第93話「望遠鏡」
すっかり元気になったアディの声が微かに聞こえる。今日は、チェチリア先生とのラティーナ語のお勉強をしていた。
最近のアディは、ラティーナ語を流ちょうに話すようになったし、読み書きもスムーズにできるようになった。習い始めてから一年もたっていないのにすごい進歩。負けちゃいそう。
僕はと言えば、相変わらずの研究所(仮)で、望遠鏡の部品に向き合っていた。
チタン製の鏡筒と、アディ特製・透明CNF製のレンズになるはずの円盤状のものが五枚。…そして、失敗して使いものにならなくなったレンズの残骸が複数枚。
光をかき集めるための「対物レンズ」と目を当てるための「接眼レンズ」を作りたいんだけど、なかなかうまくいってくれない。
事前に、必死に思い出した光学計算を綿密におこなった。検算を何度もして、計算としては間違いないと思える数値を割り出したけど…。
僕がおこなっているのは、レンズの研磨ではなく、スキル『圧縮』。
本来であれば、CNFはレンズには向かない。だって、元が木材だけにどうしても吸水して変形しちゃうから。でも、僕が今回作成したCNFは、分子間距離を水素結合の限界まで押し込めて隙間を無くしているから、水分子すら入り込めない特別製。これは、船の構造体を作る実験をしている時に気づいたこと。ここまで作り込んでおけば、さすがに大丈夫なはずさ。
最初はね、『厚みを変える圧縮』と『密度を変える圧縮』を使い分けることで、物理的なカーブ以上の性能を持つレンズが作れるかも!なんて考えていたけど、そんな簡単なものじゃなかった。
熱収縮がおきたり、屈折率のムラができたり、ミクロン単位の「うねり」が解像度を致命的に奪ったりと散々な出来。でも…。
「…できた…ようやく…」
試しに紙に書いた文字にかざして確認してみたけど、倍率による歪みは計算通りゼロに近い。端の方でも歪んでは見えない。ちゃんと凸レンズになってる。
「…もう一つ?これを…?」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
今しがた完成させたのは、光をかき集めるための大きな対物レンズだ。それだけで僕の集中力は限界に近い。
だが、望遠鏡はこれだけでは完成しない。集めた光を網膜へと正しく届けるための接眼レンズが不可欠。
対物レンズが目標を捕まえる網なら、接眼レンズはそれを「人の目」に適した情報に変換する窓。
しかも、接眼レンズには、対物レンズとは異なる厄介な計算が待ち構えている。
「…色収差」
光は、色によって屈折率が違う。青は鋭く曲がり、赤は緩やかに曲がる。単一の素材でレンズを作れば、光の加減で虹色の縁取りが漏れ出し、像はぼやけてしまう。
これを打ち消すには、特性の異なるレンズを組み合わせるか、あるいは…。
「材料工学の意地を見せるしかない。分子構造を層状に変化させ、波長ごとの速度差を相殺してやる!」
僕は再び、アディ特製の透明CNF円盤を手に取った。
今度は『圧縮』の精度をさらに一段階引き上げる。
単なる密度勾配じゃない。ナノレベルで圧縮比率を変え、原子レベルで密着させた多層構造を一枚の中に押し込むんだ。
作業は、対物レンズ以上の静寂の中で進んだ。
一回目。圧縮のタイミングがわずかにズレ、界面で光が乱反射した。レンズが白く濁る「失透」。失敗。
二回目。形状は完璧だったが、覗き込む角度がズレると像が黒く欠ける「ブラックアウト」が起きた。計算上のアイレリーフ(覗きやすさ)が確保できていない。失敗。
右手が熱を持ち、視界がチカチカする。
外からは、アディの楽しそうなラティーナ語の唱和が聞こえてくる。その明るい声が、折れそうな僕の心を辛うじて繋ぎ止めていた。
「…ここだ。光の出口を、網膜に最適化する」
最後の一押し。
レンズ表面に、反射を極限まで抑える微調整をしていく。
「…いけた…?」
完成したそのレンズは、光を反射せず、まるでそこだけ空間に穴が開いたような、吸い込まれるような漆黒を湛えていた。
『良いレンズほど、正面から見ると真っ黒に見える』
まさに、この状態になったんじゃないかな。…そうであってほしい…。
対物レンズと接眼レンズを、鏡筒にセットしてから窓の外を見た。
建物の隙間からは、先日、兄さんたちと一緒に行ったヴィトリア島が小さく見える。
僕は、そこに望遠鏡を向けレンズを覗き込んだ。
対物レンズが捕らえた膨大な光の情報が、接眼レンズという狭い門を通り、僕の視神経へと流れ込んでくる。
「見える…見えるよ…」
ヴィトリア島のレンガ造りの建物がはっきりと見える。レンガの隙間までくっきりと。
「…できた…これ、今までで一番大変だったかもしれない。『真理の天秤』が簡単に思えるくらい…」
◆◇◆◇◆
僕が放心状態で天井を見つめていたら、アディがやってきた。
「ルカ!」
「あ、アディ。ラティーナ語の勉強は終わった?」
「うん!…って、ルカ、すごく疲れてるみたいだけど、大丈夫?」
「ははは、ちょっと集中しすぎちゃったみたい」
僕はゆっくりと身を起こし、作業台の上にある完成したばかりの望遠鏡を指差した。
「見て。アディの透明CNFのおかげで、ついにレンズが完成したよ。チタンの鏡筒に組み込んで、形としてはもう望遠鏡だ」
「わあ!すごい!これであの遠くが見える道具ができたの!?」
アディが目を輝かせて、銀色に鈍く光るチタンの筒に手を伸ばそうとする。
「あ、待って。まだ最後の一手間が残ってるんだ」
「最後の一手間?」
きょとんとするアディに、僕は頷いた。
「うん。このままだと、海上で使った時に問題が起きる。海の上は気温の変化が激しいから、鏡筒の中に普通の空気が入ったままだと、温度差で内部の水分が結露して、レンズが内側から曇ってしまうんだ」
「内側から…それだと、拭きたくても拭けないね」
「そう。せっかく完璧なレンズを作っても、曇ってしまったら使い物にならない。だから、中の空気をどうにかしないといけないんだけど…」
前世の高級な光学機器では、内部の空気を抜いて真空にするか、あるいは乾燥した窒素ガスを充填して完全密閉するという方法がとられていた。
真空にするのは、レンズを引っ張る圧力がかかって歪むかもしれないから少し怖い。なら、窒素を詰めたいけれど、この世界に窒素ボンベなんて当然ない。
「…待てよ?」
空気の約八割は窒素だ。そして残りが酸素や二酸化炭素、わずかな水分など。
僕は今まで、金属や木材などの「固体」や、水などの「液体」に対して『圧縮』スキルを使ってきた。
でも、対象が物質であるなら…『気体』だって圧縮できるんじゃないか?
僕はチタンの鏡筒を右手で包み込むように持ち、意識を集中させた。
空気中から水分と酸素を弾き出し、窒素だけをかき集めて、鏡筒の中に押し込むイメージ。気体の分子を捉えるのは固体よりも遥かに難しいのかもしれない。これまでのような明確な手ごたえがない。
でも…小さな取っ掛かりは感じる。これが気体の感触…?
「…圧縮!」
プシュッ、と微かな音がして、鏡筒の中に高密度の気体が封入された確かな手応えがあった。
できた!気体もいける!
僕は急いでチタンの接合部をスキルで完全に融着させ、一切の隙間がない完全密閉状態を作り上げた。これで絶対にくもらない、窒素充填仕様の完全防水・防曇望遠鏡の完成だ!
「ルカ、今なにかしたの?」
「うん!望遠鏡の中に、曇り止めの魔法をかけたんだ。…さあ、正真正銘の完成だよ!外で試してみよう!」
◆◇◆◇◆
僕とアディは、港へとやってきた。
春の海風が心地よい。港には今日もたくさんの船が行き交っている。
「まずは僕から覗いてみるね」
僕は望遠鏡を右目に当て、はるか遠くの海上を飛ぶ海鳥を見てみた。
「…っ!!」
思わず息を呑んだ。
すごい。やっぱり凄すぎる。視界の端が歪む「球面収差」も、色が滲む「色収差」も全くない。限界までこだわった多層構造の接眼レンズのおかげで、まるで数メートル先にその海鳥がいるかのように、羽の一枚一枚まで鮮明に見える。
しかも、チタンとCNFの組み合わせだから、こんなに太くて立派な筒なのに驚くほど軽い。
「アディ、君も見てみて!あっちの方向!」
「わあ、貸して貸して!」
アディが両手で望遠鏡を受け取り、僕が指差した沖合の方角へとレンズを向けた。
「…えっ!?うそ、なにこれ!」
アディが望遠鏡から目を離し、周囲を見渡す。気持ちわかるなあ。今見た光景が、遠くのものじゃなくて、目の前にあるんじゃないかと疑うよね。
「ルカ…?」
「望遠鏡って、そういうものなんだ。もう一回見てみて」
「うん!」
アディは再度、望遠鏡を覗いた。
「…すごい!あそこの船の甲板にいる船乗りさんの顔まで見えるよ!」
「ふふ、大成功だね」
「うん!…あ、ねえルカ。あっちも見ていい?」
アディは楽しそうに望遠鏡の向きを変え、工場が作られている『ウルカニア島』の方角へとレンズを向けた。
ウルカニア島はここから船で、普通なら一時間近くはかかる距離だ。目を凝らせば、島を覆う森の深い緑が潮騒の向こうに透けて見える。
望遠鏡を覗き込んだアディが、突然ピタッと動きを止めた。
「…ルカ?」
「どうしたの?」
「ウルカニア島…なんか、ものすごく大きな建物が見えるよ?」
「え?」
「あっ!もくもくって、煙もあがってる!煙突みたいなところから!」
「ごめん!ちょっと貸して!」
僕は慌ててアディから望遠鏡を受け取り、ウルカニア島の方角を覗き込んだ。
「…うわっ、本当だ」
レンズの向こう側。
つい先日まで、ただのうっそうとしたハンノキの森だった島に、巨大な白っぽい建物が見える。周囲の薄い霧に、色が同化しているからか、よく見ないとわからないくらいだ。
「もうできたの!?いくらコンクリートの硬化が早くて、海の民の人たちの手際が良いって言っても、早すぎない!?」
「マルコおじさんたち、すっごく頑張ってくれたんだね!」
◆◇◆◇◆
ウルカニア島の信じられない光景に驚きながら、僕たちは急いで屋敷へと戻った。
玄関を開けると、ちょうど帰ってきたらしいロレンツォ兄さんと鉢合わせた。
「お、ルカ。ちょうどいい」
「兄さん!ウルカニア島のことなんだけど…!」
「その件でマルコさんから伝言だ」
兄さんは呆れたような、それでいて愉快そうな顔でニヤリと笑った。
「伝言?」
「ああ。『工場が本稼働するから、二日後に来い』…だとよ」
「ふ、二日後!?」
本稼働って、つまり工場のラインを動かして、鉄筋の大量生産を本格的に始めるってこと!?
僕が計画したとはいえ、あの規模の工場建設がこんなに早く形になるなんて。あの海の民の機動力とコンクリートの組み合わせ、控えめに言ってチートすぎる。
驚きで目を白黒させる僕の横で、アディが無邪気に笑っていた。
(第93話「望遠鏡」終わり)
◆◇◆次回予告◆◇◆
「アディです!ルカが望遠鏡っていうすごいものを作ったの!遠くのものがすぐそばにあるみたいに見えるの!すごいよね!それで、ウルカニア島にもう大きな建物が建ってるのが見えちゃった!見に行くのが楽しみ!」
「次回、『ウルカニアの変貌』。ルカとマルコの技術融合」




