第1話 暴走の広場
最初に悲鳴を上げたのが誰だったのか、ルゥ=イリスには分からなかった。
ただ、広場の空気がひとつ遅れて裂けたことだけは、はっきり覚えている。
昼下がりの市場は、いつも通り騒がしかった。石畳の上を荷車が軋み、屋台からは焼いた獣肉と香辛料の匂いが流れてくる。干した火蜥蜴を吊るした店先では、旅装の男が値段を巡って店主と揉めていたし、その隣では水棲種向けの保湿布が風に揺れていた。翼持ちの職人が高い足場から降りてくるのが見え、その下を、角のある子どもが親に手を引かれて走っていく。
色も、匂いも、声も、多すぎる。
この街はいつだってそうだ。差異を抱えた者たちが同じ石畳の上を歩いているくせに、誰もが少しずつ違う世界を連れている。そのせいで美しく見える瞬間もあれば、たったそれだけのことで、ひどく噛み合わなくなることもある。
ルゥは市場の端、陽の当たりにくい軒先に寄って立ち、人の流れを避けながら歩いていた。買い物をする気はない。ただ、通り抜けるだけのつもりだった。人の多い場所は疲れる。
笑い声も怒鳴り声も、売り子の張る声も、誰かが誰かを慰める声でさえ、この街ではときどき耳の奥に細い針みたいに残る。獣人であるルゥの耳は、人より少しだけ拾いすぎる。髪の奥に隠した耳先が、喧騒の強い場所では無意識に強張るのを、ルゥはもうずいぶん前から癖みたいにやり過ごしてきた。
その時、ふいに、ひとつだけ音がずれた。
金属が軋むような、けれど金属ではない音。熱いものが内側からひび割れるような、嫌な響き。
ルゥは足を止めた。
広場の中央近くで、まだ若い少年がしゃがみ込んでいる。旅人ふうの薄い外套を着た、十五、六ほどの年頃だった。片手で喉元を押さえ、もう片方の手を石畳についている。指先が不自然に震えていた。
周囲の人間は、最初それを体調不良だと思ったらしい。近くにいた果実売りの女が怪訝そうに身を乗り出し、荷運びの男が「おい、大丈夫か」と声をかける。けれど、次の瞬間には、その場の空気が一気に後ろへ引いた。
少年の背から、光が噴いた。
正確には光だけではない。白に近い熱と、赤く細い火花と、空気そのものを灼くような圧が、抑えきれないまま爆ぜたのだ。石畳に散った火が乾いた音を立てる。近くの布屋の軒先が一瞬で焦げ、吊るされていた布がばさりと揺れた。
「暴走だ!」
誰かが叫ぶ。それを合図にしたみたいに、人の流れが崩れた。
荷車が半ば転がるように向きを変え、果実が籠から零れ落ち、子どもの泣き声がいくつも重なる。水棲種の女が濡れた外套を頭からかぶって伏せ、角のある老人が杖をついて後ずさる。翼持ちの男がとっさに空へ逃げようとして、熱気に押し返されるのが見えた。
ルゥは動かなかった。
いや、動けなかった。
少年の中で、何かが軋んでいる。ただ魔力が溢れているだけではない。もっと内側の、輪郭のようなものが、自分で自分を支えきれずにひび割れている。ルゥにはそれが、目より先に、音で分かってしまった。
少年は叫んでいた。けれど、その叫びは言葉になっていない。喉を焼きながら出てくる熱だけが、音のかたちを真似ていた。焦げた匂いが広がる。火は大きくはないのに、広場全体が一歩引くには十分な熱だった。
「下がれ!」
「水を、いや、駄目だ、刺激するな!」
「誰か呼べ、聖光団を!」
その名が上がるのは、いつだって早い。
この街で、暴走や発作や、行き場のない苦痛が人の手に余った時、最後に呼ばれるのはたいてい聖光団だった。ギルドは仕事を斡旋するし、宿屋は金を払えば寝床をくれる。治療院は順番が来れば診てくれる。けれど、順番まで待てない痛みや、その場で噴き出す異常だけは、しばしば別のものに預けられる。
白い人たちが現れたのは、その呼び声からさほど間を置かずだった。
広場の北側、石造りの回廊の奥から五人。白い法衣に身を包み、誰一人として走っていないのに、無駄なく中央へ近づいてくる。列は崩れず、足音は揃いすぎない程度に整っている。急場のはずなのに、そこだけ時間の流れが違うみたいだった。
不思議と、人々はその姿を見るだけで少し息をついた。
「聖光団だ……」
「助かる」
「よかった」
安堵の声が、広場の端から順に滲んでいく。
ルゥはその響きに、奥歯を噛んだ。
中央へ進み出たのは、一人の女だった。白衣の上にだけ、ごく細い銀糸の刺繍が走っている。年は、遠目には判然としない。若く見えなくもないし、若さだけでは説明できない落ち着きもある。長い髪は綺麗に整えられ、その横顔はひどく端正だった。
まだ名前は知らない。けれど、彼女がこの場の中心なのだと見れば分かる。
女は少年の前で膝を折った。
周囲の団員たちは半円に散り、熱を抑えるための術具と印を手際よく置いていく。石畳に薄く描かれた光の線が、少年を囲むように閉じた。祈りの言葉は低く、小さく、重ならない。誰も声を荒げない。誰も「落ち着け」とも「我慢しろ」とも言わない。ただ、必要な動作だけが続いていく。
「聞こえますか」
女の声は、広場の騒ぎの中にあって不思議なくらいはっきりしていた。
「大丈夫。もう少しだけ、呼吸を合わせましょう」
少年は返事をしない。できる状態ではない。それでも女は急かさず、片手を彼の胸元から少し離した空中に置いた。直接触れない。だが、その距離に意味があることが分かる手つきだった。
「怖いですね」
それは慰めではなく、確認のように聞こえた。
「けれど、もう苦しまなくていいのですよ」
ルゥの肩が、わずかに強張る。
その言葉のあと、女は目を伏せ、短く何かを唱えた。石畳に広がった光の線が一度だけ淡く脈打つ。周囲の団員が置いた術具から、白い薄煙のような魔力が立ち上り、少年の体へ静かに沈んでいく。
暴れていた熱が、ゆっくりと弱まっていった。
火花が減る。石畳に落ちていた火が消える。少年の喉から漏れていた獣じみた唸り声も、次第に小さくなる。肩の震えが止まり、指先の痙攣がほどけていく。
広場のあちこちで、安堵の吐息が零れた。
「すごい……」
「もう落ち着いた」
「やっぱり聖光団様だ」
人々は少しずつ、その場へ戻り始める。さっきまで距離を取っていた者たちが、今度は祈るような目で白い人々を見ていた。焦げた布を抱えた店主でさえ、損失より先に安堵を口にする。
けれど、ルゥだけは、その場の空気と一緒に安堵することができなかった。
少年の中で、別の音がしたからだ。
それは暴走の軋みとは違う。むしろ、ひどく静かな音だった。
濁っていた水が澄むのに似ていて、でも水そのものの量が少し減ったような、そんな不自然な静けさ。ざわめきが鎮まったのではない。ざわめくはずだった部分ごと、どこかへ切り落とされたみたいな音。
ルゥは思わず息を呑んだ。
少年は泣いていた。炎に焼かれた恐怖が去ったからなのか、助かったことへの安堵からなのか、その両方か。頬を濡らしながら、何かを言おうとしている。
「あ……」
かすれた声が出る。少年は女を見上げ、その手を両手で掴んだ。
「ありがとう、ございます……」
女は静かに頷いた。
「いいえ。あなたが生きようとした結果です」
その声音に嘘はなかった。少なくとも表面上は。
それでもルゥには、広場の誰とも違うものが聞こえていた。救われた者の安堵だけではない。戻ってきたはずの人間の中に、戻らなかった何かがある。その空白だけが、耳の奥で冷たく残る。
――助かったんじゃない。
心のどこかで、そんな言葉が浮かぶ。
――何かが、なくなった。
「嬢ちゃん、危ないぞ」
肩を引かれて、ルゥははっとした。いつのまにか人の流れが戻り始め、ルゥは通りの真ん中近くに立ち尽くしていたらしい。荷運びの男が眉をひそめながら脇へ寄せる。
「あ……ごめん」
口から出た声が、少しだけ遅れた。
男はもう彼女を見ていない。視線は中央の白い女へ向いている。ほかの誰も同じだった。祈るような、感謝するような、縋るような眼差し。この街で何度も繰り返されてきたのだろう、救済の光景がそこにあった。
女――Eclaria-エクラリア-は、まだ膝をついたまま、少年の呼吸が完全に落ち着くのを待っていた。急がない。立ち去らない。その慎重さの一つ一つが、人々の信頼を積み上げてきたのだと分かる。
分かるから、余計に気分が悪かった。
ルゥは唇の内側を噛んだ。鉄の味が少し広がる。広場の喧騒はもう戻り始めている。売り子は零れた品を拾い、宿屋の呼び込みは早くもいつもの声量を取り戻し、酒場の窓からは再び笑い声が漏れてきた。何事もなかったように、街は前へ進もうとしていた。
けれど、ルゥの中だけが取り残される。
あの少年の中に、確かに聞こえたもの。
削られたみたいな、あまりに静かな音。
エクラリアがふと顔を上げた。
ほんの偶然か、それとも誰かの視線に敏いだけか。広場の端に立つルゥと、数秒にも満たない短い距離で視線が交わる。女の目は、凪いだ水面みたいに静かだった。何かを責める色はない。ただ見ている。それだけだ。
なのに、ルゥは胸の奥を薄く撫でられたような嫌な感覚を覚えた。
すぐに視線は外れた。ルゥが特別視されたわけではないのだろう。エクラリアはすでに別の団員へ何事かを指示し、少年の処置後の移送手配に意識を向けている。
それでも、ルゥはそこからしばらく動けなかった。
街は、救われたことになっている。
少年もまた、救われたことになっている。
今この瞬間、広場にいる誰もがそれを疑っていない。
自分だけが間違っているのかもしれない、と一瞬だけ思う。けれど、その考えはすぐに消えた。間違いであってほしかった。聞き間違いであってほしかった。でも、あの音だけはどうしても聞き違えようがなかった。
ルゥはゆっくりと目を伏せた。
石畳には、さっきまで少年の火が焦がしていた細い痕が残っている。その上を、買い物帰りの女が何も知らない顔で踏んでいった。焼けた匂いも、もう香辛料と獣脂の匂いに紛れ始めている。
この街は、何でもすぐに呑み込む。
痛みも。
異常も。
そしてたぶん、救いの顔をした喪失も。
ルゥは広場を離れた。
背後では、誰かがまだ聖光団への感謝を口にしている。その声が遠ざかっても、あの少年の中で聞いた静けさだけは、いつまでも耳の奥から消えなかった。
あれは救いじゃない。
そう思った瞬間、胸の底で、まだ名前のつかない嫌悪がひどく冷たく固まった。




