第94話「ウルカニアの変貌」
西日に照らされたラグーナを、僕たちの小さな帆船は滑るように進んでいった。
島の西側に回り込むと、本島からは見えなかったウルカニア島の全貌が、容赦なくその姿を現した。
「…信じられない」
アディが呆然と呟いた。
つい一ヶ月前まで、そこには水面に枝を垂らすハンノキの柔らかな緑しかなかった。だが今、視界を占拠しているのは、巨大な灰色の城壁だ。
コンクリートが島を縁取るようにして、緩やかな曲線を描く巨大な護岸を形成している。
島に近づくにつれ、空気の質が変わるのがわかった。
本来なら四月の終わり、肌寒い潮風が吹くはずのこの場所で、湿り気を帯びた熱が頬を撫でる。
「ルカ、見て!あそこ!」
アディが指差した先、護岸の低い位置にある穴から、透き通ったお湯がこんこんと湧き出し、海面を揺らしていた。冷たい海流と温排水が混ざり合い、水面からは細かな湯気が立ち上っている。その暖かな揺りかごに誘われるように、無数の銀色の魚たちが、まるで踊るように群れをなして跳ねていた。
「港の中に土砂を溜めないために、水の流れを計算しているんだ…」
僕は身を乗り出して、護岸の構造を観察した。
港は、西からの風をいなすように美しい四分の一円の弧を描いている。その中心部を包むように、巨大なレンガ造りの工場がそびえ立っていた。煙突からは黒い煙が力強く空へ突き抜け、内部からは地響きのような轟音が響いてくる。
「僕の当初設計とは形が違うけど、こっちの方が理にかなってる。マルコさんが設計し直したんだろうな」
船が、コンクリートの岸壁へと滑り込む。
そこは、驚くほど静かだった。波を完璧に遮断された港内は、鏡のように穏やかだ。東側に海まで入り込む形のスロープがある。あの近くに接岸すればいいのかな。よく見ると桟橋らしきものもある。やはりあそこでいいらしい。
◆◇◆◇◆
僕は船首から、まだ新しい石の匂いがする岸壁へと飛び移った。アディも軽やかに続く。ロープを結んで船を固定する。
靴の裏から伝わってくるのは、土の柔らかさではない。高炉の熱を蓄えた、意志を感じるような、硬いぬくもりだった。
「…すごい」
工場の高さは、たぶん僕の設計通り。ただし、円筒形に近いような作りになっているため最頂部が四十メートルくらいあるだろう。全体的に白っぽい。よく見るとレンガではあるのだが、あの色は…。
「よくきたな、ルカ、アディ…ルーチェもか」
「マルコさん!あ!ビアージョさんも!」
コンクリートの岸壁に立っていたのはマルコさんと、相変わらず職人の鋭い目を光らせているビアージョさんだった。
「驚いたか?俺と弟子たちは、ロレンツォからの連絡を受けて一週間前からこの島に入ってたんだ」
ビアージョさんが、白い巨塔を見上げてニヤリと笑う。
「本稼働は今日からだが、六日前から何度も火入れや水車の稼働確認をしてな。念入りな試運転を繰り返して、ようやく今日の本格稼働に漕ぎ着けたってわけだ」
「だからこんなに早く煙が…。それにしても、この工場の外観、円筒形に近い形になってるし、レンガが白っぽいのはどうして?」
僕が尋ねると、マルコさんが太い腕を組んで答えた。
「ああ、悪いかとは思ったが、当初の設計からは大幅に変えた。各階の高い天井と広い空間は残しつつ、各所が効率よく連動できるようにな。この形と色は、防風と迷彩の役割だ。角がない円筒形の方が海風を逃がしやすい。それに、外壁のレンガには石灰を混ぜて塗ってある。この島の周辺は霧が発生しやすいからな、白くしておけば霧に紛れて外海から見つかりにくくなる」
「なるほど!」
見上げれば、工場の外壁には巨大な水車が八基も設置され、ラグーナの汽水を絶え間なく汲み上げ、屋上の巨大な貯水槽へと次々に運び込んでいる。
「さあ、中を見せてやろう」
◆◇◆◇◆
マルコさんに案内されて工場の中へ足を踏み入れると、凄まじい熱気と、規則正しい機械の駆動音が全身を震わせた。
「うわぁ…すごい!」
アディが目を丸くして感嘆の声を漏らす。
動力の秘密はすぐにわかった。屋上の貯水槽に満々と蓄えられた汽水が、工場の内壁に沿って螺旋状に配置された水路を勢いよく流れ落ちているのだ。その水流が各所に無数に配置された歯車を回し、工場内の様々な作業を自動化する動力源となっている。
「一階は、高炉の基部と鉄筋の引き抜きラインだ」
ビアージョさんが指差す先では、高炉から流れ出たドロドロの鉄の液体が型に流し込まれ、冷やされながら機械へと吸い込まれていた。
「ルカ、お前が作った部品を元に、俺が引き抜き機械を完成させたぞ。金型はお前が準備した特別製だ。おかげで摩耗が全くねぇ」
轟音とともに、鉄筋が次々と均一な太さで引き抜かれ、量産されていく。魔法のような光景だ。
「ここで量産された鉄筋は、滑車と荷台を使って二階へと運ばれる」
◆◇◆◇◆
僕たちは階段を上り、二階の作業フロアを見学した。そこには、熱気とともに独特の金属の匂いが充満していた。
「亜鉛のプールだね!」
「ああ。ここで鉄筋を液状の亜鉛に浸してメッキを施す。その後、乾燥室を通ってサビに強い『亜鉛メッキ鉄筋』の完成だ。出来上がった鉄筋は再び一階に下ろされ、そこから直結した港に運ばれて、すぐに防波堤の建設現場へと向かう仕組みになってる」
無駄のない完璧な動線。技術と運用が見事に融合している。
「ちなみに三階はなんだと思う?」と、マルコさんが悪戯っぽく笑った。
「僕の設計通りなら…汽水の濾過と蒸留?」
「正解だ。高炉の熱と水車の動力を利用して、大量の真水と塩をありえない速度で量産している。真水はこの工場や島での生活用水に使い、塩はセレニア共和国が買い取ってくれる契約になってる」
ただ鉄を作るだけでなく、副産物の塩で利益まで生み出す。セレニア共和国の富の源泉である塩をこんな効率で量産できれば、莫大な利益になるはずだ。
「塩の買い取り!?そんなことをいつのまに!?」
「ロレンツォさ。おれたちがタダ働きにならんように考えてくれた結果だ」
僕が感心していると、マルコさんが呆れたような、しかし深い敬意の込もった声で口を開いた。
「ルカ、お前の兄貴のロレンツォ…あいつは本当にすげぇな」
「うん…」
「俺が『タールが欲しい』と言えば、翌日にはアルセナーレ(国営造船所)から大量のタールが運ばれてくる。『火山灰と石灰が倍くらい欲しい』と言った時も、三日後には話をまとめてきたと伝えてきやがった。まるで魔法でも使ってるんじゃねぇかと錯覚するくらいだ」
マルコさんは大きく首を振りながら笑った。
「二日とあけずにこの島に来て、進捗の確認と現場の要望を聞いて回る。今や、ここで働いている海の民で、ロレンツォの顔と名前を知らねぇやつは一人もいないだろうよ」
商会の若きリーダーとしての兄さんの辣腕ぶりに、僕も思わず胸が熱くなった。ロレンツォ兄さんの完璧な後方支援があるからこそ、この規格外の工場は成立しているのだ。
「ところで、ランさんはどこに?」
「ランなら、六日前からずっと防波堤の建設現場で指揮を執ってるぜ」
マルコさんが外洋の方角を親指で指した。
「海底調査した結果、当初の計画よりも防波堤の規模を大きくすることにした。幅三十メートル、長さ二百メートル、高さ十五メートルだ。今は、基礎となる大量の杭を海底に打ち込みまくってる真っ最中だな」
「そんなに!?…すみません、僕の見積もりが甘かったせいで…」
「なに言ってんだ!この程度の変更なんざよくあることよ!気にすることじゃねぇ!それよりも推測だけで、この工場や防波堤の基本的な設計をしたことの方が驚きだ!」
「ああ、実際に動かしてみるとよくわかる。ルカ。お前さんが、おれのとこで試験的に作った炉などが身になった設計だってことがな!」
ビアージョさんが感心したように頭をなでてくれた。
「そういえば、ビアージョさんの鉄は?」
「ああ、しっかりと使わせてもらってる。後で見てみろよ。おれの弟子たちが、液体になった鉄の一部をちょろまかしてる姿をな!」
そう言ってビアージョさんは笑ってくれた。思うところはいろいろあるのかもしれない。でも、現状を楽しんでくれている感じもする。僕はほっと胸をなでおろした。
「それで?ルカ。お前の船はいつからやる?」
マルコさんが期待を込めた眼差しで聞いてきた。
「近日中に始めたいと思います。準備したいことを全部終わらせてから」
「そうか。楽しみにしてるぞ。その時は声をかけてくれ。いつでも大丈夫だ!」
「ありがとうございます!」
◆◇◆◇◆
船に乗り、帰ろうとした時、気になったことをルーチェさんに聞いてみた。
「ルーチェさん、言いたくなければ別にいいけど…マルコさんとなにかあるの?」
するとアディが笑いをこらえ始めた。え?どういうこと?
「たいしたことじゃありませんけど…父親なんすよ…」
「え!?」
「ルカ!ルーチェはね、マルコおじさんの娘さんなの!」
「ええええええ!?」
(第94話「ウルカニアの変貌」終わり)
◆◇◆次回予告◆◇◆
「アディです!ウルカニア島の工場、すごかったよ!大きくて白い建物で、中では鉄筋がどんどん作られてた!マルコおじさんとビアージョさんが頑張ってくれて、ロレンツォ義兄さんも裏でたくさん支えてくれてたんだって!ラン兄さんも頑張ってるし、みんなすごい!私も頑張らなくちゃ!」
「次回、『国と国と国』。セレニアをとりまく状況」




