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君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第5章 外の世界

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第18話 奉仕の外出

 聖光団の外套を羽織って街へ出た瞬間、ルゥ=イリスはまず、匂いの多さにくらくらした。


 香辛料。

 獣脂。

 濡れた木材。

 酒。

 鉄。

 焼いた魚。

 それから、いくつもの種族が持ち込む体温のちがい。


 白い施設の中にも人の匂いはあった。薬草、清水、洗い立ての布、温かい粥、汗をかいた子どもの髪。けれどそれらはどれも、白い壁と静けさの中へきれいに薄められていた。外は違う。ひとつひとつの匂いが薄まらず、そのまま押し寄せてくる。獣人の耳だけでなく、鼻の奥まで一気に街へ引き戻されるようだった。


 ルゥはわずかに目を細めた。


 曇り空の下でも、街は明るい。布天蓋の赤、青、黄。店先に吊るされたガラス灯の緑。磨かれた金具の鈍い銀。屋台の鍋から立つ白い湯気。白しかない施設の中から出てきた直後には、それだけで目が痛いほどだった。


 今日は奉仕の外出だ。


 新しく入った者を数人、下層区の炊き出しと聞き取り補助へ回す――そういう説明だった。白衣の信徒に付き添われ、灰色の奉仕外套を羽織らされ、列を乱さず歩くよう言われる。ごく普通の奉仕の一日。少なくとも表向きは。


 ルゥは列の最後尾にいた。

 前には白衣の信徒が二人、同じく奉仕へ出る保護対象が三人。

 その中にミナはいない。献耳のあと、まだ別棟で休まされているのだろう。


 その不在が胸の奥に重くあった。

 けれど今は、その重ささえ街の匂いと音に押し流されそうになる。


 石畳は乾ききっておらず、昨夜の湿気を少し残していた。荷車が通るたび、鉄の輪が小さく跳ねる。上を見れば、建物同士を繋ぐ渡り橋が何本も走っている。翼持ち向けに高く作られた通路だ。そこを軽い荷を抱えた若者たちが行き来し、風鈴めいた飾りを鳴らしていた。


 下では、角持ちの鍛冶師が店を開いている。頭上へ十分な高さを取った軒の下で、火床の赤が昼間でも濃い。金具を打つたび、細い火花が散った。その隣では水棲種向けの桶店が、湿布桶や保水布を通りへ並べている。さらに先には、獣人向けの耳飾りと耳覆いを売る露店まであった。


 この街は、差異を前提にできている。

 だから一見すると、優しい。


 けれどルゥは知っている。

 前提にされていることと、生きやすいことは違う。


 市場へ入ると、匂いはさらに濃くなった。


 火蜥蜴の干物が縄に吊られ、その下で店主が油を塗って艶を出している。隣には魔力草の束が山のように積まれていた。乾く前の青臭さと、粉末にした時の甘い苦みが混ざっている。翼持ち向けの肩当てを並べた革屋。水棲種向けの保湿布と鱗用の油を扱う薬舗。角持ち用の頭部保護布や寝具金具を売る金物屋。細身種向けに柄の細い工具を作る工房。呪符、簡易魔導灯、携帯炉をまとめた雑貨屋。


 説明を受けずとも、商品がそのままこの世界を語っていた。


 種族差は、ここでは不便そのものだ。

 だからこそ商いになる。

 困りごとが商品へ変わる。

 壁があるから、工夫が生まれる。


 ルゥは歩きながら、それぞれの店先へ視線を滑らせた。

 足を止めはしない。

 だが、どの店も一度見れば忘れがたい。


 耳覆いを手に取った若い獣人の女が、店主に「この形だと寝づらくない?」と訊いている。店主は「眠る時は外しな」と笑う。笑い声の奥には売りたい気持ちがあるが、意地の悪さは薄い。鱗持ちの男が薬膏の値段に顔をしかめる。水棲種の母親は保湿布を二枚買うか一枚で我慢するか迷っていた。


 生活だ、とルゥは思う。

 ここにはちゃんと生活がある。

 面倒で、金が要って、選ばなければいけない生活が。


 市場の喧騒を抜けた先で、今度はギルドの掲示板が見えた。


 冒険者のためというより、雑務と運搬の斡旋所に近い造りだ。広い軒下の壁へ板札が並び、依頼票が重ねられている。人だかりができていた。翼持ちの若者が高所補修の依頼札を眺め、角持ちの男が護衛仕事の札を剥がそうとしている。水棲種の女は水路清掃の札の前で足を止め、火属性持ちらしい少年は鍛冶補助の札をじっと見ていた。


 ルゥは列の外から、板札の文字を追った。


 高所作業補助――翼持ち歓迎。

 水路浚渫――水棲種優先。

 鍛冶場火床管理――火属性持ち、耐熱補助あり。

 交渉補助――共感魔法持ち、長時間不可。

 夜警護衛――大型種、角持ち歓迎。

 雑役清掃――種族不問。


 能力が仕事に結びつく。

 それ自体は自然だ。

 だが、自然であることが、そのまま役割の固定になる。


 角持ちは護衛向き。

 翼持ちは高所向き。

 水棲種は水路向き。

 共感魔法持ちは交渉向きだが、消耗が激しいから長くは使えない。


 便利な分類だ。

 そして、人をその分類に押し込めるには十分な分類でもある。


 掲示板の前で、小柄な角持ちの娘が一枚の依頼札を手に取ろうとして、隣の男に「危ない仕事は無理だろ」と先に言われているのが聞こえた。娘は反論しかけて、やめた。笑って受け流す声の奥に、悔しさが小さく残る。


 ルゥは視線を逸らした。


 白い施設は差異を薄めると言う。

 街は差異を役割へ変える。

 どちらも、人をそのまま放ってはおかない。


 ギルド前を過ぎると、通りの空気はまた変わった。


 開け放たれた昼酒場の窓から、笑い声と怒鳴り声が一緒に飛び出してくる。賭け事で揉めているらしい男たちの声、店主が皿を置く乱暴な音、それでも客引きの娘だけは明るく歌うように旅人を呼んでいる。通りの反対側には宿屋があり、軒先へ案内札がいくつも吊られていた。


 高天井室――翼持ち向け、追加料金。

 浴槽付き――水棲種向け、割増あり。

 火属性持ち――発火保証金必要。

 大型角持ち可――頭部保護金具付き寝台、数室のみ。


 その下に、何の注記もない「普通室」が並んでいる。


 普通。


 ルゥはその札を見た時、妙に胃の底が冷えた。

 普通室とは、たぶん人間種中心の寸法だ。

 角をぶつけず、翼を畳まず、濡れた肌を保たずに済む者の普通。


 この街には工夫がある。

 だが、その工夫は追加料金になる。

 差異に合わせることは、親切ではあっても標準ではない。


 だから、白い施設は「同じになる救済」を語れる。

 街の普通が、すでに誰かの普通ではないからだ。


 列を率いる女信徒が振り返る。


「急がず、でも遅れないように」


 穏やかな声。

 秩序を乱さずに進ませる声。


 ルゥはその声を聞きながら、宿屋の軒先を離れた。

 酒場と宿屋。

 外の共同体。

 眠る場所、食べる場所、働く場所。

 聖光団の外にも、ちゃんと生きる仕組みはある。


 ただし、それは不完全だ。


 しばらく歩いた先で、通りは下層区へ繋がる。石畳は少し荒れ、建物は低くなり、洗濯物の色褪せが目立ち始める。けれど人は多い。子どもが裸足で走り、痩せた労働者が壁にもたれ、病人らしい女が戸口で咳をしている。どこかの屋根裏から、暴走経験者によくある魔力の不安定な軋みが一瞬だけ聞こえた。


 ここが奉仕先だった。


 聖光団の支援所は、広場脇の古い集会所を借りて作られているらしい。白い旗と簡素な長机。炊き出し用の鍋。応急処置の卓。休息所への案内札。子ども用の敷布。相談の聞き取り席。昨日まで見ていた施設の縮小版みたいな光景が、下層区の埃っぽい空気の中へそのまま出張してきたようだった。


 信徒たちはすぐに動き出す。


 鍋に火を入れる者。

 列を整える者。

 怪我人を座らせる者。

 咳の強い子どもを日陰へ移す者。

 行き場のない女へ休息所の札を見せる者。

 暴走経験のある若者の手首を見て、医療棟への搬送相談をする者。


 有能だった。

 嫌になるほど。


 国家が来ない場所。

 ギルドが面倒を見ない場所。

 宿屋に入れない者たち。

 今日を越せるかどうか分からない者たち。


 そういう人間が、ここへ集まってくる。


 悲惨さを飾る空気ではない。

 むしろ、日常に困窮が混ざりすぎて、誰もいちいち大げさに騒がない。

 だからこそ、白い机と白い布が際立って見える。


 ルゥも信徒に言われるまま、炊き出し用の木椀を並べた。子どもを座らせ、水桶を運び、咳き込む老人へ布を渡す。手は動く。動くが、胸の奥には別の感情が沈み続けていた。


 必要とされている。


 それが、吐き気の種だった。


 白い共同体はただの支配ではない。

 ここへ来なければ今日を越せない人間が、ちゃんといる。

 だから聖光団は必要悪ですらなく、必要そのものに見えてしまう。


 列の中に、角を布で巻いた少女がいた。

 工房を追い出されたのか、手にはまだ煤が残っている。

 その隣には、魔力暴走の跡で腕に焼け跡を持つ少年。

 少し後ろには、共感魔法の使いすぎで目の下を深く窪ませた男。

 どの顔も、施設の方へ来る時だけ少し緩む。


 ルゥはそれを見て、奥歯を噛んだ。


 信徒のひとりが列へ呼びかける。


「順番に。押さなくて大丈夫です。全員分あります」


 その声はきちんとしていて、訓練されていて、たぶん本心でもあった。


 全員分あります。

 その一言が、ここではどれほど強いかを、ルゥは知っている。


 この世界は、全員分を用意してくれないことの方が多い。


 だから人は、白へ寄る。


 炊き出しの列が落ち着いた頃、ルゥはふと、視線を感じた。


 聖光団の白い視線ではない。

 もっと乾いていて、もっと計算が先にある視線。

 荷揚げ場やギルド前や酒場の窓際に似合う、現実の側の目だ。


 集会所の向かい、半ば壊れかけた倉庫の影に、ひとりの男が立っていた。


 外套はくたびれている。

 白ではない。

 街の埃と馴染む色をしている。

 こちらを見ているのに、あからさまではない。


 教団の白い人間たちが持つ「内側へ入ってくる」視線とは違う。

 もっと現実的で、もっと打算的で、だからこそ街の匂いへよく馴染んでいた。


 ルゥはその男から、目を逸らさなかった。


 男もまた、逸らさなかった。


 白い共同体の外側にいる、別の共同体の人間。

 国家か、ギルドか、あるいはそのあいだを嗅ぎ回る現実の側の人間。


 まだ名は知らない。

 けれど、あの男がこのまま通り過ぎるだけでは終わらないことを、ルゥは街の音の中で感じ取っていた。


 外の世界は、静かではなかった。

 だからまだ、生きていた。

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