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君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第9章 告解

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第34話 審問室

 深部へ連れていかれるあいだ、ルゥは自分の足音より、隣を歩く白衣の擦れる音の方を強く覚えていた。


 拘束されているのに、不思議なくらい静かだった。


 腕に巻かれた布と術式は、痛みとしては大したものではない。食い込むほど強くもなく、歩けないほど重くもない。ただ逃げるための動きを、必要なぶんだけ遅らせる。それだけの拘束だった。


 それが、余計に怖い。


 乱暴に引かれもしない。

 怒鳴られもしない。

 背を押されることさえ、ほとんどない。


 ただ、前に二人、後ろに二人。少し離れて祈祷師らしい灰衣がひとり。

 それだけで逃げ場が完璧に塞がっている。

 角を曲がるたびに白い壁が続き、どの扉も同じ顔をしていて、どこへ駆けても同じ静けさへ行き着くのだと分かる。


 この教団は、暴力で恐ろしくない。

 だから怖い。


 ルゥ=イリスは視線を落としたまま歩いた。

 呼吸を乱すな、と自分へ言い聞かせる。

 乱れた呼吸ひとつで何かを読まれる気がした。

 実際に誰が見ているのかは分からない。けれど、見られていると感じることそのものが、もう支配に近い。


 縄や術式そのものより嫌だったのは、いつノクタヴィウスが顔を上げるか分からないことだった。


 今この列の中にいるのかどうかさえ、はっきりしない。

 いてもおかしくない。

 いなくても、もう遅い。

 その“どちらでも成立する”感じが、背中の奥を冷やし続けた。


 やがて、列は小さな扉の前で止まる。


 中へ通されて、ルゥは一瞬だけ息を呑んだ。


 脅しになるものが何もなかったからだ。


 椅子が二脚。

 小さな机。

 灯り。

 白い壁。

 壁面には、ごく控えめな祈りの意匠。

 水差しと杯。

 紙と筆記具。


 鎖も、鞭も、刃物も、血を連想させるものもない。


 拷問室ではなかった。

 けれど、ただの診察室でもない。

 告解室のようでもあり、診察室のようでもある。

 そのどちらでもあることが、むしろ異様だった。


 脅しになるものが何もない場所は、脅しを必要としない場所なのだと、ルゥはそこで初めて知った。


「座ってください」


 低い声がした。


 ノクタヴィウスは、もうそこにいた。


 伏し目がちに、机の向こうへ座っている。

 白衣の袖口にも乱れがない。

 捕まえた相手を迎える人間の顔ではない。

 責め立てる気配も、勝ち誇る気配もない。

 まるで最初から、この対話のためだけに待っていたみたいだった。


 ルゥは椅子へ腰を下ろした。

 後ろで扉が閉まる。

 音は小さい。

 けれど、その小さな音が、逃げ道をひとつの形にした。


 しばらく沈黙が続いた。


 ノクタヴィウスはすぐには話し始めない。

 書類を見るでもなく、ルゥを睨みつけるでもなく、ただ相手の呼吸が落ち着くのを待っているように見える。


 急かしてくれた方がまだましだ、とルゥは思った。

 怒鳴ってくれた方が、怒り返す場所がある。

 だが、この男は最初からルゥの言葉ではなく、その手前にある揺れを見るつもりでいる。


「なぜ、そこまで憎むのです」


 落ちた声は、思っていたより平坦だった。


 教団の正しさを説く声ではない。

 断罪でもない。

 ただ、井戸へ石を落とすみたいに静かに沈んでいく問いだった。


 ルゥは答えなかった。


「あなたは、ここへ来た時から、すべてを憎んでいたわけではないのでしょう」


 ノクタヴィウスは淡々と問いを重ねる。


「嫌悪だけでここまで来た方の反応ではありません。あなたは何度か、立ち止まっている」


 ルゥは唇の内側を噛んだ。


 立ち止まった。

 第二階梯で。

 講演会で。

 ミナの穏やかすぎる声の前で。

 エクラリアの優しさの前で。


 それをこの男は、見ていたわけではない。

 なのに、見られていた気がする。


「何を失ったのです」


 答えない。

 答えないと決める。

 ここで口を開けば、何かが零れる気がした。


「何を守ろうとしているのです」


 守る。

 その言葉にだけ、心臓が小さく跳ねた。


 ノクタヴィウスは少しだけ目を上げる。

 真正面には見ない。

 それでも、こちらの反応の輪郭だけを拾い上げるような視線だった。


「人は、何も守っていない時には、ここまで無理をしません」


 静かな声。


「構造を壊したい、というのはよくある怒りです。正しさへ反発するのも、珍しくはない。ですが、それだけなら、もっと早く諦められる」


 ルゥは机の下で、片手を強く握った。


「あなたは諦めていない」


 ノクタヴィウスは言う。


「途中で何度も足を止めても、なお戻ってきている。何かひとつ、どうしても置けないものがあるからです」


「……分かったように言うな」


 やっとそれだけ返した。

 声は思ったより低く、乾いていた。


 ノクタヴィウスは気分を害した様子もない。


「分かっているとは言っていません」


「同じだ」


「違います」


 即答だった。

 強くはない。

 だからこそ、反論の隙が少ない。


「私は今、あなたの怒りの形を見ているだけです」


 怒りの形。

 まるで所見だ。

 診察の一項目みたいに、人の憎しみを形で測る。


「あなたは教義に反発している。処置にも反発している。けれど、本当に耐えがたいのは、別のところにあるのでしょう」


 ルゥは何も言わなかった。


「捨てられた、と思ったことがありますか」


 その問いに、ルゥの呼吸が一拍だけ乱れた。


 ノクタヴィウスはそこを逃さない。

 だが追い立ても、決めつけもしない。


「守られなかった、でもいい。置いていかれた、でもいい」


 置いていかれた。


 その言葉に、白い廊下の奥へ消えていった背中がよみがえる。

 入っていった時の母。

 戻ってきたあとの母。

 どちらも母なのに、同じところへはもう立っていない感じ。


 ルゥは視線を逸らした。

 逸らしたことが答えになっていると分かっていても、逸らさずにはいられなかった。


「家族のことになると、あなたは沈黙の質が変わりますね」


 ノクタヴィウスの声は、少しだけ柔らかかった。

 柔らかいことが、容赦のなさを薄めるわけではない。


「あなたは怒っている。ですが、怒りの根にあるのは、もっと幼い痛みです」


 ルゥの肩が強張る。


「言うな」


「なぜです」


「言うな」


「そこに触れられると、怒りの格好が保てなくなるからですか」


 机の下の手がさらに強く握られる。

 爪が掌へ食い込む。

 痛みで何かを保てると思うほど、もう子どもではない。

 それでも、何もないよりはましだった。


「あなたは、何かを壊したいのではなく、壊されたままのものに形を与えたいのかもしれない」


 ルゥはそこで初めて、机を蹴りそうになるのを堪えた。


 違う。

 違わない。

 その両方が胸の中でぶつかって、言葉にならない。


「黙っている方が、あなたには楽ですか」


 ノクタヴィウスが問う。


「言葉にしてしまうと、怒りの方が形を失うから」


 ルゥは睨み返そうとして、途中でやめた。

 視線が合えば、今度こそ身体の方から何かを奪われる気がした。


「……お前に、何が分かる」


 ようやく絞り出したのは、それだった。


 ノクタヴィウスは少しだけ間を置いた。


「分かろうとしているだけです」


 その返答が、ひどく嫌だった。

 理解者の顔をされたいわけではない。

 それなのに、否定しきれない精度でこちらの傷へ触れてくる。


「ここへ来る方の中には、自分が何を失ったのか言葉にできない方が多い」


 ノクタヴィウスは淡々と続ける。


「ですから、私は形から見ます。呼吸、沈黙、視線、ためらい」


「私は、これを告解と、そう呼んでいます」


 ルゥはそれを聞きながら、ぞっとした。

 能力だけではない。

 この男は、本当に“見る”ことに慣れている。


「人は守りたいものの近くで、必ず反応が変わる」


「あなたは、自分の怒りを正しい場所へ結びつけたいのでしょう」


「違う」


 今度は少しだけ強く返せた。

 だが、声の震えまでは消えない。


「本当にそうでしょうか。あなたは、構造を憎んでいるようでいて、いつも最後にはひとりへ戻っているようにも見えます」


 ミナ。

 母。

 候補者たち。

 その全部が、ルゥの胸の内側で熱を持つ。


「なるほど、わかりました。あなたは、私たちにご親族を奪われたのですね」


 断定しきらない形だった。

 問いに近い。

 けれど、ほとんど言い当てていた。


 ルゥの肩が揺れた。

 自分でも止められないほど、はっきりと。


「違う」


 とっさに言う。

 けれど、その言葉には勢いがなかった。


 違う、の意味が自分でも曖昧だったからだ。

 教団だけに奪われたわけではない。

 世界に。

 母自身の選択に。

 いろんなものに。

 その全部に奪われた。


 だから、ひとつの言葉では否定しきれない。


 ノクタヴィウスはそこで初めて、少しだけ顔を上げた。


 真正面から見たわけではない。

 わずかに角度が変わっただけだ。

 それでもルゥは、背筋の奥へ冷たいものが差し込むのを感じた。


「なるほど、お母様ですか」


 低い声だった。


 ルゥは答えない。


「あなたは、誰かを助けたかったというより、その喪失に形を与えたかった」


 ルゥは息を詰めた。


 そんなふうに言い換えられるのが、たまらなく嫌だった。

 ミナを助けたかった。

 母を取り戻したかった。

 白い施設を壊したかった。

 それら全部が、ノクタヴィウスの口を通ると、子どもじみた痛みの延長みたいに見えてしまう。


「それは、そんなに恥ずべきことですか」


 ふいに、ノクタヴィウスがそう訊いた。


 ルゥは返せなかった。


「奪われた方が、奪われたと言葉にしたがるのは当然です。置いていかれた方が、置いていかれた怒りを正しさへ結びつけたがるのも」


 そこで一度、声が切れる。


「ですが、その怒りの根にあるものを見ないままでは、あなたは何度でも同じ場所へ戻る」


 ルゥは机の縁を掴んだ。

 爪が白くなる。

 もう何も言いたくない。

 でも黙っていることさえ、この男には意味に変わる。


 母のことを口にされた瞬間、ルゥは初めて、自分がここでどこまで裸にされるのかを想像した。


 そしてその想像は、拘束よりもずっと冷たかった。


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