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君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第6章 献形

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第24話 悲しそうなのは

「あなたは残ってるから言える」


 その言葉は、怒鳴り声より静かだったくせに、ルゥ=イリスの背中を押した。


 準備室を出てからもしばらく、足が止まらなかった。


 白い廊下を早足で曲がり、角を折れ、誰にも呼び止められないまま医療棟の方へ向かう。自分でも、どこへ行くつもりなのか最初ははっきりしていなかった。ただ、あの言葉をそのまま胸の中へ置いておけなかった。


 残ってるから言える。


 耳も、角も、翼も、まだ失っていない側の正しさ。

 削られていない側の苛立ち。

 差異は美しい、なんて言葉を、まだ残っている側だから抱えていられるだけなのかもしれない。


 そう言われた時、ルゥは何ひとつ返せなかった。


 腹が立った。

 悔しかった。

 でも、そのどちらより、足元が少し崩れるみたいな感覚の方が強かった。


 ミナが間違っていると、きっぱり言えなかった。

 候補者たちの願いを、ただの欺瞞だとも切って捨てられなかった。

 普通の部屋で眠りたい。怖がられたくない。仕事を選びたい。

 そのために身体を削ろうとする論理は醜い。醜いはずなのに、世界の方が先にそうさせているのも見えてしまった。


 もしあれが正しいなら、自分の怒りは何だ。


 ミナを止められなかったことも、候補者たちへ言い返せなかったことも、全部ただの“残っている側の感傷”でしかないのか。


 それを確かめたかった。


 感情じゃないもの。

 言い逃れのできないもの。

 名前と順番と処置の記録で並べられた、白い施設の本当の輪郭を。


 だからルゥは、記録庫へ向かった。じっとしていることはできなかった。


 医療棟の奥へ行くほど、空気は少しずつ乾いていく。薬草の匂いは薄れ、代わりに紙と革表紙の気配が強くなる。白い施設の中でも、記録庫の周辺だけは体温が低い。生きたやり取りより、残された文字の方が多い場所だ。


 扉の前まで来た時、ルゥは一度だけ息を止めた。


 ここへ来れば何か分かる、という確信があったわけではない。

 むしろ逆だ。

 分からないことの方が増えるかもしれない。

 それでも、準備室の白い空気の中で、あの言葉に刺されたまま立ち尽くしているよりはましだった。


 残ってるから言える。


 その響きを振り払うように、ルゥは扉へ手をかけた。


 記録庫の扉は重く、内側の空気は乾いていた。


 紙と革表紙の匂い。

 乾燥させた薬草の名残。

 白い施設の中でも、ここだけは少し冷たい。

 生きた体温より、残された文字の方が多い場所だ。


 棚には帳面が整然と並んでいる。

 名簿。

 割当表。

 処置記録。

 相談記録。

 休息所の受け入れ一覧。

 その背表紙には、几帳面すぎるほど均一な字で分類名が記されていた。


 ルゥはまず、処置関係の薄い帳面を抜いた。


 内容は簡潔だった。

 日付、対象、階梯、状態、所見。

 だが、その簡潔さの中に混じる語が、どうしようもなく白い施設のものだった。


 安定化

 浄化

 順応性向上

 適性観察

 信仰深度維持


 医療の帳面の顔をしている。

 だが、ただの医療記録ではない。

 診断と儀礼が、同じ文字列の中へ溶けている。


 ルゥは指先でページをめくった。


 第一階梯の献耳。

 第二階梯の献形。

 それぞれの記録には、事前聞き取り、身体所見、術後安静、精神状態の観察が並ぶ。

 驚くほどきちんとしている。

 雑な狂信ではない。

 だからこそ厄介だ。


 さらに奥の帳面へ手を伸ばす。

 背表紙に階梯の明記がない。

 代わりに、高度治癒管理とだけ書かれていた。


 嫌な予感がした。


 開くと、最初の数ページは空白で、そのあと急に記載の形式が変わる。

 通常の処置記録より項目が少ない。

 対象名、移送許可、適性判定、観察責任者。

 そして、階梯欄。


 そこに、初めてはっきりと書かれていた。


 第三階梯


 ルゥの指が止まる。


 文字はたったそれだけだ。

 なのに、帳面の中でそこだけ別の温度を持っているみたいに見える。


 ページを追う。


 第二階梯を経て第三階梯へ進んだ者の名がある。

 だが、その並びに混じって、おかしな記載があった。


 第一階梯から直接、第三階梯へ移送。

 第二階梯記録なし。

 適性判定のみ。

 備考欄には、短くこうある。


 高度治癒適性

 献魔適性


 献魔。


 初めて見る言葉だった。

 けれど、その一語だけで、帳面の冷たさが一段深くなる。


 献耳、献形の次にあるもの。

 第三階梯。

 そして、献魔。


 ルゥの背中がひやりとした。


 さらに目を走らせる。

 名前の列の中に、見覚えのある書き方が混じっていた。

 名字でも通称でもない、施設内でしか使われない管理上の短い記載。

 完全な名ではない。

 だが、医療棟の倉庫で会ったあの助手を思い出させる、不自然に省略された表記だった。


 確証はない。

 それでも、匂う。


 いなかったことにされた者。

 第二階梯を経ずに、第三階梯へ送られた者。

 記録がある。

 そして、その記録自体がどこか儀礼的に曖昧だ。


 ルゥは帳面を閉じかけて、もう一冊だけ抜いた。

 今度は名簿に近い形式の割当表だった。

 白衣の担当者と対象者が紐づけられている。

 第一階梯、第二階梯までは前室係、補助係、術後係と細かい。

 だが第三階梯だけ、急に欄が少なくなる。


 対象。

 深部許可。

 観察者。

 記録者。


 閉じた区画。

 限られた目。

 そして、そこにだけ名前のない欄がある。


 ルゥはそれを見ているうちに、背後の空気が変わったことに気づいた。


 振り向く前に、身体が先に知った。


 見てはいけない。


 その本能に近い感覚が、喉の奥をひやりと冷やす。


「熱心ですね」


 低い声がした。


 ルゥは帳面を閉じた。

 完全に乱れた動作ではない。

 けれど平静とも言い切れない速さだった。


 振り返る。


 記録庫の扉の近くに、ノクタヴィウスが立っていた。


 白い衣。

 抑えられた立ち姿。

 何一つ荒々しくない。

 なのに、その姿を認めた瞬間、ルゥの背中から足首までが一斉に緊張した。


 逃げたい。

 だが、逃げる動きの方が遅いと分かる。

 堂々としていなければならない。

 その必要だけは頭にあるのに、身体の方はすでに別のことを知っていた。


「……割当の確認を」


 ルゥはそう言った。

 自分でも、少し乾いた声だと思った。


 ノクタヴィウスはそれを否定しない。

 記録庫へ足を踏み入れ、棚の前で立ち止まる。

 距離はある。

 それでも近い。


「あなたは、よく見ていますね」


 責める声ではない。

 それが余計に怖い。


 ルゥは帳面を抱え直した。

 視線を正面へ返すべきか迷う。

 返した瞬間、また身体が一拍遅れるかもしれない。

 その予感がある時点で、もう負けている気がした。


「奉仕なら、見るでしょう」


「ええ」


 ノクタヴィウスは静かに言う。


「でも、あなたは見すぎる」


 その一言で、ルゥの肩がわずかに強張る。


 記録庫侵入を咎めるのではない。

 帳面を勝手に見たことを暴くのでもない。

 先に触れてくるのは、また内側だ。


「あなたはまだ、差異を美しいと思っている」


 ルゥは息を詰めた。


 腹が立った。

 見透かされたことにではない。

 その言葉が、少しだけ本当だったことに。


 差異は美しい。

 そう簡単には言えなくなった。

 言えなくなったのに、それでもなお、切り落とされ、削られ、普通へ寄せられていくものを見て、美しいと思ってしまう部分が自分の中に残っている。


 ノクタヴィウスはそれを知っているみたいに言う。


「違う」


 ルゥは低く返した。


「もう、そんな簡単な話じゃない」


「簡単だと言ったつもりはありません」


 ノクタヴィウスの声は変わらない。


「けれど、あなたはまだ“失われること”の方を先に見ている」


 その通りだった。

 だから腹が立つ。


 彼は記録庫の白い壁と同じくらい静かに立っている。

 なのに、視線の気配だけで身体の奥が縮こまる。


 見返したら固まるかもしれない。


 ルゥはそれを本能で知っていた。

 知らされていたのではない。

 審問の時に一度、身体が覚えた。

 だから今、視線を正面から返せない。


 見てはいけないと、身体の方が先に知っていた。


「なぜ、そんなに悲しそうなのです」


 ノクタヴィウスが問うた。


 その言葉に、ルゥははっと顔を上げかけて、ぎりぎりで止めた。


 悲しそう。


 怒っているのでも、反抗しているのでもなく、悲しいと言う。


 それが、責められるよりずっと深く刺さった。


 ルゥは唇を噛んだ。

 悲しいのかもしれない。

 ミナのこと。

 候補者たちのこと。

 普通になりたいだけの願いが、身体の切除へ繋がる世界のこと。

 そして、それに何ひとつまともな答えを返せない自分のこと。


 全部を怒りに変えていたつもりだった。

 けれど、その下にあるのが悲しさだと、他者に言い当てられるのは耐えがたかった。


「……あなたには関係ない」


 やっとそれだけ言う。


 ノクタヴィウスはわずかに目を伏せた。

 納得でも、失望でもない。

 ただ、そこにある感情の輪郭をひとつ確認した者の静かな動きだった。


「そうかもしれません」


 その返答すら穏やかで、ルゥは余計に息苦しくなる。


 記録庫の空気が冷たい。

 紙の匂い。

 革表紙の乾いた感触。

 第三階梯の文字。

 献魔適性。

 全部が頭の奥に残ったままなのに、今はもうそれを追うどころではない。


 ここから離れなければ、と身体が思っている。


 ルゥは帳面を棚へ戻し、逃げるように一礼した。

 礼になっていたかどうかも分からない。

 ただ、足を動かすことだけで精一杯だった。


 記録庫を出て、廊下へ出る。

 白い壁。

 遠くで布を運ぶ音。

 誰かの話し声。

 施設は何も変わらず回っている。


 なのに、ルゥの足はしばらく、自分のものみたいに軽くはならなかった。

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