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君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第1章 決意の日

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第2話 母の最後の声

 少年の中に落ちた静けさは、広場を離れてもしばらく耳の奥から消えなかった。


 焼けた布の匂いも、香辛料も、酒場から漏れる笑い声も、全部その上を薄く覆っていくだけで、芯のところに残った冷たさだけは隠せない。市場の喧騒を抜け、石畳の細い坂道へ入ってもなお、ルゥの中ではさっきの光景が何度も反芻された。


 助かったことになっている顔。

 泣きながら、礼を言う声。

 そして、その奥で、何かがもう戻ってこないと分かる静けさ。


 ルゥは足を止め、狭い路地の壁に手をついた。陽の届きにくい石はまだ昼の熱を少しだけ残していたが、そのぬるささえ現実感が薄い。目を閉じると、さっきの少年の代わりに、別の顔が浮かび上がってくる。


 母だった。


 助かった人間の顔ではなかった。

 もう戻らないところへ行ってしまった人間の顔だった。


 ルゥはゆっくりと目を開けた。


 路地の先では、洗濯物が風に揺れている。角持ちの一家が住むらしい古い宿の二階からは、子どもの笑い声がした。その下の階では、昼間から開いている安酒場の裏口に酒樽が積まれている。荷運びの男たちが文句を言い合い、水棲種の女が濡れた桶を抱えて横切り、魔導灯の修繕屋が煤けた手で工具を振っていた。


 街は生きている。

 うるさく、不揃いで、少しも優しくないまま。


 そのうるささに、ルゥの耳はいつも少し疲れていた。雑多な音が重なる場所では、髪の内側の耳先まで硬くなる。けれど今は、疲れるというより、昔の記憶が無理やり引きずり出されてくる感覚の方が強かった。


 最初の記憶は、声だ。


 顔より先に、手より先に、声がある。


 まだ小さかった頃、母は夜になると窓辺に腰を下ろして、外の灯りを見ながら、どうでもいい話をしてくれた。昼間すれ違った旅人の服が妙に派手だったとか、隣室の老夫婦がまた同じことで喧嘩していたとか、市場で見た菓子が高すぎて笑ったとか、そういう、なくても困らない話ばかりだった。


 でもルゥは、そういう話が好きだった。


 母の声は、低くも高くもない、やわらかな響きをしていた。言葉の終わりが少しだけ伸びる癖があって、疲れている日でも、ルゥの前ではなるべく笑って聞こえるようにしていた。


 ――あの頃は、まだ上手だった。


 そう思ってしまう自分に、ルゥは少しだけ眉を寄せた。


 家に着く頃には、陽はだいぶ傾いていた。安い貸間の木扉を開けると、中はしんと暗い。昼の熱を吸った壁と、干しかけの薬草の匂いがわずかに残っている。卓は小さい。椅子は一つ。寝台は狭く、天井は低い。角持ちや翼持ちには向かない造りだが、獣人種が身を縮めて暮らすには、かろうじて許される広さだった。


 母といた部屋も、似たようなものだった。


 むしろ、もっと狭かったかもしれない。

 窓枠は歪み、冬は隙間風が入り、雨の夜には壁が湿った。だがルゥの記憶の中では、その部屋にはいつも母の体温があった。安物の毛布。薬湯の匂い。湯気の立つ椀。眠る前、額に触れる指先。そして時々、ルゥの獣耳のつけ根をそっと撫でながら、「今日は少しうるさかったね」と笑う声。


 あの頃から、ルゥは人の声の奥にあるものを拾ってしまっていた。


 怒っていないと言いながら怒っている声。

 平気だと笑いながら、もう限界に近い声。

 やさしさの形をした義務。

 慰めの言葉に混じる、早く終わってほしいという倦み。


 たいていの相手は、話している内容よりも、その裏の方が先に耳へ届いた。獣人の耳が拾うのは、声の大きさだけではない。呼吸の浅さや、喉の乾きや、言葉の前後に落ちる迷いまで、時々ひどく鮮明に響いてしまう。


 だから、あまり人を好きになれなかった。


 大丈夫だと言う人間ほど大丈夫ではないし、心配していると言う人間ほど、本当に心配しているわけでもない。子どもの頃からそれが何となく分かってしまうと、人と近づく前に疲れるようになる。


 けれど、母だけは違った。


 違っていてほしかった。


 ルゥにとって母の声は、唯一、信じてもいい音だった。少なくとも、そう思っていた。たとえ疲れていても、苦しくても、母がルゥに向ける声の中には、ちゃんとルゥを好きだという響きがあった。苦しさの下に、消えない熱があった。


 だからこそ、その音が変わり始めた時、ルゥはいちばん最初に気づいた。


 最初はほんの少しだった。


 笑う回数が増えた、と周りは言った。前より穏やかになった、とも。母自身も、楽になったのだと口にした。顔色は相変わらず良くなかったが、以前のように苛立ちを飲み込んで唇を噛むことは減った。夜中にうずくまるような発作も減った。


 それだけ見れば、良いことばかりだった。


 実際、近所の者たちもそう言った。


「よかったじゃないか」


「聖光団の人たちは親切だって聞くよ」


「少し休んだ方がいいんだよ」


 母も、何度か頷いていた。


 ――ええ。少し、楽になったの。


 その言葉自体は嘘ではなかったと思う。


 でも、ルゥには分かってしまった。


 楽になったのではなく、何かが少しずつ薄くなっていた。


 以前なら腹を立てたはずのことに、母は怒らなくなった。隣室の怒鳴り声にも、大家の嫌味にも、薬代を払えないことにも、前ほど顔を曇らせなくなった。ルゥが怪我をしても、心配はする。けれど、その心配の奥行きがどこか浅い。まるで感情がきちんとあるべきところまで届かないまま、形だけ先に整えられているみたいだった。


 ルゥはそれが怖かった。


 怖い、と言ってしまえばよかったのかもしれない。


 けれど当時のルゥには、うまく言葉にできなかった。母はたしかに少し楽そうで、周りはみんなそれを良い変化だと言う。子どもの自分だけが、違うと言い張る根拠を持てなかった。


 それでも夜になると、母の声の奥にあった熱が、日に日に遠くなっていくのが分かった。


 ある夜、ルゥは眠れずにいた。


 外では雨が降っていた。屋根板を打つ細かい音が続き、壁の向こうからは、どこかの部屋で赤子をあやす声が聞こえてくる。母は寝台の端に座り、窓もない壁をぼんやり見ていた。灯りは弱く、薬湯の匂いだけが濃かった。


「お母さん」


 呼ぶと、母はすぐに振り向いた。


「どうしたの」


「……何で、そんなに笑うの」


 今思えば、ひどく子どもじみた訊き方だ。


 けれど、あの時のルゥには、それが限界だった。怒って、と言うわけにもいかなかった。泣いて、とも。痛いなら痛いって言って、という言葉すら出てこなかった。ただ、前より穏やかになった母の顔が、どうしても分からなかった。


 母は少しだけ目を細めた。


「笑ってるかな」


「笑ってる」


「そう」


 その返事の薄さが、ルゥにはたまらなかった。


「おかしいよ」


 思わず声が強くなる。


「前の方が……」


 前の方が、何だったのか。そこから先は言えなかった。前の方が苦しそうだった。前の方が、追い詰められていた。前の方が、でも、まだ母だった。そんな残酷なことを、子どもの口でどう言えばよかったのか、今でも分からない。


 母はしばらく黙っていた。


 それから、ゆっくりルゥの髪を撫でた。指先はやさしかった。けれど、そのやさしさの重みまでが、どこか遠い。


「大丈夫」


 母は言った。


 その三文字を、ルゥはいまだに忘れられない。


 大丈夫、という言葉の中に、世界でいちばん壊れた音がしたからだ。


 それは慰めではなかった。安心させるための嘘とも少し違う。もっと静かで、もっと深いところで、何かが諦めきってしまった音だった。泣きそうな気配も、怒りも、助けを求める棘も、どこにもない。ただ平らで、やわらかくて、そして空っぽに近い音。


 その瞬間、ルゥは初めてはっきり思った。


 ――もう、戻らない。


 何が戻らないのか、当時は説明できなかった。

 母の体なのか。

 母の声なのか。

 母の中のどこか、まだ壊れていなかったはずの部分なのか。


 壊れた母は、あくる日、白い人と出掛けたきり戻らなかった。


 突然なようで、前からわかりきっていたことでもあったかもしれない。


 母を失った悲しみとは別のところで、あの日聞いた「大丈夫」だけが、今でも耳の奥に残っている。


 ルゥは部屋の中でじっと立ち尽くしていた。今いる貸間の薄暗さと、昔の部屋の薄暗さが一瞬重なる。窓の外では誰かが階段を上っていく。酒場帰りらしい笑い声が遠くでほどける。外の世界は今日も変わらず雑多で、やさしくない。


 そのやさしくなさに、母は負けた。


 そう言い切れたら、少しは楽だったかもしれない。

 聖光団だけが悪いのだと、もっと簡単に憎めたかもしれない。


 けれど、今日広場で見た少年の顔が、それを許さなかった。

 苦痛がやわらいだ顔。

 救われたように見える顔。

 その奥で、確かに何かを落としてしまった顔。


 母も、ああいう顔をしていた。


 ルゥは卓の縁を指先でなぞった。ざらついた木肌の感触が、ようやく今いる場所へ意識を戻してくれる。


 部屋の隅には、朝のうちに干したままの布が畳まずに置いてある。薬草を煎じるための小鍋も洗いきっていない。こういう小さな散らかりは、母といた頃から変わらない。むしろ、変わってしまったのは、いつだって人の方だ。


 外が少し静かになった。


 夕方と夜の境目の、街が一度だけ息を吐くような時間だ。市場の喧騒が引き、宿屋に灯りが入り、酒場の音だけがこれから濃くなっていく。そんな切り替わりの中で、ルゥはふいに窓辺へ寄った。


 狭い窓から見える通りの向こう、石段を下った先の広場の角で、白い布が揺れているのが見えた。


 聖光団の炊き出しだった。


 大きな鍋。整然と並ぶ人々。子どもを抱いた女。疲れ切った顔の労働者。怪我をした若者。列は長いのに、妙に静かで、乱れがない。白い衣の信徒たちは誰にも怒鳴らず、誰も急かさず、順番に椀へ湯気の立つスープを注いでいる。


 その光景は、遠目にはひどく穏やかだった。


 あまりにも穏やかで、ルゥはかえって吐き気を覚えた。


 母も、こういう場所へ行ったのだろう。

 こういう場所で、やさしい声をかけられたのだろう。

 苦しまなくていい、と。


 それを責められるはずがないことを、ルゥはもう知っている。

 知っているのに、知れば知るほど、別の怒りが胸の底に沈んでいく。


 やさしい場所ほど、壊れていた時に厄介だ。


 その思いは、もはや言葉というより、冷たい塊に近かった。


 ルゥは窓から離れた。


 広場へ行くつもりなどなかった。

 だが次の瞬間には、もう扉へ手をかけている。


 何をするのか、自分でもまだはっきり決まっていない。問い質したいわけではない。今さら、あの日の母に何が起きたのかを、あの白い人々が素直に語るとも思っていない。


 それでも近づかなければならない気がした。


 今度は見間違えないために。

 今度こそ、あの静けさの正体を、聞き損ねないために。


 扉を開けると、夜の匂いがした。石と湿気と、遠くのスープの湯気。階段を下りながら、ルゥは一度だけ深く息を吸う。


 胸の奥にあるのは、まだ復讐と呼ぶには輪郭の曖昧なものだ。

 怒りでもある。

 嫌悪でもある。

 置いていかれた子どもの傷でもある。


 だが、それで十分だった。


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