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君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第5章 外の世界

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第21話 さらに深くへ

 第三階梯。


 名を得たものは、それだけで少し近くなる。

 近くなるぶんだけ、具体的に怖くもなった。


 聖光団の施設へ戻ったその夜、ルゥ=イリスは毛布の中で何度もその言葉を反芻していた。第三階梯。まだ正体はない。形もない。ただ名前だけがある。けれど名前があるものは、ただの漠然とした不安よりずっと厄介だ。扉に札が掛かっただけで、その向こうに本当に部屋があるのだと知ってしまうのと同じだった。


 エルヴィンの字は乱れていなかった。

 短く、急いだ形跡もない。

 第三階梯を調べろ。

 ただそれだけ。


 思い出そうとすれば、酒場の二階で交わした言葉も一緒によみがえる。


 深部。

 失踪者。

 耳を差し出すやつは入口に過ぎない。

 その先にも、段階がある。


 そして最後に落とされた、第三階梯という名。


 ルゥは目を閉じた。


 第三階梯が何を意味するのかは、まだ知らない。

 知っているのは、献耳の先にさらに段階があること。

 身体の形そのものへ触る処置があること。

 深部は、白い施設のどこかに確かに存在していること。


 不明なことの方が、まだ多い。

 だが、その不明さごと怖いのだと、今はもう分かっている。


 翌朝、施設の空気はいつも通り整っていた。


 白い廊下。

 清水の匂い。

 薬草の薄い苦み。

 食堂から流れてくる穀物粥の湯気。

 昨日、ルゥの手の中に第三階梯という言葉が落ちたことなど、最初からなかったみたいな朝だった。


 だがルゥの方は、もう昨日までのままではいられない。


 奉仕へ向かうふりをしながら、彼女は施設の動きを見ていた。

 誰がどこへ入るのか。

 誰がどの棟へ呼ばれるのか。

 医療補助へ回る者、洗い場へ回る者、休息所の子どもの世話へ入る者。

 その中で、地下へ近づける動線はどこにあるのか。


 第二階梯、という言葉はまだ直接聞いていない。

 だが、献耳の先にある「形へ触る処置」があるなら、その手前を支える人員配置もあるはずだった。


 医療棟へ出入りする白衣の数は多い。

 だが全員が深部へ入れるわけではない。

 器具運び、布の交換、薬液の補充、聞き取り、寝台整え。

 仕事は細かく分かれている。

 深部へ近づくには、そのどれかへ自然に潜り込まなければならない。


 ルゥは朝の食堂で木椀を拭きながら、医療補助の名が呼ばれる順番を耳で追った。


「今日は南棟の寝具交換を二人」

「洗い場は三人」

「外出奉仕は昨日の班と交代」

「医療補助は……」


 そこで一度、名前がいくつか挙がる。

 ルゥの名はない。

 代わりに、長くいる信徒と、最近処置補助へ慣れてきた奉仕者が選ばれていた。


 やはり、簡単には入れない。


 木椀の縁を拭う手に、少しだけ力が入る。


 どうやって潜り込む。


 志願するか。

 偶然を装うか。

 誰かの不足を埋める形にするか。

 露骨すぎれば逆に怪しまれる。だが待っているだけでは、第三階梯の名だけが先へ行き、自分だけが取り残される。


「ルゥ」


 呼ばれて顔を上げると、ミナが立っていた。


 白布はまだ耳の処置跡に巻かれている。

 顔色は前より良い。

 立ち姿も安定している。


 そして、その穏やかさが、やはり少しだけ過剰だった。


「布、こっちに運ぶの手伝って」


「……うん」


 ルゥは立ち上がる。


 ミナの声はやさしい。

 そのやさしさに嘘はない。

 だが以前なら、もう少し揺れがあった。頼む時の遠慮、断られたらどうしようという小さな不安、そういうものが今は薄い。感情が消えたわけではない。ただ、角が取られている。


 廊下を並んで歩きながら、ルゥは横目でミナを見た。


「痛む?」


 問いは短かった。

 ミナは少しだけ考えてから頷く。


「少し。でも、思ってたよりは」


 その答え方も、どこか整っている。

 きっと本当なのだろう。

 本当なのに、やはり刺さる。


「外は怖かった?」


 昨日と同じ問いを、ミナはもう一度口にした。


 ルゥは足を止めかけて、止めなかった。

 白い廊下の向こうでは、誰かが布束を抱えて急ぎ足で曲がっていく。

 生活は流れている。

 その流れの中で、ミナの問いだけが少し深く沈んだ。


「怖かったよ」


 今度は、隠さずに答える。


「きれいだったけど。うるさくて、雑多で、ちゃんと怖かった」


 ミナはそれを聞いて、小さく目を細めた。


「そっか」


 それだけの返答。

 けれど、その一音の中に、以前ならもう少し長く続いたであろう感情の揺れがない。

 羨ましさも、不安も、もっと聞きたいという好奇心も、今は一段奥へ沈んでいる。


 ルゥは胸の奥が鈍く痛むのを感じた。


 完全には消えていない。

 けれど、削られている。

 ミナはその現実そのものだった。


 布倉庫へ着くと、白衣の女信徒が帳面を見ながら言った。


「午後、医療棟の補助が一人足りないの。誰か手が空く人いないかしら」


 ルゥの耳が、そこでぴくりと動いた。


 ミナが先に口を開きかける。

 だがルゥの方が一瞬早かった。


「私、行けます」


 女信徒が顔を上げる。


「あなたが?」


「はい。寝具交換も、布の補充も覚えたので」


 言いながら、ルゥは自分の鼓動が少し速くなるのを感じていた。

 自然に。

 不自然すぎず。

 役に立ちたい奉仕者の顔をして。


 女信徒は少しだけ迷ったが、すぐに頷く。


「では、まず前室の補助から。深いところはまだ駄目よ」


 深いところ。


 その一言で、逆に確信が深まる。

 深いところがある。

 白い施設の中には、そう呼ばれる区画が。


「分かりました」


 ルゥは静かに答えた。


 午後、医療棟の空気は朝より少し冷たかった。


 器具の数が多い。

 布も多い。

 往来する白衣の足音が、他の棟より規則的だ。

 ルゥは指示されたまま、前室の棚へ薬草布を補充し、洗った鉢を戻し、銀盆を磨いた。深いところはまだ駄目だと念を押されている。つまり、ここは手前だ。手前のさらに手前。


 それでも、昨日までよりは近い。


 廊下の先、普段は閉ざされている区画がある。

 扉は白木ではなく、金属の補強が入った重い造りだった。

 前を通る白衣たちの足取りまで、そこに近づくと少し変わる。

 静けさが一段深くなる。


 深部。


 きっと、あそこだ。


 近くまで行くことはできない。

 だが、遠くからでも空気が違う。

 礼拝堂の静けさとも、地下室の処置空間とも少し違う。もっと閉じていて、もっと「選ばれた者だけが入る」感じがあった。


 ルゥは磨き布を持つ手を止めない。

 止めないまま、視界の端でその扉を測る。


 第三階梯がその向こうにあるのかは、まだ分からない。

 だが少なくとも、献耳の先へ続く流れはここへ集まっている。


 前室の長椅子には、何人かの保護対象が座っていた。

 中には耳に白布を巻いた者もいる。

 中には、腕や肩の線がどこか不自然に整いすぎた者もいた。

 まだ段階の名前は知らない。

 けれど、手前ですでに削られている人間たちの気配だけは濃い。


 近づくほど、救済の顔は増えていく。


 祈りの声。

 「大丈夫ですよ」という囁き。

 白い布。

 休める寝台。

 痛みを和らげる薬液。

 不安を受け止める相談室。


 ひとつひとつは救いに見える。

 その救いの積み重なりが、深部へ人を送る。


 ミナだけではない。

 すでに何人もが、その途中にいる。


 ルゥは銀盆の表面へ映る自分の顔を見た。

 少し青ざめている。

 けれど、まだ引き返す顔ではなかった。


 第二階梯へ潜り込む。

 そこから先を探る。

 第三階梯の名がただの噂ではなく、白い施設のどこに息づいているのか、見つける。


 戻れない。

 もう、ただ嫌悪しているだけの位置へは戻れない。


 深部へ行くには、まずその手前で削られていく人間たちを見なければならない。


 そう理解したとき、ルゥは自分が少しだけ遅かったことを知った。

第5章 終

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