第29話 優しい怪物
その夜、ルゥは眠れなかった。
眠れない理由が怒りなのか、動揺なのか、もう自分でも判別がつかなかった。
講演会場の高窓から落ちていた薄い光。
木と石の講堂。
異なる種族の者たちが、少しずつ距離を取りながら同じ場に座っていた静かな偏り。
エクラリアの声。
心の檻。
同じになるという道。
真の癒し。
どの言葉も、もう一度思い返せば反発できるはずだった。
なのに、反発だけでは足りない。
足りないから、余計に眠れない。
大部屋の寝台の上で何度も寝返りを打ったあと、ルゥ=イリスは毛布を押しのけた。
夜の施設は静かだった。
白い壁は灯りを薄く返し、廊下の角に置かれた魔導灯だけが控えめに揺れている。遠くで誰かが咳をし、別の部屋で寝具の布擦れが一度だけ鳴る。聖光団の夜は、昼よりさらに整って見えた。
いきなり悪夢の顔をしているわけではない。
それが、この施設の怖いところだった。
ルゥは上着を羽織り、音を立てないよう大部屋を抜けた。
行き先があったわけではない。
ただ、じっとしていると昼の講演の言葉が頭の中で増えすぎる気がした。
回廊は冷えていた。
医療棟へ近づくほど、薬草と清水の匂いが薄く混ざる。
昼間なら忙しなく人が通る廊下も、今は白い空間そのものが息を潜めているみたいだった。
ルゥは足を止める。
前方、深部へ続く区画の方から、かすかな物音がした。
布の擦れる音。
低い足音。
金属の触れ合う小さな気配。
そして、人を運ぶ時の重さを含んだ歩調。
反射で壁際へ身を寄せる。
影の濃い柱の陰。
白い施設の中では、影さえ清潔すぎて、隠れるという行為がひどく場違いに思えた。
やがて、白衣の列が見えた。
三人。
先頭と後尾に信徒がいて、その真ん中で、寝台ごと一人が運ばれている。
眠っているのではない。
昏睡に近い、深い鎮静の気配だった。
手は胸の上で整えられ、足元まで白布がかけられている。
寝台の脇には、小さな札が吊るされていた。
ルゥは息を詰める。
札は処置識別用のものだ。
第一階梯や第二階梯でも見たことがある。
だが今夜のそれは、色も形も少し違った。
簡素で、実務的で、そして余計な説明がない。
列が近づく。
灯りの下へ入る。
札の文字が、一瞬だけはっきり見えた。
深部処置
献魔適性
喉の奥がひやりと冷えた。
講演会場で耳に残った言葉。
記録庫で見た文字。
第三階梯。
献魔。
それが今、ただの帳面の記載ではなく、白い寝台の上の一人へ繋がっている。
列は静かに進む。
誰も急がない。
誰も荒々しく触れない。
それがなおさら恐ろしい。
ルゥは柱の陰から、その寝台の上の横顔を見た。
若い。
年までは分からない。
処置前なのか、すでに何かを経ているのかも分からない。
ただ、顔つきだけが穏やかすぎた。
昼の講演が、そこで不意によみがえった。
差異を捨て、恐れなくてよい未来を迎えること――それが“真の癒し”です。
真の癒し。
その言葉が、この昏睡した身体の行き先に重なる。
講堂では美しかった。
理知的で、あまりにも現実に根ざしていて、一瞬だけ頷きかけた。
その美しい理論が、今はこの白い寝台の上へ繋がっている。
心の檻。
同じになる道。
真の癒し。
講演会の言葉は、単なる外向けの美しい説明ではなかった。
そのまま、この施設の選別と処置の論理になっている。
ルゥは自分の指先が冷たくなるのを感じた。
理論と現実が、ここで一本に繋がっている。
同じになることは幸福だ、と語った口が。
壁をほどく、と語った声が。
そのまま第三階梯の札をぶら下げた寝台へ続いている。
列が深部の扉の前で止まる。
重い扉の向こう側から、さらに冷えた空気が流れ出る。
白衣の一人が札を確認し、短く頷く。
その手際にも、迷いはなかった。
「眠れないのね」
すぐ後ろで、声がした。
ルゥの身体が一瞬だけ強張る。
振り向かなくても分かる。
この声は、もう聞き間違えようがない。
エクラリア。
いつからそこにいたのか分からなかった。
最初から気づいていたのかもしれない。
あるいは、ルゥがこの場所まで来ることを、どこかで予測していたのかもしれない。
それでも彼女は怒らない。
咎めない。
「何をしているの」とも問わない。
ただ、近づいてくる。
ルゥは振り返った。
正面から目を見ることはできない。
それでも逃げるように背を向けるのも違う気がして、視線だけを少し外した位置へ置く。
エクラリアの白衣は夜の回廊の中で、昼より柔らかく見えた。
銀糸も光らない。
講演会場の美しさがそのまま抜け落ちたように見えるのに、逆にこちらの方が危うい。
「……たまたま、目が覚めただけです」
ルゥはそう言った。
言い訳にもなっていないと、自分でも分かる。
エクラリアはそれを暴かない。
視線を深部の扉へ向け、運ばれていく寝台を見送る。
「そう」
短い返答。
それきり、しばらく何も言わない。
沈黙の中で、深部の扉が閉まる音だけが低く響いた。
その音が、講演会の最後の拍手よりずっと現実的だった。
「昼の話を、考えていたのでしょう」
エクラリアがやがて言う。
問いではない。
確認に近い声音。
ルゥは答えなかった。
答えなくても、たぶん分かっている。
「あなたは、よく考える子だから」
その言葉が、なぜか責められるより辛い。
エクラリアはルゥのすぐ近くまで来た。
近すぎはしない。
けれど、こちらが一歩下がれば不自然になる距離。
「あなたは、よく考える子だから」
その言葉が、なぜか責められるより辛い。
エクラリアはルゥのすぐ近くまで来た。
近すぎはしない。
けれど、こちらが一歩下がれば不自然になる距離。
「もう、抱えきれないのでしょう」
その言葉に、ルゥの喉が詰まった。
講演会の余韻。
第三階梯の札。
白い寝台で運ばれていく身体。
ミナの穏やかすぎる声。
候補者たちの切実さ。
外の世界の壁。
その全部が一度に胸の奥へ押し込まれていたことを、その一言だけで言い当てられた気がした。
前にも似たように触れられたことはある。
敏い子ほど疲れやすい。
抱えすぎる。
そういう方向から。
でも今夜は違う。
講演会を聞き、第三階梯の札を見て、その理論と現実が一本に繋がったあとで聞くその言葉は、昼間よりずっと深く刺さった。
ルゥは唇を噛んだ。
殺したいはずだ。
止めたいはずだ。
この白い論理を壊したいはずだ。
なのに今、ほんの一瞬だけ、その言葉へ身体が寄りそうになる自分がいる。
抱えきれない。
その通りだった。
候補者たちの願いを見た。
ミナの変化を見た。
外の世界の不公平も見た。
差異を守れと叫ぶだけでは届かない現実を、嫌というほど思い知らされた。
その苦しさの芯を、エクラリアの言葉は正しい位置で触ってくる。
エクラリアの指先が、ルゥの肩へそっと触れた。
力はない。
引き寄せるわけでも、押さえるわけでもない。
ただ、そこに緊張があると知っていて、置かれた手だ。
ルゥの呼吸が一瞬だけ乱れる。
泣きそうになる。
それが自分でも信じられなかった。
殺したいほど憎んでいるはずの相手に、今ここでほんの少しだけ「分かってもらえた」と感じそうになる。
そのこと自体が、何より恐ろしい。
ルゥは一歩だけ肩を引いた。
逃げるような動きだった。
だが、そうしなければ本当に何かが崩れる気がした。
エクラリアはそれを追わない。
ただ、静かにルゥを見る。
怒っていない。
侮ってもいない。
むしろ本気で、こちらの苦しさを理解しようとしている顔だった。
そこでルゥは、はっきりと理解した。
この人は優しい。
本当に救いたいと思っている。
痛みを減らしたいと思っている。
誰かが普通に眠れないことも、抱き寄せられないことも、仕事を選べないことも、苦しいのだと本気で知っている。
だからこそ、最悪の怪物だ。
もし彼女が偽善なら、もっと簡単に憎めた。
もし狂っているだけなら、切り捨てられた。
だが違う。
優しく、理解があり、救おうとし、その果てに人の身体と輪郭へ手を入れる。
優しいからこそ、怪物だった。
ルゥはその場で小さく息を吐いた。
それが震えていたことに、自分でも少し遅れて気づく。
「……あなたは」
声がかすれる。
「本当に、これが癒しだと思ってるんですね」
エクラリアは少しだけ目を伏せた。
「ええ」
その肯定に、迷いはない。
「すべての人に同じ方法が必要だとは思わない。けれど、苦しみの根が差異と深く結びついているなら、それをほどくことは医療でもあるわ」
医療。
その言葉を、彼女は講演会でも使っていた。
今も同じ温度で使う。
ルゥはもう何も言えなかった。
ここに長くいれば、自分も飲まれる。
候補者たちの切実さを見て。
外の世界の不公平を知って。
エクラリアの優しさに触れ続けて。
その先にある理論まで理解してしまったら、いつか自分も「仕方がない」と思ってしまうかもしれない。
それが、何より怖い。
ルゥは一礼にもならない動きで頭を下げ、その場を離れた。
回廊を曲がる。
白い壁が続く。
深部の扉はもう見えない。
けれど肩へ置かれた手の感触だけが、まだ消えない。
真相を暴かなければならない。
そう思ったのは、もう教団が許せなかったからだけではなかった。
理解してしまう前に、壊さなければならなかった。
第7章 終




