第20話 戻れない救い
戻る途中、ルゥ=イリスは市場外れの荷札台で、見覚えのある横顔を見つけた。
最初は、見間違いだと思った。
荷札台のまわりは人が多い。運搬ギルドの使い走り、倉庫番、荷を抱えた日雇い、宿屋の下働き。木箱の角がぶつかる音、札を打つ小槌の音、荷車の車輪が石を噛む音が絶えず重なっている。そこへ川の湿り気と古い木材の匂いが混ざり、さらに少し離れた酒場から昼酒の笑い声まで流れてきていた。
その騒がしさの中で、ひとりだけ妙に静かな動きをしている男がいた。
耳の片方がない。
頭の横に残る治療痕はもう薄く、白い線になりかけている。
手際よく荷札を仕分け、呼ばれれば短く返事をし、木箱の運搬先を迷わず指示している。
ルゥは足を止めた。
見覚えがある。
聖光団の支援所で見た顔だ。
前はもっと怯えたような目をしていた。暴走の気配を抱えている者特有の、周囲へ注意を向けすぎる緊張があった。今は違う。感情が消えているわけではない。ただ、凹凸が薄い。落ち着いている。扱いやすいほどに。
献耳を終えた信徒だった。
ルゥは人の流れの陰に身を寄せたまま、その男を見ていた。
男は荷札台の前で、宿屋の使いらしい少年から札束を受け取る。少年は以前から知っている相手へ話しかけるみたいな気軽さで言った。
「助かるよ。前の人、荷を間違えてばっかでさ」
男は少しだけ笑った。
「今日は間違えない」
その声音は穏やかで、乾いていた。
以前のような過剰な怯えも、苛立ちも、周囲の視線へ敏感すぎる揺れもない。
すぐ横で、倉庫番らしい女が木箱へ印をつけながら口を挟む。
「ほんと、あんた来てから楽だよ。急に怒鳴らないし、荷も落とさないし」
「前は、そんなだったのか」
別の男が笑う。
「ちょっとな。でも今はもう平気だろ」
冗談めいた軽いやり取りだった。
悪意は薄い。
その薄さが、かえってルゥには苦かった。
働けるようになったのだ、と分かるからだ。
以前は雇う側が警戒していた。
今は安心して仕事を任せている。
それは確かに、社会へ戻れているということだった。
市場の声が流れていく。
宿屋の呼び込み。
荷運びの怒鳴り声。
橋の向こうの楽師。
簡易魔導灯を売る店の鈴。
きらびかなで色とりどりな生活の中で、その男はちゃんと居場所を得ていた。
ルゥは喉の奥が冷えるのを感じた。
奪われたのに、生きやすくなっている。
その事実を、どう受け取ればいいのか分からなかった。
白い施設の地下で切り落とされた耳。
礼を言う声。
削られた静けさ。
その全部を見た。見た上で、今ここにあるのは、以前より安定して雇われている現実だった。
男は倉庫の主へ声をかけられ、すぐに荷札を抱えて走り出す。走るといっても慌ててはいない。必要な速度で、必要な分だけ動く。もう周囲の音へ振り回されていない。耳をそばだてすぎて足を止めることも、視線に怯えて肩をこわばらせることもない。
以前より、ずっと働きやすそうだった。
ルゥは拳を握った。
何を責めればいい。
奪ったことか。
その結果、少し楽に生きられるようになったことか。
それを受け入れてしまう世界の方か。
どれも正しい気がした。
どれも、まだ足りない気もした。
市場の雑踏が、そこで急に耳へ戻ってくる。
近くの酒場では、昼から客が歌っている。宿屋の前では、翼持ち向けの高天井室の値段に旅人が文句を言っていた。向かいの露店では、角持ち用の頭部保護布を売る店主が「今なら二枚で安くする」と叫んでいる。少し先では、水棲種向けの保湿布が風に揺れていた。火蜥蜴の干物、魔力草の束、携帯炉、呪符、鱗用の薬膏。街は相変わらず美しく雑多で、その美しさと雑多さのどちらも、誰かには向いていて、誰かには向いていない。
この世界は生きている。
だが、その生きた雑多さへ適応できない者もいる。
だから教団が生まれる。
ルゥはゆっくりと息を吐いた。
きらびかで、汚くて、豊かで、不公平な世界。
白い施設だけを壊せば済む話ではない。
そのことを、この荷札台の前で突きつけられている気がした。
男は仕事の合間に、水差しから一口だけ飲んだ。
その横顔は穏やかだった。
穏やかすぎるほどに。
ルゥはそれ以上見ていられず、踵を返した。
帰り道、街の音はずっと耳に残った。
酒場の笑い。
宿屋の呼び込み。
市場の値切り声。
魔導灯の鈴。
荷車の軋み。
生きた世界の音だ。
その音に、以前より傷つかなくなった者がいる。
傷つくための輪郭を少し失った代わりに。
それを否定しきれないことが、ルゥをひどく疲れさせた。
聖光団の施設へ戻ると、門前の白さがいつもより冷たく見えた。
中へ入れば、匂いは薄まり、音は抑えられる。
街の雑多さは、ここではすぐに遠のく。
食堂の前を通ると、ミナがいた。
昨日より顔色はいい。
耳の処置跡には清潔な白布が巻かれている。
立ち姿は穏やかで、以前のような過剰な怯えが少ない。
それを見た瞬間、荷札台の男の横顔と重なって、ルゥは一瞬だけ立ち尽くした。
「おかえり」
ミナが言う。
声はやさしい。
そして、やはり少し穏やかすぎる。
「……ただいま」
返しながら、ルゥは自分の声の方がよほど荒れているのを感じた。
ミナはルゥの顔を見て、小さく首を傾げた。
「外は怖かった?」
その一言が、思った以上に深く刺さった。
やさしさだった。
ルゥを気遣う声だ。
なのに、そのやさしさの形が、もう少しだけ以前と違う。
外は怖かった?
それはたぶん、ミナ自身が世界へ向けていた問いでもある。
外の雑多さと人の目に、彼女は長く傷ついてきた。
だから今、ルゥへそう訊く。
優しさなのに、ルゥには答えに詰まるほど苦かった。
「……怖くないわけじゃない」
ようやくそう言う。
「でも、白くはなかった」
ミナは少しだけ目を細めた。
意味を全部は追わない。
追わないまま、ただ静かに頷く。
「そうなんだ」
その反応にも、前ならあったはずのもっと細かな揺れが少なかった。
少し楽になっている。
荷札台の男も、ミナも。
その現実を否定しきれないことが、いちばん苦い。
ルゥは食堂の壁際に寄り、深く息を吐いた。
飲み込めないものが多すぎる。
だが、飲み込んでいる暇もないらしかった。
足元に、小さく折られた紙片が落ちていた。
偶然のように見える位置。
だが、紙の折り方があまりに意図的だ。
ルゥは周囲を見た。
誰もこちらを見ていない。
ミナはもう食堂の奥へ歩いている。
紙片を拾い、手の中でそっと開く。
短い文字が一行だけあった。
第三階梯を調べろ
苦さを飲み込む暇もなく、次の扉の名だけが先に来た。
まだ見ぬ、それは救いだろうか、闇だろうか。




