表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第9章 告解

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

36/51

第35話 置いていかれた子ども

 心の根っこにある母を見抜かれた途端、ルゥは怒りより先に、ひどく古い寒さを思い出した。


 小さかったころ、置いていかれる夢を見たあとの朝みたいな寒さだった。


 審問室の灯りは変わらない。

 白い壁も、机も、祈りの意匠も、さっきと同じ静けさを保っている。

 変わったのは、ルゥ=イリスの内側だけだった。


 母。


 そのたった二文字で、今ここが深部の審問室ではなく、もっと古い、もっと狭い場所へ繋がってしまう。

 白い廊下の向こうへ消えていく背中。

 戻ってきたはずなのに、前と同じところには立っていない声。

 救われたと言われながら、自分だけが救いの外に置かれたような感覚。


 ルゥは机の縁を強く握った。


「聖光団が奪った」


 声が先に出た。

 考えるより早く、吐き出すみたいに。


「母は壊された。それ以上でも以下でもない」


 言い切る。

 言い切ってしまえば、その図式の中へ戻れる気がした。


 奪った側と、奪われた側。

 壊した側と、壊された側。

 そう分けてしまえば、自分の怒りはまだ真っ直ぐでいられる。

 みっともない揺れを見ずに済む。


 ノクタヴィウスはそれを遮らなかった。

 頷きもしない。

 否定もしない。

 ただ、その言葉の形が落ち着くまで待っている。


 その待ち方が、ルゥにはたまらなく嫌だった。


「それが、あなたの見たい形なのですね」


 静かな声だった。


 ルゥは反射で顔を上げた。

 視線は真正面までは向けない。

 それでも、言葉の置かれ方だけで十分に腹が立った。


「見たい形じゃない」


「では、信じていたい形ですか」


「同じだ」


「違います」


 ノクタヴィウスは低く言う。


「見たい形は欲望です。信じていたい形は、もっと切実な防御です」


 防御。


 その一語が、ルゥの胸のどこかへ冷たく入った。


「あなたは図式を守っている」


 ノクタヴィウスは言う。


「聖光団が奪った。母は壊された。自分は奪われた。そうであってほしいのでしょう」


「そうだ」


 今度は即答した。

 即答することで、揺れを押し潰せる気がした。


「そうであってほしい」


 ルゥはもう一度言う。

 少し強く。

 少し乱暴に。


「それが事実だからだ」


 ノクタヴィウスはしばらく黙った。


 その沈黙は、反論を探している沈黙ではない。

 相手が自分で言い切った言葉の重みを、机の上へ置かせるための沈黙だった。


「本当に憎んでいるのは聖光団ですか」


 やがて落ちた問いは、あまりにも静かだった。


 ルゥの肩がわずかに強張る。


「それとも、自分を置いて救いを選んだ母ですか」


 その一言で、世界の温度が変わった気がした。


 叫ばれたわけではない。

 責め立てられたわけでもない。

 ただ、逃げ場のない言葉が、正しい位置へ置かれただけだ。


「違う」


 ルゥは即座に否定した。

 だが声は、自分で思ったより薄かった。


「違う」


 もう一度言う。

 今度は強く。

 強く言わなければ、そのまま崩れる気がした。


「母は選んでない。選ばされたんだ」


 椅子がわずかに軋む。

 握った指へ血が戻らない。


「そうかもしれません」


 ノクタヴィウスは否定しない。


「ですが、あなたは今、選んだという言葉にだけ強く反応した」


 ルゥは息を呑んだ。


 またそれだ。

 内容ではなく、反応を見ている。

 否定の中に混じる揺れを拾っていく。


「やめろ」


「何をです」


「分かったように」


「分かっているとは言っていません」


 淡々とした返答。

 冷たいわけではない。

 だから余計に、逃げにくい。


「ただ、あなたの怒りの奥にあるものが、聖光団そのものと同じ形をしていないことは見えます」


 ルゥは立ち上がりかけて、身体が半歩遅れた。

 ノクタヴィウスの視線が上がったわけではない。

 それなのに、膝の裏へ一瞬だけ冷たい重さが落ちる。

 ほんの僅かな硬直。

 能力なのか、恐怖なのか、自分でも分からない。

 分からないことが、さらに腹立たしかった。


「あなたは私たちを憎んでいる」


 ノクタヴィウスは続ける。


「それは本当でしょう。人の輪郭へ手を入れることも、苦痛を救済と呼ぶことも、許せない。ですが」


 そこで一度、言葉が切れる。


「それだけなら、母上の名を出された時に、あそこまで震えない」


 震えた。

 その事実が、自分の身体の方で先に答えてしまっている。


「違う」


 ルゥはまた言う。

 だが今度は、自分でもその声の揺れを隠せなかった。


「違わない部分があるのでしょう」


 低い声。

 責める響きはない。

 だからこそ、余計に深く刺さる。


 ルゥは歯を食いしばった。


 違わない部分。

 そんなものがあると認めてしまえば、教団への怒りが濁る気がした。

 自分が正しい側から滑り落ちる気がした。

 だから否定しなければならないのに、否定の言葉ほど空回りする。


「本当に嫌だったのは」


 ノクタヴィウスの声が、少しだけ近く聞こえた。


「お母様が傷ついたことですか」


 ルゥは黙る。


「それとも、自分を置いていったことですか」


 その問いに、ルゥの喉が詰まった。


 白い廊下。

 小さかった自分。

 待っている時間。

 戻ってきた母が、前より穏やかで、前より遠かったこと。

 あの時に感じた寒さだけが、急に今の審問室へ流れ込んでくる。


「違う」


 また言う。

 もう何度目か分からない。


「違う、違う、違う」


 重ねるごとに、否定の方が薄くなっていく。

 言葉ではなく、祈りに近くなる。


 ノクタヴィウスはそこを追い詰めない。

 ただ、静かに置く。


「被害者でいてほしかったのですね」


 ルゥは顔を上げた。


「お母様に、です」


 声は平坦だった。

 裁きでも同情でもない。

 事実をそっと机の上へ置くみたいな言い方だった。


「聖光団に壊された被害者でいてくれれば、あなたは置いていかれた子どもでいるしかなかった自分を、まだ許せる」


 その瞬間、ルゥの中で何かがずれた。


 母が被害者でなければ困る。

 それは母のためではない。

 母が自分で何かを選んでいたのだとしたら。

 少しでも自分を置いて、別の救いの方を向いたのだとしたら。

 それはつまり、自分が選ばれなかったということになる。


 置いていかれたことが、ただの事故ではなく、選択になる。


 それに耐えられない。


 ルゥの呼吸が浅くなる。

 胸の奥に、怒りとも羞恥ともつかない熱が広がる。


 母が被害者でなければ困るのは、母のためじゃなかった。

 ルゥ自身が、置いていかれた子どものままで壊れずにいるためだった。


 その理解が、遅れて身体へ落ちてきた。


「……黙れ」


 声は低かった。

 怒鳴り声にはならない。

 喉がうまく開かない。


「黙れ」


 もう一度言う。

 今度は少し強く。

 だがその分だけ、震えもはっきりする。


「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ」


 ノクタヴィウスは責めない。


「当然の感情です」


 むしろ、その言葉は静かに受け止める形で返ってきた。


「子どもが、自分より先に救いを選ばれたと感じれば、怒るのは当然でしょう」


 当然。

 その言葉が、ルゥにはひどく耐えがたかった。


 断罪される方がましだ。

 醜いと切り捨てられる方が、まだ耐えやすい。

 理解される方が、ずっと残酷だ。


「お前に」


 ルゥはやっと声を絞り出す。


「お前に、それを当然なんて言われたくない」


「なぜです」


「お前たちは、それを利用するからだろ」


 ノクタヴィウスは否定しない。


「そう見えるでしょうね」


 その答え方がまた、ルゥを追い詰める。


「ですが、利用されうる感情であることと、本物であることは両立します」


 ルゥは息を乱した。

 図式が崩れていく。


 教団は悪だ。

 母は被害者だ。

 自分は奪われた。

 そのまっすぐな線の奥に、もっとみじめで、もっと幼い本当がある。


 置いていかれたくなかった。

 自分を選んでほしかった。

 被害者でいてほしかった。

 そうでなければ、自分が捨てられたことになるから。


 その本音は、あまりにも汚くて、あまりにも幼かった。


 ルゥは顔を伏せた。

 泣きそうだった。

 それがまた腹立たしかった。


 怒っている。

 今も聖光団を憎んでいる。

 それは嘘じゃない。

 けれど、その本当の奥に、もっとみじめな本当がある。


 それを知ってしまった瞬間、自分の怒りそのものが少しだけ怖くなった。


 ノクタヴィウスはその沈黙の向こうで、ただ待っていた。

 勝ち誇らない。

 断罪しない。

 まるで告解を引き出すために座っているみたいに。


 それが、どんな暴力よりも冷たかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ