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君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第5章 外の世界

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第19話 国家の側の人間

 呼び止められたのは、荷運びたちの怒鳴り声と、昼酒の笑い声がまだ階下に残るころだった。


 奉仕を終えた帰り道、ルゥ=イリスは聖光団の一行から少しだけ距離を取っていた。白い外套の背が前方に見える。列を乱さない程度に歩いてはいるが、意識だけはずっと別の場所にあった。下層区の集会所に集まった病人、疲れきった労働者、暴走経験者、子どもを抱えた女たち。聖光団がいなければ今日を越せない人間たち。そして、そのすぐ外側にある市場のきらびかさと、その底の濁り。


 頭の中で整理しきれないものが多すぎた。


「獣耳」


 低い声が、横合いから落ちた。


 ルゥは反射で振り向いた。

 教団の白とはまるで縁のない色をした男が立っていた。


 煤けたような暗い外套。街の埃に馴染む革靴。髪は無造作に見えて、実際には邪魔にならない長さに揃えられている。年は三十前後だろうか。整った顔立ちというより、削るところは削りきった実務者の顔だ。目だけが妙に醒めている。


 あの視線だ、とルゥはすぐに思った。

 下層区の支援所の向かい、壊れかけた倉庫の影にいた男。


 白い共同体の視線とは違う。

 内側へ入ってくるのではなく、距離を測って、値踏みし、使えるかどうかを見る目。


「……誰」


 ルゥが返すと、男は肩をすくめた。


「そう急ぐな。お前も、今ここで白い連中に聞かせたい話はしてないだろ」


 その言い方に、ルゥは黙った。


 前を行く信徒たちはまだ気づいていない。

 だがここで立ち止まりすぎれば、不自然になる。


 男はわずかに顎をしゃくった。


「二階」


 視線の先には、ギルド近くの安酒場があった。

 一階は開け放たれ、昼酒の客でまだ騒がしい。木札の看板は半ば剥げ、窓辺には泡立った酒の入ったジョッキがいくつも見える。扉の横には雑務斡旋の貼り紙まで貼ってあった。宿屋を兼ねているのか、脇の階段が上へ伸びている。


「来るかどうかはお前が決めろ」


 男はそう言い残し、先に酒場の脇の階段を上がっていった。


 ルゥは一瞬だけ前方の白い外套を見る。

 このまま列へ戻ることもできる。

 だが、あの男がこのまま通り過ぎるだけでは終わらないことを、街の音の中で感じ取っていた。


 ルゥは階段を上った。


 酒場の二階は、一階の喧騒を板一枚ぶん薄めたような空間だった。


 木の床は古く、歩くとわずかに鳴る。壁際に粗末な卓がいくつか並び、窓は半分だけ開いている。外から市場の残り香が流れ込み、下からは笑い声、椅子を引きずる音、荷運びたちの怒鳴り声が絶えず響いていた。酒と木と汗の匂い。白い施設とは真逆の空気だ。


 男は窓際の卓に座っていた。

 向かいの椅子を指で叩く。


「座れ」


 命令口調だった。

 だが、従わせるための圧ではなく、時間を無駄にしないための口調だった。


 ルゥは腰を下ろす。

 椅子は固い。

 卓の表面には古い酒染みがいくつも残っている。


 男はまず、名乗らなかった。

 代わりに窓の外を一度だけ見てから、ルゥへ視線を戻す。


「聖光団に入って、そう長くないな」


「何でそう思うの」


「歩き方がまだ白くない」


 その答えに、ルゥは少しだけ眉をひそめた。


 ノクタヴィウスのような怖さではない。

 見透かされる恐怖ではなく、観察され、すでにいくつかの結論を持たれている感じがある。擦れている。現実で何度も人を見てきた目だ。


「お前、内側を嫌ってる」


 男は続ける。


「でも、外に全面的な希望も持ってない。ちょうどいい」


「何が」


「話が早い」


 そう言って、ようやく自分の名を出した。


「エルヴィンだ」


 ルゥは無言のまま、その名を受け取る。


「お前は」


「ルゥ」


 ルゥは短く答えた。


「で、エルヴィン」


 ルゥはあえて相手の名をそのまま返す。


「何の用」


 エルヴィンは肘を卓へ置き、指を組んだ。


「聖光団の中を見た人間に用がある」


 下の階で大きな笑い声が上がる。

 その直後に誰かが皿を落とし、店主の怒鳴り声が飛んだ。

 この二階だけが密談めいていて、それがかえって現実味を増している。


「お前、あそこがただの慈善じゃないって顔してた」


「顔で分かるの」


「分かるやつには分かる」


 エルヴィンは言った。


「白い方は内側を見抜く。俺は外側を見てる。それだけの違いだ」


 ルゥはその言い方を嫌だと思った。

 だが否定もしなかった。


「国家の人間?」


「半分当たり」


 エルヴィンは窓の外へ視線をやる。

 下ではギルド掲示板の前にまだ人が集まっていた。新しい依頼札が貼られたらしい。翼持ちの若者が手を伸ばし、別の男が横から覗き込み、酒場の軒下では仕事にあぶれた者たちがだらだらと座り込んでいる。


「監察寄りの実務だ。帳簿を見る、失踪を洗う、苦情を拾う、誰も責任を取りたがらない案件を回される。そういう側」


「聖光団を調べてる」


「危険視はしてる」


 エルヴィンはあっさり認めた。


「でも単純に潰せない」


「必要だから」


「そうだ」


 そこで初めて、エルヴィンの口元に皮肉のようなものが浮いた。


「国は遅い。ギルドは救わない。あいつらは、救う」


 その言葉は、この酒場の二階で聞くにはひどく正確だった。


 国家には制度がある。

 だが届くのが遅い。書類が要る。順番がある。予算がいる。

 ギルドは仕事をくれる。

 だが、働けない人間は救わない。

 宿屋は寝床をくれる。

 だが、金が尽きたら終わりだ。


 聖光団だけが、今日を越せない人間をそのまま拾う。


「だから厄介なんだよ」


 エルヴィンが続ける。


「後から理屈で叩こうとしても、先に食わせて、寝かせて、名前を呼んでる方が強い」


 ルゥは卓の木目を見つめた。

 まさにその通りだった。

 正しさだけでは勝てない。

 それを痛いほど思い知らされたばかりだ。


「でも削る」


 ルゥが言う。


 エルヴィンは少しだけ目を細めた。


「見たのか」


 ルゥは答えない。

 答えないかわりに、視線だけを上げる。


 それで十分だったらしい。

 エルヴィンは小さく息を吐いた。


「見たなら話は早い」


 下の階で、また怒鳴り声が上がる。

 今度は誰かが賭けに負けたらしい。笑いと悪態が重なり、店主が「外でやれ」と叫ぶ。その生活音が、話の内容を妙に地に足のついたものにしていた。


「国家は証拠が要る」


 エルヴィンが言う。


「ギルドは関わりたがらない。顧客と揉めるのが嫌だからな。教団はそのあいだで受け皿になる。結果、誰も正面から触れない」


「失踪者も?」


 ルゥの問いに、エルヴィンの指先がわずかに止まる。


「触れたな」


「何が」


「そこが一番臭い」


 エルヴィンは声を落とした。


「失踪届と、教団への流入記録と、下層区の支援名簿。きれいに噛み合わない時がある」


 ルゥの背中が冷える。

 医療助手の不在がよぎった。


「でも、完全には追えない」


「何で」


「追う途中で、“いなかったこと”になるからだ」


 その言い方は淡々としていた。

 慣れている。

 何度も同じ壁にぶつかってきた声だ。


 ルゥは拳を握る。


「それでも放っておくの」


「放っておいてるように見えるか」


 エルヴィンの声が初めて少しだけ硬くなった。


 ルゥは睨み返す。

 その視線をエルヴィンは避けなかった。


「だったら何で」


「簡単に切れないからだ」


 その一言には、愚痴とも諦めとも違う、もっと古い疲れがあった。


「うちの妹も、あそこに助けられた」


 ルゥは言葉を失った。


 エルヴィンは窓の外を見たまま続ける。

 市場の喧騒を眺める目のまま、別の記憶を喋っている。


「最初は良かった。眠れるようになった。暴れなくなった。怒鳴らなくなった。家の中で物を壊すことも減った」


 下の階の笑い声が、一瞬だけ遠のいた気がした。


「生き延びたんだよ。あいつらに」


 それは、ルゥが最も聞きたくない種類の言葉だった。

 だが、エルヴィンの口から出ると、ただの教団擁護には聞こえない。


「でも、前の妹じゃなくなった」


 そこで初めて、彼はルゥを見た。


「分かるだろ」


 ルゥは即座に答えた。


「助けたんじゃない。削ったんだ」


 エルヴィンは少しだけ笑った。

 喜んでいるわけではない。

 むしろ、やっと同じ地点まで来た相手を見る笑いに近い。


「そうだ」


 肯定が来たことに、ルゥは逆に戸惑う。


「でもな」


 エルヴィンは言う。


「削られてでも、生き延びる方を選ぶ人間がいる」


 その一言で、ルゥの胸の奥にミナの声がよみがえる。


 ここじゃないなら、どこへ行けばいいの。

 怖い。

 でも、少しは楽になりたい。


 反論したいのに、喉がうまく動かない。


「お前は感情の側から見てる」


 エルヴィンの声は低い。


「それでいい。必要だ」


「じゃあ、あんたは何」


「制度の側だ」


 即答だった。


「制度は遅い。遅いくせに、遅いなりの理屈しか持ってない。だから、教団みたいな連中が“今すぐの救い”を全部さらう」


 ルゥは視線を逸らさなかった。


「でも、あんたも割り切れてない」


「当たり前だ」


 エルヴィンは言った。


「妹が生きてることを、手放したくないからな」


 その声の奥にあるものは、ノクタヴィウスの静けさとも、エクラリアのやさしさとも違った。もっと泥臭い。怒りと現実が長く混ざった末の、冷えた執着だ。


 二人のあいだに沈黙が落ちる。

 下ではまた誰かが笑い、通りでは荷車が石を鳴らし、窓の外ではギルド掲示板の前で仕事を巡る言い争いが続いている。世界は止まらない。止まらないまま、白い施設も存在している。


「で」


 ルゥが先に口を開いた。


「私に何させるつもり」


 エルヴィンはようやく本題へ入る顔をした。


「深部を探れ」


 その言葉は低かったが、階下の喧騒よりも現実的に響いた。


「失踪者、深部、それから――あいつらが隠してる次の段階だ」


その言葉に、ルゥの眉がわずかに動く。


「次の段階?」


「お前が見たのは、入口だ」


 エルヴィンは言った。


「耳を差し出すやつ。あれで終わりじゃない」


 ルゥは黙って相手を見る。


「……他にもあるの」


「ある」


 短い返答だった。


「耳を差し出すのはいわば象徴だ。儀式に過ぎん。俺が知りたいのはその先、身体の形そのものに触るやつ。もっと奥まで人を作り変えるやつ。呼び方はいくつかあるらしいが、連中は段階で分けてる」


 ルゥの喉がひやりとする。


「俺は外から追う。お前は中から見る」


「何で私がやる前提なの」


「もうやってる顔してる」


 その返しに、ルゥは舌打ちしかけてやめた。


 たしかに、その通りだった。

 ミナを逃がせなかった時点で、ただの見学者ではいられない。

 施設の白を壊したい。

 そう思っている。


「信用してない」


 ルゥが言う。


「俺もだ」


 エルヴィンは即座に返した。


「だからちょうどいい。信頼じゃなく、利害で組む」


 そのきっぱりした言い方に、ルゥは少しだけ息を吐いた。

 やさしい共同体の言葉より、こういう乾いた現実の言い方の方が、今はまだ信じやすい。


 窓の外で風が吹き、ギルド掲示板の札がぱたぱたと鳴った。


 国家は遅い。

 ギルドは救わない。

 教団は救うが削る。


 その三すくみの中で、誰もきれいに正しい場所へは立てない。

 それでも、どこかから手を入れるしかない。


「それを、あんたはどこまで知ってるの」


「断片だけだ」


 エルヴィンは窓の外を見たまま答える。


「だが、名前だけ出てくるものがある」


 そこで初めて、彼はルゥへ視線を戻した。


「第三階梯だ」


 その言葉だけが、酒場の二階の空気にひどく不釣り合いな冷たさを残した。


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