第34話 審問室
深部へ連れていかれるあいだ、ルゥは自分の足音より、隣を歩く白衣の擦れる音の方を強く覚えていた。
拘束されているのに、不思議なくらい静かだった。
腕に巻かれた布と術式は、痛みとしては大したものではない。食い込むほど強くもなく、歩けないほど重くもない。ただ逃げるための動きを、必要なぶんだけ遅らせる。それだけの拘束だった。
それが、余計に怖い。
乱暴に引かれもしない。
怒鳴られもしない。
背を押されることさえ、ほとんどない。
ただ、前に二人、後ろに二人。少し離れて祈祷師らしい灰衣がひとり。
それだけで逃げ場が完璧に塞がっている。
角を曲がるたびに白い壁が続き、どの扉も同じ顔をしていて、どこへ駆けても同じ静けさへ行き着くのだと分かる。
この教団は、暴力で恐ろしくない。
だから怖い。
ルゥ=イリスは視線を落としたまま歩いた。
呼吸を乱すな、と自分へ言い聞かせる。
乱れた呼吸ひとつで何かを読まれる気がした。
実際に誰が見ているのかは分からない。けれど、見られていると感じることそのものが、もう支配に近い。
縄や術式そのものより嫌だったのは、いつノクタヴィウスが顔を上げるか分からないことだった。
今この列の中にいるのかどうかさえ、はっきりしない。
いてもおかしくない。
いなくても、もう遅い。
その“どちらでも成立する”感じが、背中の奥を冷やし続けた。
やがて、列は小さな扉の前で止まる。
中へ通されて、ルゥは一瞬だけ息を呑んだ。
脅しになるものが何もなかったからだ。
椅子が二脚。
小さな机。
灯り。
白い壁。
壁面には、ごく控えめな祈りの意匠。
水差しと杯。
紙と筆記具。
鎖も、鞭も、刃物も、血を連想させるものもない。
拷問室ではなかった。
けれど、ただの診察室でもない。
告解室のようでもあり、診察室のようでもある。
そのどちらでもあることが、むしろ異様だった。
脅しになるものが何もない場所は、脅しを必要としない場所なのだと、ルゥはそこで初めて知った。
「座ってください」
低い声がした。
ノクタヴィウスは、もうそこにいた。
伏し目がちに、机の向こうへ座っている。
白衣の袖口にも乱れがない。
捕まえた相手を迎える人間の顔ではない。
責め立てる気配も、勝ち誇る気配もない。
まるで最初から、この対話のためだけに待っていたみたいだった。
ルゥは椅子へ腰を下ろした。
後ろで扉が閉まる。
音は小さい。
けれど、その小さな音が、逃げ道をひとつの形にした。
しばらく沈黙が続いた。
ノクタヴィウスはすぐには話し始めない。
書類を見るでもなく、ルゥを睨みつけるでもなく、ただ相手の呼吸が落ち着くのを待っているように見える。
急かしてくれた方がまだましだ、とルゥは思った。
怒鳴ってくれた方が、怒り返す場所がある。
だが、この男は最初からルゥの言葉ではなく、その手前にある揺れを見るつもりでいる。
「なぜ、そこまで憎むのです」
落ちた声は、思っていたより平坦だった。
教団の正しさを説く声ではない。
断罪でもない。
ただ、井戸へ石を落とすみたいに静かに沈んでいく問いだった。
ルゥは答えなかった。
「あなたは、ここへ来た時から、すべてを憎んでいたわけではないのでしょう」
ノクタヴィウスは淡々と問いを重ねる。
「嫌悪だけでここまで来た方の反応ではありません。あなたは何度か、立ち止まっている」
ルゥは唇の内側を噛んだ。
立ち止まった。
第二階梯で。
講演会で。
ミナの穏やかすぎる声の前で。
エクラリアの優しさの前で。
それをこの男は、見ていたわけではない。
なのに、見られていた気がする。
「何を失ったのです」
答えない。
答えないと決める。
ここで口を開けば、何かが零れる気がした。
「何を守ろうとしているのです」
守る。
その言葉にだけ、心臓が小さく跳ねた。
ノクタヴィウスは少しだけ目を上げる。
真正面には見ない。
それでも、こちらの反応の輪郭だけを拾い上げるような視線だった。
「人は、何も守っていない時には、ここまで無理をしません」
静かな声。
「構造を壊したい、というのはよくある怒りです。正しさへ反発するのも、珍しくはない。ですが、それだけなら、もっと早く諦められる」
ルゥは机の下で、片手を強く握った。
「あなたは諦めていない」
ノクタヴィウスは言う。
「途中で何度も足を止めても、なお戻ってきている。何かひとつ、どうしても置けないものがあるからです」
「……分かったように言うな」
やっとそれだけ返した。
声は思ったより低く、乾いていた。
ノクタヴィウスは気分を害した様子もない。
「分かっているとは言っていません」
「同じだ」
「違います」
即答だった。
強くはない。
だからこそ、反論の隙が少ない。
「私は今、あなたの怒りの形を見ているだけです」
怒りの形。
まるで所見だ。
診察の一項目みたいに、人の憎しみを形で測る。
「あなたは教義に反発している。処置にも反発している。けれど、本当に耐えがたいのは、別のところにあるのでしょう」
ルゥは何も言わなかった。
「捨てられた、と思ったことがありますか」
その問いに、ルゥの呼吸が一拍だけ乱れた。
ノクタヴィウスはそこを逃さない。
だが追い立ても、決めつけもしない。
「守られなかった、でもいい。置いていかれた、でもいい」
置いていかれた。
その言葉に、白い廊下の奥へ消えていった背中がよみがえる。
入っていった時の母。
戻ってきたあとの母。
どちらも母なのに、同じところへはもう立っていない感じ。
ルゥは視線を逸らした。
逸らしたことが答えになっていると分かっていても、逸らさずにはいられなかった。
「家族のことになると、あなたは沈黙の質が変わりますね」
ノクタヴィウスの声は、少しだけ柔らかかった。
柔らかいことが、容赦のなさを薄めるわけではない。
「あなたは怒っている。ですが、怒りの根にあるのは、もっと幼い痛みです」
ルゥの肩が強張る。
「言うな」
「なぜです」
「言うな」
「そこに触れられると、怒りの格好が保てなくなるからですか」
机の下の手がさらに強く握られる。
爪が掌へ食い込む。
痛みで何かを保てると思うほど、もう子どもではない。
それでも、何もないよりはましだった。
「あなたは、何かを壊したいのではなく、壊されたままのものに形を与えたいのかもしれない」
ルゥはそこで初めて、机を蹴りそうになるのを堪えた。
違う。
違わない。
その両方が胸の中でぶつかって、言葉にならない。
「黙っている方が、あなたには楽ですか」
ノクタヴィウスが問う。
「言葉にしてしまうと、怒りの方が形を失うから」
ルゥは睨み返そうとして、途中でやめた。
視線が合えば、今度こそ身体の方から何かを奪われる気がした。
「……お前に、何が分かる」
ようやく絞り出したのは、それだった。
ノクタヴィウスは少しだけ間を置いた。
「分かろうとしているだけです」
その返答が、ひどく嫌だった。
理解者の顔をされたいわけではない。
それなのに、否定しきれない精度でこちらの傷へ触れてくる。
「ここへ来る方の中には、自分が何を失ったのか言葉にできない方が多い」
ノクタヴィウスは淡々と続ける。
「ですから、私は形から見ます。呼吸、沈黙、視線、ためらい」
「私は、これを告解と、そう呼んでいます」
ルゥはそれを聞きながら、ぞっとした。
能力だけではない。
この男は、本当に“見る”ことに慣れている。
「人は守りたいものの近くで、必ず反応が変わる」
「あなたは、自分の怒りを正しい場所へ結びつけたいのでしょう」
「違う」
今度は少しだけ強く返せた。
だが、声の震えまでは消えない。
「本当にそうでしょうか。あなたは、構造を憎んでいるようでいて、いつも最後にはひとりへ戻っているようにも見えます」
ミナ。
母。
候補者たち。
その全部が、ルゥの胸の内側で熱を持つ。
「なるほど、わかりました。あなたは、私たちにご親族を奪われたのですね」
断定しきらない形だった。
問いに近い。
けれど、ほとんど言い当てていた。
ルゥの肩が揺れた。
自分でも止められないほど、はっきりと。
「違う」
とっさに言う。
けれど、その言葉には勢いがなかった。
違う、の意味が自分でも曖昧だったからだ。
教団だけに奪われたわけではない。
世界に。
母自身の選択に。
いろんなものに。
その全部に奪われた。
だから、ひとつの言葉では否定しきれない。
ノクタヴィウスはそこで初めて、少しだけ顔を上げた。
真正面から見たわけではない。
わずかに角度が変わっただけだ。
それでもルゥは、背筋の奥へ冷たいものが差し込むのを感じた。
「なるほど、お母様ですか」
低い声だった。
ルゥは答えない。
「あなたは、誰かを助けたかったというより、その喪失に形を与えたかった」
ルゥは息を詰めた。
そんなふうに言い換えられるのが、たまらなく嫌だった。
ミナを助けたかった。
母を取り戻したかった。
白い施設を壊したかった。
それら全部が、ノクタヴィウスの口を通ると、子どもじみた痛みの延長みたいに見えてしまう。
「それは、そんなに恥ずべきことですか」
ふいに、ノクタヴィウスがそう訊いた。
ルゥは返せなかった。
「奪われた方が、奪われたと言葉にしたがるのは当然です。置いていかれた方が、置いていかれた怒りを正しさへ結びつけたがるのも」
そこで一度、声が切れる。
「ですが、その怒りの根にあるものを見ないままでは、あなたは何度でも同じ場所へ戻る」
ルゥは机の縁を掴んだ。
爪が白くなる。
もう何も言いたくない。
でも黙っていることさえ、この男には意味に変わる。
母のことを口にされた瞬間、ルゥは初めて、自分がここでどこまで裸にされるのかを想像した。
そしてその想像は、拘束よりもずっと冷たかった。




