だけ、震えもはっきりする。
「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ」
ノクタヴィウスは責めない。
「当然の感情です」
むしろ、その言葉は静かに受け止める形で返ってきた。
「子どもが、自分より先に救いを選ばれたと感じれば、怒るのは当然でしょう」
当然。
その言葉が、ルゥにはひどく耐えがたかった。
断罪される方がましだ。
醜いと切り捨てられる方が、まだ耐えやすい。
理解される方が、ずっと残酷だ。
「お前に」
ルゥはやっと声を絞り出す。
「お前に、それを当然なんて言われたくない」
「なぜです」
「お前たちは、それを利用するからだろ」
ノクタヴィウスは否定しない。
「そう見えるでしょうね」
その答え方がまた、ルゥを追い詰める。
「ですが、利用されうる感情であることと、本物であることは両立します」
ルゥは息を乱した。
図式が崩れていく。
教団は悪だ。
母は被害者だ。
自分は奪われた。
そのまっすぐな線の奥に、もっとみじめで、もっと幼い本当がある。
置いていかれたくなかった。
自分を選んでほしかった。
被害者でいてほしかった。
そうでなければ、自分が捨てられたことになるから。
その本音は、あまりにも汚くて、あまりにも幼かった。
ルゥは顔を伏せた。
泣きそうだった。
それがまた腹立たしかった。
怒っている。
今も聖光団を憎んでいる。
それは嘘じゃない。
けれど、その本当の奥に、もっとみじめな本当がある。
それを知ってしまった瞬間、自分の怒りそのものが少しだけ怖くなった。
ノクタヴィウスはその沈黙の向こうで、ただ待っていた。
勝ち誇らない。
断罪しない。
まるで告解を引き出すために座っているみたいに。
それが、どんな暴力よりも冷たかった。




