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君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第6章 献形

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第25話 削られる翼

 儀式の日の朝、候補者たちは思っていたより静かだった。


 怖がっていないのではない。

 怖がるより先に、長く待ちすぎていたのだ。


 第二階梯の準備室は、いつもより早い時間から整えられていた。白い布は皺ひとつなく張られ、寝台の位置も少し変えられている。翼のために広く空けられた場所。角の高さを避ける配置。鱗を傷めにくい柔らかな敷布。そこへいる候補者たちは、まるで自分の身体がこの部屋の都合に合わせて最後の調整を受けているのを、もう半ば当然のこととして受け入れているようだった。


 ルゥ=イリスは朝から布と水差しを運ばされていた。


 手は動く。

 動くが、胸の奥はずっと固い。


 翼持ちの青年は窓際の長椅子ではなく、今日は最初から広い寝台の端に座っていた。背を伸ばしても、翼の先がようやく布の上へ収まる。昨日までなら何度も座り直していたのに、今日はほとんど動かない。ただ、指先だけが膝の上でゆっくり握られている。


 角持ちの老女は、いつもより丁寧に頭布を巻いていた。

 何度も巻き直し、最後に、孫へ会いに行く時のような慎重さで布の端を整える。


 誰も泣き叫ばない。

 部屋には緊張がある。

 諦めもある。

 そして希望も、確かにあった。


 それが何より怖かった。


「眠れた?」


 ルゥが、翼持ちの青年へ小さく訊くと、彼は少しだけ笑った。


「少しは」


「少し」


「寝なくても、朝は来るからな」


 冗談めかして言っている。

 だが、その冗談の奥には、昨夜ほとんど眠れなかった気配が残っていた。


 老女の方へ行くと、彼女は自分から口を開く。


「今日は、孫の顔を思い出すのをやめないようにしてるんだよ」


 ルゥは返事をしなかった。

 できなかった、の方が近い。


「終わったら、抱き寄せても少しは怖がられないかもしれない」


 その声音は、祈りに近かった。

 大げさな夢ではなく、たったそれだけの願いを支えに座っている。


 準備室の空気が少し動き、白衣の信徒たちが入ってくる。

 続いてエクラリアが現れた。


 白衣の銀糸だけが、朝の淡い光を拾っている。

 歩みは静かで、急かさない。

 この部屋にいる誰よりも穏やかに見えるのに、ルゥにはその穏やかさが一番怖かった。


 エクラリアは候補者たちを一人ずつ見た。

 見定めるようではない。

 むしろ、既に決まっているものへ静かに手を添えるような視線だった。


「おはようございます」


 その一言で、準備室の空気がさらに沈む。

 誰も返事を急がない。

 それでも、やがて小さな「おはようございます」がいくつか返る。


 儀式は、前室ではなく、その奥の処置室で行われた。


 第一階梯の地下室に似ている。

 だが今度はもっと医療的で、同時にもっと“戻らなさ”の匂いが強い。

 白布。

 銀盆。

 洗浄具。

 固定具。

 祈りのための低い声。


 最初に呼ばれたのは、翼持ちの青年だった。


 彼は自分で立ち上がり、寝台へ向かった。

 足取りは揺れていない。

 それが、かえって苦しい。


 白衣の補助者たちが、翼の根元と先を支える位置へ入る。

 暴れるのを押さえるためではない。

 痛みと出血を最小限にするための、慣れた手つきだ。


 エクラリアは青年のすぐ前へ立ち、静かに訊く。


「覚えていますか。あなたがここへ来た理由を」


 青年は目を閉じたまま頷く。


「……はい」


「では、それを、今日も自分で選んでください」


 その言葉に、ルゥは背筋が冷えた。


 自分で選ぶ。

 ここまで運ばれた者へ、その最後の確認だけを与える。

 拒否の余地がないからこそ、その確認は余計に儀式らしく見える。


「お願いします」


 青年がそう言った。


 お願いします。

 切ってくれ、ではない。

 普通になれる方へ近づけてくれ、という意味の願いだ。


 処置が始まる。


 翼は耳や角よりずっと大きい。

 だから一瞬では終わらない。

 固定。祈り。切開。止血。補助術式。

 白い部屋の中で、工程だけが滞りなく進む。


 痛みはある。

 青年は歯を食いしばり、喉の奥から押し潰したような声を漏らした。

 血の匂いもする。

 羽が布へ散る音がした。


 けれど、その痛みの上へすぐに祈りがかぶさる。


 Cael よ、壁をほどきたまえ。

 Cael よ、重さを遠ざけたまえ。


 白衣の信徒たちの低い声が、痛みそのものを神聖化していく。

 治療の顔をした儀式。

 儀式の顔をした矯正。


 ルゥは目を逸らさなかった。

 逸らせば何かが軽くなる気がして、逆に怖かった。


 翼が、削がれる。


 完全に失われるわけではない。

 だが、以前の身体には戻れない形に変わっていく。

 寝台の白布の上に落ちた羽根は、さっきまで一人分の輪郭だったものの残りだった。


 次に角持ちの老女が呼ばれた。


 老女は寝台へ横になる前に、一度だけ目を閉じた。

 その唇が小さく動く。

 孫の名でも呼んだのだろうか。

 それとも、怖がられたくないという願いを最後にもう一度確かめたのか。


 角は、根元に近づくほど痛みも大きい。

 ルゥにはそう分かった。

 老女の手が白布を強く握る。

 骨へ響くような鈍い音。

 押し殺しきれない短い悲鳴。


 それでも処置は整っている。

 止血は早く、補助者たちは慌てず、エクラリアの声は最後まで乱れない。


「大丈夫」


 その言葉が落ちるたび、ルゥの胸のどこかが軋んだ。


 全部が終わった頃、処置室の空気には独特の静けさが満ちていた。

 痛みのあとに訪れる、ただの疲労だけではない。

 戻れなさと安堵が、同時に混じった静けさだった。


 翼持ちの青年は、泣いていた。


 汗と涙で顔を濡らしながら、それでも最初に漏れた言葉は悲鳴ではなかった。


「……軽い」


 その一言に、ルゥはぞっとした。


 青年自身も信じられないような顔で、もう一度呟く。


「軽い……」


 痛みで顔は歪んでいる。

 呼吸も荒い。

 それでも、その言葉には本物の安堵が混じっていた。


 老女は処置のあと、しばらく目を閉じていた。

 それから、布越しに自分の頭へそっと触れる。


「これで……」


 かすれた声が漏れる。


「これで、怖がられないかもしれない」


 孫の顔を思い浮かべているのだと、見なくても分かった。


 白い部屋の中で、その願いはあまりに小さく、そして重かった。


 処置が完全悪で片づかないのは、こういう瞬間だ。


 痛みはある。

 血もある。

 戻れなさもある。

 それでも、その先に少しだけ生きやすさが混じる。


 混じってしまう。


 ルゥは手のひらへ爪を食い込ませた。


 間違っている。

 それでも、その間違いがどこから生まれるのかだけは、嫌というほど分かってしまった。


 市場の宿屋。

 高い天井の部屋は割高だった。

 ギルドの掲示板では、翼は高所作業向き、角持ちは護衛向き、差異は最初から役割へ固定されていた。

 外の世界は美しく雑多だ。

 けれど、その美しさの中で生き延びられない身体もある。


 その現実を見すぎたからこそ、教団の理屈が全部空論には思えない。


 それが、ルゥには一番怖かった。


 この施設に長くいれば。

 候補者たちの切実さを何度も見れば。

 白い儀式のあとに混じる安堵を、何度も聞けば。

 いつか自分も、削れば楽になる、と理解してしまうかもしれない。


 獣人の耳があるから、余計なものまで聞こえる。

 差異を守りたいと思っていたはずなのに、その差異が生きづらさを生んでいる現実も知っている。

 だから侵食は、ただの洗脳よりずっと深く入ってくる。


 理解してしまうことが、一番怖かった。


 処置室の白い空気の中で、ルゥはそれをはっきり自覚した。


 ここで止まってはいけない。


 第二階梯の論理を見ているだけでは駄目だ。

 このまま候補者たちの切実さと、処置後の苦い救済だけを見続けていたら、いつか自分の方から「仕方がない」と思ってしまう。


 その前に、もっと深いところを見なければならない。


 第三階梯。

 献魔。

 そこまで潜らなければ、この白い論理に負ける。


 ルゥは白布の端を握りしめた。


 人の身体を削ることで救いが成立するなら、その救いはどこまで深く潜っているのか。

 そこを見ずにいたら、いつかルゥは、自分の方から理解してしまう気がした。

第6章 終

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