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君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第7章 優しい怪物

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第28話 あなたも苦しいでしょう

 人のいなくなった講堂は、さっきまであれほど多くの差異を抱えていたのに、ひどく空っぽに見えた。


 ルゥ=イリスは資料を抱えながら、その空っぽさが少しだけ教団に似ていると思った。


 つい先ほどまで、ここには翼を畳んだ者がいて、角の向きを気にしながら座る者がいて、水気を帯びた皮膚を乾きすぎない席へ落ち着ける者がいた。医療組合の者、宿泊組合の者、治療師、支援者、家族。誰も露骨に争ってはいないのに、座る位置と沈黙の持ち方だけで、それぞれの壁が見えていた。


 今は椅子が引かれ、帳面が閉じられ、残っているのは片づけの気配だけだ。


 木の講台。

 水差しの底で揺れる薄い光。

 投影板の白い幕。

 講演会のあいだは学びの場に見えていたのに、終わってみるとそこに残る白さだけが、妙に聖光団の空気に似ていた。


 ルゥは資料束を揃え、卓の端へ重ねた。

 手は動く。

 だが頭の中では、講演の言葉がまだ消えていない。


 心の檻。

 同じになるという道。

 真の癒し。


 間違っている。

 そう思う。

 けれど、どこから間違っているのかを切り分けようとすると、必ず市場の光景や第二階梯の候補者たちの顔が割り込んでくる。


 外の世界は豊かだった。

 そして、その豊かさは同時に壁でもあった。


「その資料、こちらへ」


 エクラリアの声がした。


 ルゥは顔を上げる。

 講堂にはもう、二人と、遠くで椅子を運ぶ若い信徒が一人いるだけだった。

 さっきまで壇上に立っていた時と比べて、エクラリアの姿はずいぶん小さく見える。

 それでも、空気の芯を静めてしまう感じだけは変わらない。


「はい」


 ルゥは資料を持って歩み寄った。


 机の上には症例記録、講演用の要点書き、質問票、巡回先の一覧が整然と並んでいる。祈りの道具ではない。実務の紙だ。支援先の街区、対応件数、宿泊組合との協議事項。講演会もまた、この人にとっては日常の仕事の延長に過ぎないのだと分かる。


「重かったでしょう」


 エクラリアが何気なく言う。


「別に」


「そう」


 それ以上気遣いを重ねない。

 その距離感が、かえって慣れている者のものに思えた。


 講堂の隅で若い信徒が最後の椅子を運び出し、扉が閉まる。

 広い空間に残るのは、木と石の匂いと、片づけの小さな音だけだ。


 エクラリアは質問票をざっと見て、束ね直した。

 その手つきに疲れはほとんど出ない。

 けれど講演の時より少しだけ静かだ。

 役目を終えた医療者の顔になっている。


 ルゥはその横顔を見ていて、ひとつ分かってしまった。


 この人は説法をしていたのではない。

 本気で考えて、本気で今もその続きをしている。


 演台の上で美しい理屈を語り、その場だけで終わる者の顔ではない。講演で語った現実を、日々の書類と巡回の中へそのまま持ち帰る顔だ。


「……ああいう話、いつからしてるんですか」


 気づけば、そう口にしていた。


 エクラリアは紙束を揃える手を止めない。


「講演会のこと?」


「差異とか、壁とか」


「ずっと前から」


 あまりにあっさりした答えだった。


 ルゥはもう一歩だけ踏み込む。


「そんなに、たくさん見てきたんですか」


 エクラリアはそこで初めて、少しだけ考える間を置いた。


「数えてはいないわ」


 声は低い。


「数え始めると、ひとりずつの顔が薄くなるから」


 その一言に、ルゥの指先が強張る。


 講堂の高窓から差す光が、エクラリアの白衣の袖へ細く落ちていた。

 彼女はその光を気にするでもなく、淡々と続ける。


「最初は、もっと小さなことばかりだったの」


 身の上話の語り方ではない。

 思い出を並べるのでも、同情を引くのでもない。

 ただ、見てきた断片を確かめるような口調だ。


「眠れない子。抱きしめられると痛い子。仕事が続かない者。宿を転々とする者。家族がいるのに、帰る場所のない者」


 ルゥは講演会の症例を思い出す。

 だが今の言い方は、壇上で整理されたものよりずっと近い。

 記録ではなく、顔の記憶に近い。


「制度で救われるまで待てない者は多いわ。ギルドは働ける者しか拾えない。家族は愛していても、設備や知識が足りない。医療者だけでは、生活のすべてを支えられない」


 エルヴィンの言葉が頭をよぎる。

 国家は遅い。

 ギルドは救わない。

 あいつらは、救う。


「だから、あなたたちは削るんですか」


 ルゥはようやくそう言った。


 棘は残っていた。

 だが、以前のようにまっすぐには刺さらない。

 講演会の内容と外の現実が頭の中で繋がってしまっているからだ。


 エクラリアは怒らない。

 傷ついた様子も見せない。

 ただ、ルゥの言葉を正面から受け取る。


「削る、という言葉は嫌いではないわ」


 意外な返答だった。


 ルゥは思わず顔を上げる。


「嫌いではない?」


「ええ。正確な時もあるから」


 エクラリアは静かに言う。


「ただ、削ることだけを見れば、ほとんどのことは残酷に見えるでしょう」


「残酷じゃないとでも?」


「残酷よ」


 その肯定に、ルゥは逆に言葉を失った。


 エクラリアはそこで逃げない。


「痛みもある。取り返せないこともある。戻らないものもある」


 その声は平坦ではない。

 認めた上で、その先へ進む声だ。


「でも、何も手を入れないまま壊れていく者もいた」


 そこで初めて、エクラリアの目の奥にほんのわずかな影が差した。


「助けられなかった者を、私は何人も見たわ」


 長々とは語らない。

 だが、その断片だけで十分だった。


 見てきた数。

 間に合わなかった数。

 外の世界の制度でも、家族の善意でも、祈りでも、支えきれなかった数。


 この人は理念の人ではなく、現場を見すぎた人なのだと、ルゥはそこで理解した。


 それが、また厄介だった。


「それでも」


 ルゥは言う。


「それでも、奪うのは違う」


 ようやく絞り出した反発だった。

 弱い。

 自分でも弱いと思う。


 エクラリアはその弱さを責めない。


「そうかもしれない」


 すぐには否定しなかった。

 それがかえって、ルゥの言葉を宙吊りにする。


「でも、『違う』だけでは眠れない夜が終わらない者もいるの」


 ルゥは口を閉じた。


 違う。

 それだけでは、普通の部屋で眠れない翼持ちに、どうしろと言う。

 孫に少し身を引かれる老女へ、何を差し出せる。

 耳を置いて少しだけ考えなくて済むようになったミナに、どう戻れと言える。


 反発したい。

 けれど講演内容が、外の世界の現実に根ざしていたからこそ、反発の言葉はどうしても細くなる。


 エクラリアは水差しへ手を伸ばし、ふたつの杯へ水を注いだ。

 ひとつをルゥの方へ寄せる。


「敏い人ほど壊れやすい」


 ルゥはその一言に、身体のどこかが先に反応するのを感じた。


 講演会の余韻でも、候補者たちの声でもなく、もっと個人的な場所へ刃が入ってくる。


「外の音も、人の気配も、自分とは違うものの重さも、抱えようとするから」


 エクラリアの声は低い。

 講演の時よりずっと近い。

 それがなおさら危険だった。


「あなたも苦しいでしょう」


 その言葉を、ルゥはずっと別の誰かに言われたかった気がした。


 だからこそ、彼女に言われるのが一番まずかった。


 喉が詰まる。

 怒りより先に、何か別のものが込み上げる。

 泣きそうになる。


 自分でも、それが何に対する反応なのか分からなかった。

 母の記憶かもしれない。

 聞こえすぎる世界への疲れかもしれない。

 ミナを止められなかったことへの悔しさかもしれない。

 ただ一つ分かるのは、この言葉が、自分の中で一番触れてほしくない場所へ正確に届いてしまったということだった。


 その一言だけで、怒りの置き場が一瞬なくなった。


 ルゥは唇を噛んだ。

 ここで崩れたら終わる。

 この人の前で、理解される側へ落ちたら戻れない。


「……分かったように言わないで」


 やっとそれだけ言う。


 声は思っていたより弱かった。


 エクラリアは微笑まない。

 慰める顔もしない。

 ただ、事実を受け止めるように頷く。


「分かろうとしているだけよ」


 その返答すら、ルゥには危うかった。


 敵なのに。

 止めなければならない相手なのに。

 ほんの一瞬だけ、ここで全部吐いてしまえたら楽かもしれないと思ってしまう。


 それが何より怖い。


 憎んでいる相手に理解されかけることほど、みじめなことがあるだろうか。


 ルゥは一歩だけ後ろへ下がった。

 距離を作らなければ、足元が崩れる気がした。


 講堂はもうほとんど空になっている。

 高窓の光は弱く、木の椅子は片づけられ、さっきまで差異を抱えていた場が、ただの空間へ戻りつつあった。


 その空っぽさが、やはり少しだけ教団に似て見えた。


「戻るわよ」


 エクラリアが言った。


 仕事の延長としての声音。

 今のやり取りを特別扱いしない口調。

 それがまた、余計に現実的だった。


 ルゥは頷いた。

 それ以上は何も言わない。


 資料を抱え直し、講堂を出る。

 石段を下りる足が、自分のもののようで少し違う。

 外の空気はまだ冷たくなく、街の気配は生きている。

 それなのに、ルゥの胸の内側だけが不安定だった。


 このまま近くにいれば、いつか自分は、この女の言葉を『理解』ではなく『救い』として受け取ってしまうかもしれなかった。

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