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君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第6章 献形

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第23話 普通になるために

 誰かが身体を失う前には、たいてい、ずっと前から失っていたものがある。


 第二階梯でルゥ=イリスが見たのは、そんな顔ばかりだった。


 朝の準備室は、昨日と同じ白さをしていた。

 白い壁。白い寝台。整えられた布。清水の匂い。

 けれど、そこへいる者たちの身体は、やはりきれいには収まっていない。


 ルゥは今日は薬草茶ではなく、寝具と補助具の点検を任されていた。表向きは、第二階梯の候補者へ少しずつ顔を覚えさせるため、という説明だった。実際には、ただの使い勝手のいい手として数えられ始めているだけだろう。それでも、近くにいられるのは都合がよかった。


 翼持ちの青年は、窓際の長椅子へ腰掛けていた。


 昨日より口数が少ない。

 けれど具合が悪いというより、疲れている顔だった。

 翼はきちんと畳んでいるのに、それでも椅子の背に羽軸が触れて、落ち着かない音が小さく続く。


 ルゥが補助布を手に近づくと、青年は苦く笑った。


「また悪いな」


「別に」


 ルゥは背もたれに当たる位置へ布を差し込む。ほんの少し角度を変えるだけで、翼の収まりは違った。青年は肩を動かし、少しだけ楽になったらしい息を吐く。


「昨日の続き?」


 ルゥが何気なく訊くと、青年は窓の外へ目をやった。


「続きっていうか、まあ、そうだな」


 窓の外には医療棟の裏庭が見える。白い壁の向こうに、街の喧騒はほとんど届かない。だからこそ、彼の声だけがやけに近く聞こえた。


「高い場所の仕事は取れるんだ。屋根の補修とか、見張りとか、荷揚げとか。翼があると便利だしな」


 そこで一度言葉を切る。


「でも、便利ってことは、それしか回ってこないってことでもある」


 ルゥは黙っていた。


「工房に入りたくても、低い天井じゃ無理だろって先に言われる。宿も高天井部屋は割高だし、安い部屋に入ると翼が潰れる。倉庫番や帳場ならできるって言っても、結局、危ない時に飛べるやつを別の仕事へ回した方がいいってなる」


 青年の声に恨みは薄い。

 諦めと、繰り返し説明してきた疲れの方が濃い。


「便利なんだよ、たしかに。役に立つ時もある。空を飛べるのが羨ましいって言われることもある」


 彼は自分の翼の先を見た。


「でも、羨ましがるやつは、宿代までは払ってくれない」


 その一言は、昨日よりもずっと深く刺さった。


 差異は豊かさになる。

 市場ではそう見えた。

 翼のための肩当て、角のための寝具金具、鱗のための薬膏。

 けれど、その豊かさはいつだって追加の金と条件を伴っていた。


 ルゥは補助布の端を整えながら、小さく訊く。


「それで、削るの」


 青年は少し笑った。

 笑いというより、自分でもその言葉の乱暴さが分かる者の息に近い。


「削るって言い方、好きじゃないな」


「じゃあ何」


「……普通になるためだよ」


 その答えは、静かだった。


 部屋の反対側では、角持ちの老女が頭布を巻き直していた。ルゥはそちらへ移る。老女は何も言わず、巻き布の端を差し出してきた。手伝え、ということらしい。ルゥが角の根元に沿うよう布を折り込むと、老女は少しだけ肩の力を抜いた。


「上手ねえ」


「慣れてない」


「慣れてないのに気づくのが、いちばん厄介なんだよ」


 老女はそう言って、小さく笑った。

 年寄り特有の軽口に聞こえる。

 だが、言葉の底は軽くない。


 しばらくして、老女の方から口を開いた。


「うちには孫がいるんだ」


 唐突だったが、ルゥは何も言わずに続きを待った。


「まだ小さい子でね。賢い子なんだよ。頭では分かってる。これは祖母の角で、危ないものじゃないって」


 老女は巻き布の上から、自分の角へ指を添える。


「でも、抱き寄せようとするたびに、この子は少しだけ身を引くんだよ」


 ルゥの手が止まった。


 老女の声は静かだった。

 泣きそうなわけでも、怒っているわけでもない。

 だから余計に重い。


「ほんの少しだけね。逃げるほどじゃない。泣くわけでもない。ただ、身体が先に覚えてるんだろうさ」


 白い準備室の空気が、そこでひどく冷えた気がした。


「わたしはあの子を責めたくない。怖いものは怖いんだろうからね」


 老女は言う。


「でも、怖がられたくないんだよ。もうこの年になると、それだけで十分なんだ」


 それだけ。

 その「だけ」の小ささが、あまりにもきつかった。


 大きな夢ではない。

 力が欲しいわけでも、特別になりたいわけでもない。

 ただ、孫に少し身を引かれない身体でいたい。

 それだけの願いが、献形の方へ人を押していく。


 ルゥは答えられなかった。


 準備室の奥では、ミナが白布の入った籠を抱えていた。


 献耳のあと、彼女は第二階梯の雑務にも少しずつ顔を出すようになっていた。まだ重いものは持たされていないが、布の運搬や水差しの補充程度なら任されるらしい。立ち姿は前より安定していて、動きにもためらいが少ない。


 それが、ルゥにはずっと嫌だった。


 ミナは籠を机へ置き、こちらに気づく。


「手、空いてる?」


「少しなら」


「これ、整理したいの」


 ルゥは頷き、籠の中の包帯束を整え始めた。

 ミナの手は、前より迷いが少ない。

 仕事に慣れた、と言えばそうだ。

 けれどそれだけではない気がする。


「……この部屋、前より怖くない」


 ミナがぽつりと言った。


 ルゥは包帯を持つ手を止める。


「そう」


「うん。前は、ここに来るだけで息が苦しかったのに」


 その声には安堵がある。

 つくられた安堵ではない。

 本当に、少し楽になっている。


 ルゥはそれを否定できない。


 ミナは包帯束を並べながら、何でもないことみたいに続けた。


「耳がなくなって、少しだけ、考えなくて済むようになったの」


「前みたいに、全部を怖がらなくてよくなった気がするの」


 ルゥの背中が硬くなる。


 ミナは気づかない。

 あるいは気づいても、今は止まれない。


「だったら、次もきっと、そうかもしれないでしょう?」


 声は静かだった。

 良いことを見つけた時のような、論理的な納得に近い声。


 ルゥは一瞬、言葉を失った。


 狂っているわけではない。

 混乱しているわけでもない。

 ちゃんと考えて、実感からそう言っている。


 だからこそ怖い。


「違う」


 気づけば、強く返していた。


 準備室の空気がそこで止まる。

 何人かがこちらを見る。

 ミナだけが少し目を瞬いた。


「何が」


「そういう話じゃない」


「でも、少し楽になったのは本当だよ」


 ミナの声は落ち着いている。

 落ち着いているから、ルゥの方がむしろ取り乱して見える。


「耳がなくなって、前より従える気がするの。怖さを、自分だけで抱えなくてよくなった気がするの」


「だからって次も削ればいいなんて――」


「なんで駄目なの」


 ミナは静かに言った。


 責めてはいない。

 純粋に、理屈が分からないという顔だ。


「楽になるなら、その方がいい時もあるでしょう」


 論理では勝てない、とルゥはそこで思った。


 ミナは実感で話している。

 外の世界の怖さ。

 耳がなくなって少し楽になった感覚。

 それをもとに、次もそうかもしれないと考えている。


 白い施設の言葉に染まってはいる。

 だが同時に、本人の体感でもある。


 そこへ「違う」とぶつけるだけでは、もう届かない。


「普通になりたいだけなんだよ」


 翼持ちの青年が、ぼそりと言った。


 誰に向けた言葉ともつかない。

 けれど準備室の全員に刺さる一言だった。


 普通。

 またその言葉だ。


「普通の部屋で寝たい。普通に仕事を選びたい。普通に人のそばへ寄りたい」


 角持ちの老女が続ける。


「大それたことじゃないんだよ」


 ルゥは息を呑んだ。


 大それたことではない。

 それがいちばん残酷だった。


 翼がなくても働ける部屋。

 角があっても身を引かれない孫。

 鱗があっても嫌がられない浴場。

 そういうものが、この世界の方にあれば、ここにいる誰も献形なんて考えなかったかもしれない。


 けれど、ない。

 ないから、白い施設の理屈が入り込む。


「あなたは残ってるから言える」


 ふいに、ミナが言った。


 その一言は、怒鳴り声よりずっと深くルゥへ入った。


 残ってるから言える。


 耳も、輪郭も、まだ残っている側の言葉。

 痛いのも怖いのも分かるつもりでいて、まだ決定的には失っていない側の正しさ。


 ルゥは何も返せなかった。


 返せる言葉がなかった。


 もしここで「それでも削るべきじゃない」と言うなら、その先の寝床や仕事や宿代や孫の視線にまで責任を持たなければならない。

 今のルゥには、それができない。


 沈黙が落ちる。


 白衣の女信徒が、遠くからこちらを見ていた。

 口は出さない。

 だが、このやり取りが候補者たちの心をどちらへ傾けるかを測っている目だ。


 ルゥは包帯束を置き、準備室を出た。


 追いかける声はない。

 止められもしない。

 それが逆に、自分の無力さをはっきりさせた。


 廊下は白い。

 静かだ。

 けれどルゥの耳には、街で見た宿屋の札やギルドの掲示板や市場の喧騒がよみがえっていた。


 高天井室は割高。

 普通室は、人間種中心仕様。

 仕事は差異ごとに振り分けられ、向いていることは自由を狭める。

 きらびかな街は美しい。

 だが、その美しさの中に馴染めない者もいる。


 白い施設の理屈は、その現実の上に立っている。


 ルゥは壁に背をつけ、ゆっくりと目を閉じた。


「残ってるから言える」


 その言葉だけが、何度も胸の内で鳴る。


 怒鳴り声より深く。

 祈りより残酷に。

 そして何より、反論できないまま。

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