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君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第8章 失踪者たち

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第30話 深部侵入

 呼び出しは、荷札の切れ方で来た。


 奉仕外出の帰り、ルゥ=イリスは運搬ギルド脇の荷札台を横目に通り過ぎかけて、足を止めた。吊るされた札のうち一枚だけ、右下の角が深く切られている。偶然ではない。前にエルヴィンが一度だけ教えた符牒だった。


 今夜、会え。


 市場はいつも通りうるさかった。

 焼いた魚、湿った木、獣脂、酒、荷車の鉄輪。

 値切る声、怒鳴り声、笑い声。

 白い施設の薄い匂いと静けさのあとでは、どの音もむき出しに生きているように思える。人が人のまま動いている、ということの証拠のような場所だった。


 ルゥは列から半歩だけ遅れ、何事もない顔で歩いた。

 会う場所は分かっている。

 ギルド近くの安酒場二階。

 下の喧騒が絶えず板床を揺らしている場所だ。


 夜、酒場の二階は昼より狭く感じた。


 一階ではまだ杯がぶつかり、荷運びたちが笑いながら罵り合っている。窓の外ではギルド掲示板の前に遅い時間まで人が残り、仕事にあぶれた者が軒下へしゃがみ込んでいた。街は止まらない。止まらないまま、その一角でだけ密談めいた空気が生まれている。


 エルヴィンは窓際にいた。

 酒は頼んでいない。

 卓の上には紙包みがひとつだけ。

 その無駄のなさが、今夜の話の張りつめ方をよく表していた。


「入り口を見た」


 ルゥは座る前に言った。


 エルヴィンはそれで十分だという顔をした。


「どこまで」


「深部前。札も見た。記録板もある」


「見張りは」


「まだ数えきれてない」


 エルヴィンは小さく頷く。

 その返答には評価も慰めもない。

 ただ、次に必要なことへ頭を進めている者の動きだけがある。


「今夜入るなら、西回廊からだ」


 声は低い。

 酒場の笑い声に紛れる程度の音量。


「鐘二つのあと、一度だけ巡回が薄くなる。長くは空かない。見張りは二人組が基本だが、深部前は固定がいるかもしれない」


「かもしれない、なの」


「内側の呼吸までは分からない」


 それが外の人間の限界だ。

 ルゥはそれを聞きながら、かえって少し落ち着いた。

 全部を見通した作戦など、ここでは嘘にしかならない。確かなことだけを積んで、あとは動きながら判断するしかない場所だった。


「逃げるなら」


 エルヴィンは窓の外を見たまま続ける。


「西回廊を捨てて北へ回れ。洗い場脇の細い通路に入れば、一度視線は切れる。その先で外へ出られなくても、第二階梯裏の物置までなら潜れる」


「外では」


「橋の手前で待つ」


 短い。

 過剰に作戦会議にはしない。

 ばれたら終わるという感覚だけが、二人のあいだで静かに共有されていた。


「失敗したら」


 ルゥが言いかけると、エルヴィンが遮った。


「終わりだ」


 即答だった。


「だから、奥まで行けなくても戻れ。深部の札と記録だけでも十分だ」


 ルゥは返事をしなかった。

 十分ではないと思っている。

 だが、それを今ここで言葉にしても意味はない。


 細い糸だと思う。

 教団の内と外を繋ぐ、切れそうなほど細い連絡。

 荷札の切れ方、酒場の二階、橋の外で待つ男。

 それでも今は、その細さだけが頼りだった。


 夜の施設は、昼間よりさらに匂いが薄かった。


 市場や酒場の濃い匂いを胸へ残したまま戻ってくると、その薄さがむしろ異様に感じる。

 清水。

 乾いた薬草。

 ごく薄い薬品。

 祈りの残り香のような、ほとんど匂いと呼べないもの。

 全部が均質で、削られていて、どこにも尖りがない。

 人の体が発する匂いすら、ここでは許されていないみたいだった


 ルゥは鐘の音を待った。


 一つ。

 夜の祈り。

 二つ。

 大部屋の呼吸が沈み始める時刻。


 毛布を押しのけ、音を立てずに立ち上がる。

 上着を羽織る。

 寝台の影へ足を落とす。

 誰も起きない。

 起きていないように見える。

 そのことを信じすぎないようにだけ気をつける。


 廊下へ出る。


 白い壁。

 白い布。

 淡い魔導灯。

 遠くで一度だけ咳がして、それきり止む。


 ルゥは西回廊へ向かった。


 白衣の巡回は二人組だった。

 角を曲がる。

 足音が近づく。

 壁の窪みへ身体を寄せる。

 布の擦れる音が、自分のものだけやけに大きく聞こえる。

 心臓の音まで聞こえそうで、ルゥはゆっくりと息を吐いた。


 巡回が通り過ぎていく。

 整った足取り。

 私語はない。

 見張っているというより、施設の静けさそのものが歩いているみたいな動きだった。


 ルゥは息を止めたまま、それを見送る。

 視界から消えた瞬間にようやく肺へ空気を戻す。


 深部へ近づくほど、空気は変わった。


 第一階梯や第二階梯にはまだ、人の息づかいがあった。

 痛み。

 祈り。

 ためらい。

 白さの中に、それでも人の揺れが残っている。


 だが深部は違う。


 そこへ近づくほど、揺れが減る。

 残るのは、管理された静けさだけだ。


 怖さは暗がりにあるのではなかった。

 むしろ明るすぎるくらい清潔で、整っていて、その整いがそのまま恐怖になっている。


 清潔すぎる恐怖。


 その言葉が、ルゥの頭に浮かんだ。


 深部区画の手前は、宗教施設というより夜の病院だった。


 重い扉。

 鍵。

 封印術式の淡い光。

 記録板。

 移送台。

 白い布をかけた細長い台車。

 壁際に揃えられた器具箱。

 一滴の汚れもない床。


 だから怖い。


 正しさの顔をしている。

 必要な設備の顔をしている。

 ここで行われることが、誰かのためであるかのような顔をしている。


 善意に見えるものほど、ここでは深く疑わなければならない。病院に見えるこの場所が、この教団では信用ならなかった。


 ルゥは物陰へ身を滑らせた。

 まず目をやったのは、扉脇の記録板だ。


 差し込み式の札が並んでいる。

 第一階梯や第二階梯よりさらに実務的で、なおかつ祈りの語彙が深く混ざっていた。


 安定化

 統合

 過負荷軽減

 適性審査

 浄化

 献魔適性


 献魔適性。


 記録庫で見た文字。

 帳面の中では乾いた記載だったそれが、今は現実の札として扉の前にある。


 ルゥはさらに卓の上の控えへ手を伸ばした。


 移送控え。

 処置識別札。

 症例番号。

 観察責任者。

 紙面は医療記録に見える。

 だが語彙の端々が、それだけではないことを告げていた。


 浄化後観察

 統合優先

 適性保持

 深部処置


 白い施設は、治療の言葉で人格へ触れている。


 ページをめくる。

 番号の列。

 移送履歴。

 第二階梯を経た者。

 経ずに深部へ送られた者。


 そして、その中に見覚えのある番号があった。


 名ではない。

 管理のための数字と記号。

 けれどルゥはそれを知っていた。


 医療棟の倉庫で会った助手。

 そのあと、いなかったことにされた者。

 帳面の中で不自然に省略されていたあの記載と、同じ番号だった。


 喉の奥が冷たくなる。


 消えたのではなかった。


 ここへ来ていたのだ。


 失踪者たちは、ただいなくなったのではない。

 第三階梯へ送られていた。


 ルゥは控えを元の位置へ戻した。

 指先がわずかに震えている。

 扉の向こうを見たい。

 だが、今はまだそこへ入れない。


 今夜持ち帰れるものだけを、確かに持ち帰る。それがエルヴィンとの約束だった


 深部の扉は閉ざされたまま、清潔で、冷たく、正しい顔をしていた。


 ルゥはその扉を見つめた。


 消えたのではなかった。

 ここへ来ていたのだ。

 そして、来た先で何が残るのかだけが、まだ分からなかった。

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物語世界が地に足ついていて引き込まれます。更新を楽しみにしています。
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