第0話 耳をふさがない子
その子は、泣くときだけ耳を押さえる癖があった。
頭の高い位置についた、やわらかな獣耳を、小さな両手でぎゅっと包み込むように。
まるで世界の方がうるさすぎるみたいに。
最初は、ただの癖だと思っていた。
子どもには、意味のわからない仕草がいくつもある。眠る前に指を噛む子もいれば、気に入った布の端を離せない子もいる。そのくらいのことだと、そう思いたかった。
けれど、あの子は少し違った。
誰かが怒鳴る前に、もう耳が伏せられる。
嘘をつかれた時は、意味も分からない年齢なのに、傷ついたみたいな顔をする。
やさしい言葉を向けられた時でさえ、その奥に疲れや苛立ちが混じっていると、すぐに怯える。
――この子には、聞こえすぎている。
そう思った日から、わたしは時々、あの子の耳を覆ってやりたくなった。
聞かなくていいものまで聞こえるのは、きっと、生きるには少し不便すぎる。
部屋の隅には、まだ洗いきれない薬草の匂いが残っていた。湿った壁。小さな卓。欠けた木椀。窓の外では、夜番の荷車が石畳を鳴らして通り過ぎていく。角のある隣人の影が長く伸び、その向こうで、酒場帰りらしい笑い声がひとつ、すぐに喧嘩腰の怒鳴り声に変わった。
あの子は眠っている。
眠っているのに、少しだけ耳に触れている。
わたしはその小さな手を、そっと外した。
「大丈夫」
囁いた声が、自分でも思ったより薄かった。
大丈夫なわけがない。
熱は下がらない。仕事は続かない。宿代は上がる。薬は足りない。あの子に食べさせる分を残すと、自分の分がなくなる日もある。相談に行けば、次の順番まで待てと言われる。待っているあいだに悪くなるものは、どうすればいいのだろう。
それでも、子どもの前では笑わなければいけないのだと、ずっとそう思ってきた。
母親なのだから。
けれど最近は、笑うたびに何かが少しずつ擦り減る。
やさしい顔を作るたび、本当にやさしい気持ちの方が遠くなる。
あの子を抱きしめるたび、この腕の中身が空っぽになっていく気がした。
今日、白い人たちが来た。
正確には、わたしの方から助けを求めたのだけれど。
それでも、あの白さを見た瞬間、自分の人生とは別のところから降りてきたもののように見えた。清潔で、静かで、少しも急かさない。あの人たちは、わたしの話を最後まで聞いた。途中で顔をしかめたり、順番を待てと言ったり、無理ですねと先に言ったりしなかった。
ただ、こう言ったのだ。
苦しまなくていいのですよ。
その言葉が、あまりにもまっすぐこちらへ来たので、少しだけ泣きたくなった。
苦しまなくていい。
そんなふうに言われたことが、これまで一度でもあっただろうか。
頑張れとは言われた。
母親なのだから、とも言われた。
仕方ない、とも。
みんな同じだ、とも。
もう少し耐えれば、とも。
でも、苦しまなくていいのだと。
そのままの意味で、そう言われたことはなかった。
わたしは眠る子どもの頬に触れる。
あたたかい。
熱のせいか、それとも生きている子どもというものは、みんなこんなふうに小さな火を体のどこかに持っているのか。
「あなたには、あなたのままでいてほしい」
返事はない。
あるはずもない。
でも、こういうことは眠っている時にしか言えない。起きているあいだのわたしは、最近ずっと、何かの音に追いつかれている。焦りの音。諦めの音。壊れていく音。あの子にはきっと、それが聞こえてしまうから。
聞こえてほしくなかった。
本当は、何ひとつ。
あの子の耳はやわらかくて、小さい。
触れるたびに胸が苦しくなる。こんなにも小さなものが、この世界の悪意や疲れや嘘まで拾ってしまうなんて、どうかしている。
わたしは両手でその耳を覆ってみる。
しばらく、そのままでいた。
外の荷車の音が遠のく。
酒場の喧騒が、壁一枚ぶんだけ弱くなる。
隣室で水棲種の住人が桶をひっくり返す音も、もうほとんど届かない。
けれど、それでも分かった。
耳をふさいでも、世界はやさしくならない。
聞こえなくなるだけだ。
そこにあるものは、そのままある。
なら、この子には何を残せばいいのだろう。
何も削られずに生きるには、この世界はあまりに狭い。
でも、削られて生き延びることを、わたしはこの子に教えたくなかった。
窓の外で風が鳴った。
その音にまぎれて、あの白い人の声が思い出される。
差異は、人を苦しめます。
でも、そこから解放される道もあるのです。
解放。
その言葉は、祈りみたいに美しかった。
美しいものほど疑わなければいけないと、昔のわたしなら思っただろう。けれど今は、疑うだけの力も、少し足りない。
眠る子どもの手が、かすかに動く。
耳を押さえる代わりに、今度はわたしの袖をつかんだ。
「ごめんね」
何に対して言ったのか、自分でも分からなかった。
置いていく未来に対してか。
守れないかもしれない明日に対してか。
それとも、もう少しでその言葉を受け入れてしまいそうな、自分自身に対してか。
わたしは袖をつかむ小さな手を、両手で包んだ。
もし願いが一つだけ叶うなら。
あの子には、削られずに生きてほしい。
聞こえすぎるままでいい。
傷つきやすいままでいい。
この世界の音を、やさしさも悪意も、全部うるさいまま聞いて、それでも、自分の輪郭を失わずにいてほしい。
わたしにはできなかったことを。
白い夜は、ゆっくり部屋の隅まで満ちてくる。
朝が来れば、わたしはたぶん、もう一度あの場所へ行く。
救われたいのかもしれない。
壊れたいのかもしれない。
その違いが、もう少し曖昧になっていた。
それでも、最後に一つだけ確かなことがある。
この子だけは。
この子だけは、どうか。
眠る顔に触れようとして、指先が震えた。
触れたはずの頬はあたたかいのに、わたしの方だけが、もうずいぶん前から冷えていた。
だからせめて、言葉だけは置いていく。
いつか届くかもしれない言葉を。
きっと届かないだろうと思いながら、それでも置かずにはいられない言葉を。
「耳をふさがないで」
眠る子どもは、答えない。
答えないまま、少しだけわたしの袖を強く握った。
それが、たぶん最後に与えられた赦しのように思えて、わたしは目を閉じた。
その言葉が、何を残し、何を奪うことになるのか、あの夜の私はまだ知らなかった。




