第2話 母の最後の声
少年の中に落ちた静けさは、広場を離れてもしばらく耳の奥から消えなかった。
焼けた布の匂いも、香辛料も、酒場から漏れる笑い声も、全部その上を薄く覆っていくだけで、芯のところに残った冷たさだけは隠せない。市場の喧騒を抜け、石畳の細い坂道へ入ってもなお、ルゥの中ではさっきの光景が何度も反芻された。
助かったことになっている顔。
泣きながら、礼を言う声。
そして、その奥で、何かがもう戻ってこないと分かる静けさ。
ルゥは足を止め、狭い路地の壁に手をついた。陽の届きにくい石はまだ昼の熱を少しだけ残していたが、そのぬるささえ現実感が薄い。目を閉じると、さっきの少年の代わりに、別の顔が浮かび上がってくる。
母だった。
助かった人間の顔ではなかった。
もう戻らないところへ行ってしまった人間の顔だった。
ルゥはゆっくりと目を開けた。
路地の先では、洗濯物が風に揺れている。角持ちの一家が住むらしい古い宿の二階からは、子どもの笑い声がした。その下の階では、昼間から開いている安酒場の裏口に酒樽が積まれている。荷運びの男たちが文句を言い合い、水棲種の女が濡れた桶を抱えて横切り、魔導灯の修繕屋が煤けた手で工具を振っていた。
街は生きている。
うるさく、不揃いで、少しも優しくないまま。
そのうるささに、ルゥの耳はいつも少し疲れていた。雑多な音が重なる場所では、髪の内側の耳先まで硬くなる。けれど今は、疲れるというより、昔の記憶が無理やり引きずり出されてくる感覚の方が強かった。
最初の記憶は、声だ。
顔より先に、手より先に、声がある。
まだ小さかった頃、母は夜になると窓辺に腰を下ろして、外の灯りを見ながら、どうでもいい話をしてくれた。昼間すれ違った旅人の服が妙に派手だったとか、隣室の老夫婦がまた同じことで喧嘩していたとか、市場で見た菓子が高すぎて笑ったとか、そういう、なくても困らない話ばかりだった。
でもルゥは、そういう話が好きだった。
母の声は、低くも高くもない、やわらかな響きをしていた。言葉の終わりが少しだけ伸びる癖があって、疲れている日でも、ルゥの前ではなるべく笑って聞こえるようにしていた。
――あの頃は、まだ上手だった。
そう思ってしまう自分に、ルゥは少しだけ眉を寄せた。
家に着く頃には、陽はだいぶ傾いていた。安い貸間の木扉を開けると、中はしんと暗い。昼の熱を吸った壁と、干しかけの薬草の匂いがわずかに残っている。卓は小さい。椅子は一つ。寝台は狭く、天井は低い。角持ちや翼持ちには向かない造りだが、獣人種が身を縮めて暮らすには、かろうじて許される広さだった。
母といた部屋も、似たようなものだった。
むしろ、もっと狭かったかもしれない。
窓枠は歪み、冬は隙間風が入り、雨の夜には壁が湿った。だがルゥの記憶の中では、その部屋にはいつも母の体温があった。安物の毛布。薬湯の匂い。湯気の立つ椀。眠る前、額に触れる指先。そして時々、ルゥの獣耳のつけ根をそっと撫でながら、「今日は少しうるさかったね」と笑う声。
あの頃から、ルゥは人の声の奥にあるものを拾ってしまっていた。
怒っていないと言いながら怒っている声。
平気だと笑いながら、もう限界に近い声。
やさしさの形をした義務。
慰めの言葉に混じる、早く終わってほしいという倦み。
たいていの相手は、話している内容よりも、その裏の方が先に耳へ届いた。獣人の耳が拾うのは、声の大きさだけではない。呼吸の浅さや、喉の乾きや、言葉の前後に落ちる迷いまで、時々ひどく鮮明に響いてしまう。
だから、あまり人を好きになれなかった。
大丈夫だと言う人間ほど大丈夫ではないし、心配していると言う人間ほど、本当に心配しているわけでもない。子どもの頃からそれが何となく分かってしまうと、人と近づく前に疲れるようになる。
けれど、母だけは違った。
違っていてほしかった。
ルゥにとって母の声は、唯一、信じてもいい音だった。少なくとも、そう思っていた。たとえ疲れていても、苦しくても、母がルゥに向ける声の中には、ちゃんとルゥを好きだという響きがあった。苦しさの下に、消えない熱があった。
だからこそ、その音が変わり始めた時、ルゥはいちばん最初に気づいた。
最初はほんの少しだった。
笑う回数が増えた、と周りは言った。前より穏やかになった、とも。母自身も、楽になったのだと口にした。顔色は相変わらず良くなかったが、以前のように苛立ちを飲み込んで唇を噛むことは減った。夜中にうずくまるような発作も減った。
それだけ見れば、良いことばかりだった。
実際、近所の者たちもそう言った。
「よかったじゃないか」
「聖光団の人たちは親切だって聞くよ」
「少し休んだ方がいいんだよ」
母も、何度か頷いていた。
――ええ。少し、楽になったの。
その言葉自体は嘘ではなかったと思う。
でも、ルゥには分かってしまった。
楽になったのではなく、何かが少しずつ薄くなっていた。
以前なら腹を立てたはずのことに、母は怒らなくなった。隣室の怒鳴り声にも、大家の嫌味にも、薬代を払えないことにも、前ほど顔を曇らせなくなった。ルゥが怪我をしても、心配はする。けれど、その心配の奥行きがどこか浅い。まるで感情がきちんとあるべきところまで届かないまま、形だけ先に整えられているみたいだった。
ルゥはそれが怖かった。
怖い、と言ってしまえばよかったのかもしれない。
けれど当時のルゥには、うまく言葉にできなかった。母はたしかに少し楽そうで、周りはみんなそれを良い変化だと言う。子どもの自分だけが、違うと言い張る根拠を持てなかった。
それでも夜になると、母の声の奥にあった熱が、日に日に遠くなっていくのが分かった。
ある夜、ルゥは眠れずにいた。
外では雨が降っていた。屋根板を打つ細かい音が続き、壁の向こうからは、どこかの部屋で赤子をあやす声が聞こえてくる。母は寝台の端に座り、窓もない壁をぼんやり見ていた。灯りは弱く、薬湯の匂いだけが濃かった。
「お母さん」
呼ぶと、母はすぐに振り向いた。
「どうしたの」
「……何で、そんなに笑うの」
今思えば、ひどく子どもじみた訊き方だ。
けれど、あの時のルゥには、それが限界だった。怒って、と言うわけにもいかなかった。泣いて、とも。痛いなら痛いって言って、という言葉すら出てこなかった。ただ、前より穏やかになった母の顔が、どうしても分からなかった。
母は少しだけ目を細めた。
「笑ってるかな」
「笑ってる」
「そう」
その返事の薄さが、ルゥにはたまらなかった。
「おかしいよ」
思わず声が強くなる。
「前の方が……」
前の方が、何だったのか。そこから先は言えなかった。前の方が苦しそうだった。前の方が、追い詰められていた。前の方が、でも、まだ母だった。そんな残酷なことを、子どもの口でどう言えばよかったのか、今でも分からない。
母はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりルゥの髪を撫でた。指先はやさしかった。けれど、そのやさしさの重みまでが、どこか遠い。
「大丈夫」
母は言った。
その三文字を、ルゥはいまだに忘れられない。
大丈夫、という言葉の中に、世界でいちばん壊れた音がしたからだ。
それは慰めではなかった。安心させるための嘘とも少し違う。もっと静かで、もっと深いところで、何かが諦めきってしまった音だった。泣きそうな気配も、怒りも、助けを求める棘も、どこにもない。ただ平らで、やわらかくて、そして空っぽに近い音。
その瞬間、ルゥは初めてはっきり思った。
――もう、戻らない。
何が戻らないのか、当時は説明できなかった。
母の体なのか。
母の声なのか。
母の中のどこか、まだ壊れていなかったはずの部分なのか。
壊れた母は、あくる日、白い人と出掛けたきり戻らなかった。
突然なようで、前からわかりきっていたことでもあったかもしれない。
母を失った悲しみとは別のところで、あの日聞いた「大丈夫」だけが、今でも耳の奥に残っている。
ルゥは部屋の中でじっと立ち尽くしていた。今いる貸間の薄暗さと、昔の部屋の薄暗さが一瞬重なる。窓の外では誰かが階段を上っていく。酒場帰りらしい笑い声が遠くでほどける。外の世界は今日も変わらず雑多で、やさしくない。
そのやさしくなさに、母は負けた。
そう言い切れたら、少しは楽だったかもしれない。
聖光団だけが悪いのだと、もっと簡単に憎めたかもしれない。
けれど、今日広場で見た少年の顔が、それを許さなかった。
苦痛がやわらいだ顔。
救われたように見える顔。
その奥で、確かに何かを落としてしまった顔。
母も、ああいう顔をしていた。
ルゥは卓の縁を指先でなぞった。ざらついた木肌の感触が、ようやく今いる場所へ意識を戻してくれる。
部屋の隅には、朝のうちに干したままの布が畳まずに置いてある。薬草を煎じるための小鍋も洗いきっていない。こういう小さな散らかりは、母といた頃から変わらない。むしろ、変わってしまったのは、いつだって人の方だ。
外が少し静かになった。
夕方と夜の境目の、街が一度だけ息を吐くような時間だ。市場の喧騒が引き、宿屋に灯りが入り、酒場の音だけがこれから濃くなっていく。そんな切り替わりの中で、ルゥはふいに窓辺へ寄った。
狭い窓から見える通りの向こう、石段を下った先の広場の角で、白い布が揺れているのが見えた。
聖光団の炊き出しだった。
大きな鍋。整然と並ぶ人々。子どもを抱いた女。疲れ切った顔の労働者。怪我をした若者。列は長いのに、妙に静かで、乱れがない。白い衣の信徒たちは誰にも怒鳴らず、誰も急かさず、順番に椀へ湯気の立つスープを注いでいる。
その光景は、遠目にはひどく穏やかだった。
あまりにも穏やかで、ルゥはかえって吐き気を覚えた。
母も、こういう場所へ行ったのだろう。
こういう場所で、やさしい声をかけられたのだろう。
苦しまなくていい、と。
それを責められるはずがないことを、ルゥはもう知っている。
知っているのに、知れば知るほど、別の怒りが胸の底に沈んでいく。
やさしい場所ほど、壊れていた時に厄介だ。
その思いは、もはや言葉というより、冷たい塊に近かった。
ルゥは窓から離れた。
広場へ行くつもりなどなかった。
だが次の瞬間には、もう扉へ手をかけている。
何をするのか、自分でもまだはっきり決まっていない。問い質したいわけではない。今さら、あの日の母に何が起きたのかを、あの白い人々が素直に語るとも思っていない。
それでも近づかなければならない気がした。
今度は見間違えないために。
今度こそ、あの静けさの正体を、聞き損ねないために。
扉を開けると、夜の匂いがした。石と湿気と、遠くのスープの湯気。階段を下りながら、ルゥは一度だけ深く息を吸う。
胸の奥にあるのは、まだ復讐と呼ぶには輪郭の曖昧なものだ。
怒りでもある。
嫌悪でもある。
置いていかれた子どもの傷でもある。
だが、それで十分だった。




