第92話「見晴るかす未来」
あれから二日がたったけど、アディはまだ眠ったまま。
ロレンツォ兄さんが手配してくれた修道士医師の見立てでは、極度の疲労によるものとのことだった。命に別状はなく、ただ回復を待つしかないという診断に、家族全員が胸をなでおろした。
僕はずっとアディの側についていたかったけど、看護をしてくれていたルーチェさんに止められてしまった。
「女の子には、愛する人に見られたくないものもあるんですよ?」
ルーチェさんに悪戯っぽくウィンクされ、背中を押されてしまえば、引き下がるしかないよね。その言葉の意味がなんなのか気にはなるけど…。
僕は後ろ髪を引かれながらアディの部屋を後にし、研究所(仮)へと足を運んだ。
あ、透明なCNF、テーブルの上に置きっぱなしだった。
正確には「置いてあるはず」なのだが、認識するのが難しい。指先でそっとテーブルの上を探り、その硬く滑らかな感触に触れて、ようやくそこにあることが認識できるレベル。
改めて見ても、感動するくらいに透明。
僕はその見えないシートを両手で持ち上げ、窓からの光に透かしてみた。
CNFにこんな可能性があるなんて考えもしなかった。アディのスキルのおかげで、今の状態は分子が完全に一方向へ整列しつつ、内部が「3Dハニカム構造(立体的な六角形)」になっている。
未知の素材すぎて、すべて推測でしかないけど…。
鉄の五倍以上の強度。鉄の五分の一以下の軽さ。圧力分散、断熱、耐衝撃、防振、防音。
試しに、作業台にあったタングステンの金槌で叩いてみたが、傷一つつかないどころか、打撃音すら吸収してしまい、空を切るような音しか鳴らなかった。
オイルランプの火にあててみても、まったく火がつきそうな気配すらない。通常のCNFなら、火にあててると黒く炭化する。しかし、これは色すら変わらない。
間違いなく、CNFの弱点だった熱に対しても強くなっている。鉄の融点とかのとんでもない数字の熱だと、さすがに耐えることは無理だろうけど、数秒程度ならそのくらいの熱でも大丈夫そう。
この性能に加えて、透明にすることもできることがアディのおかげで実証済み。
透明にできるということは、特定の角度からは透明に見えるけど、別の角度からは見えない「プライバシー・シールド」のような効果を付与することも可能ということなんだよなあ。
…なんなの…このとんでもない素材。
今考えるとCNFの作り方を誰にも教えなくて良かったと思う。厳密に言えば、僕がスキルで作っているCNFではなくMFC(マイクロフィブリル化セルロース)なんだけど、特性はほぼ一緒だしね。
作り方自体は簡単だ。木材を粉砕して、灰汁で長時間煮込む。煮込んだ木材を石臼で相当の回数(たぶん数千回)挽く。挽き終わった液体を念入りに濾す。抽出した液体を型に入れ、天日干しや弱い火力で水分をじっくり飛ばす。完全に乾燥させて完成。
手間はものすごくかかるけど、スキルがなくても作ることはできる。作り方さえ知っていれば誰でも作ることができるのがMFCだ。
もし…もしだよ?誰かにこの作り方を教えてて、アディのスキルを知った誰かが、アディに協力させて…あ、ダメだ…ものすごく怖い想像になった。MFCの作り方なんて、自然にたどり着くわけがないから、考えないでおこう。
ともあれ、この新しいCNFの可能性を考えておこうかな。アディのスキル次第だから、アディの体調が落ち着いてからだけどね。
まず、望遠鏡は決まり。
他は…。
研究所(仮)の扉が勢いよく開き、ルーチェさんが飛び込んできた。息を切らして満面の笑みを浮かべている。
「ルカ様!アディ様が目を覚ましましたよ!
「え!?」
僕は椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がり、ルーチェさんを追い越して、全速力で駆け出した。
◆◇◆◇◆
「アディ!」
ベッドの上で、上半身を起こしたアディがこちらを見ていた。
顔色はまだ少し青白いけれど、その大きな瞳はしっかりと僕を捉え、ふわりと柔らかい笑みを浮かべてくれた。
「ルカ…。おはよう、なのかな?」
「アディ…っ、よかった…本当によかった…!」
僕はベッドの傍らに膝をつき、彼女の両手を自分の手でぎゅっと包み込んだ。
温かい。あの日、氷のように冷え切っていた彼女の手に、確かな生命の熱が戻っている。そのことが嬉しくて、視界がじんわりと滲んだ。
「ごめんね、ルカ。私、迷惑かけちゃった。ルカがすごく心配してる声、遠くの方で聞こえてたのに、全然目が開かなくて…」
「迷惑だなんて思ってないよ!でも…もう、あんな無茶はしないで」
僕が少しだけ強い口調で叱ると、アディはシュンと肩を落とし、申し訳なさそうに視線を彷徨わせた。
「…うん、ごめんなさい。でもね、あの時、もう少しで『届く』って感覚があったの。ルカがいつも一生懸命考えて、すごいものを作ってるから…私も、ルカの役に立ちたくて。私にしかできないことで、ルカを助けたかったの」
その純粋すぎる思いに、胸が締め付けられた。僕の役に立ちたい。ただそれだけのために…。
「僕こそごめんね。無理させたのは僕だ。急ぎすぎたかもしれない」
アディを真剣な目で見つめると、頬をほんのりと赤く染めて口を開いた。
「ルカ。…でもね、なんだか不思議な感覚なんだけど…」
「不思議?」
「うん。今ね、心がすごく軽い感じがするの。起きてからずっとこんな感じ」
アディが手を握り返してきた。
「スキルを使えるようになってから、ずっともどかしさみたいなものを感じていたんだけど、それがすっきりした感じがするの。今ならもっとうまくスキルが使えそうな気分」
あっ、それ!僕も知ってる感覚!レベルアップだ!
心の中ではそう思ったけど、レベルアップの概念を説明しても、わかってもらえるか微妙なのは間違いない。以前、なんて言ったっけ…あ、熟練度だ。
「熟練度があがってきたのかもね。…でも、だからってまた無茶しちゃダメだからね!」
「えへへ」
アディが太陽のような無邪気な笑顔を見せてくれて、僕は心の底から安堵の溜息をついた。
◆◇◆◇◆
長居するわけにもいかず、アディには無理をせずもう少し寝ていてもらうことにして、僕は一階の居間へと降りた。
そこには、分厚い紙束を前にした、ロレンツォ兄さんの姿があった。僕の足音で気づいた兄さんが顔をあげた。
「ルカ、アディちゃんの具合はどうだ?」
「うん、もう平気みたい」
「そりゃ良かった」
ヴァレリアさんが紅茶を運んできてくれた。僕の分もだ。香りが居間を包み、少しだけ気が軽くなる。温かいお茶は良いなあ。
「ああ、そういや、ルカ。ドージェのとこで面白い話聞いてきた。お前にも関わる話だ」
「僕に?」
「そうだ」
兄さんがニヤリと笑い、図面を僕の方へと押し出した。
そこには、水の都セレニア本島の緻密な都市地図が描かれており、主要な道路や広場が赤や青の線で細かく塗り分けられていた。
「道路網の図面?」
「石工ギルドからの発案で決まった話だがな、セレニア本島の道路をすべて敷設し直すらしい。コンクリートを使ってな」
「コンクリートで!?」
「そうだ。ただし、火山灰と石灰と水だけで練った『モルタル』を土台として敷き詰めるんだ。そこに、石工ギルドの職人たちが美しくカットした化粧石を、隙間なく整然と並べていく」
「それなら凹凸が出にくいから、景観的にも利便性的にもすごくいいと思う!」
「お前が作った基礎技術の応用だ。石工ギルドの職人どもも、コンクリートの利便性にすっかり惚れ込んじまったらしいな」
兄さんは満足げに頷き、さらに言葉を続けた。
「景観が美しくなるだけじゃねぇ。これが完成すれば、セレニア本島が長年悩まされてきた『高潮』による被害が激減する」
「高潮の被害が…あ、そうか!」
僕は図面を見つめながら、その理屈を瞬時に理解した。
セレニアは海の上に木の杭を打って作られた人工島だ。だから地面が低く、潮位が上がると水が石畳の隙間から染み出してきて、街中が水浸しになってしまう。ひどい時には、護岸を乗り越えてきて甚大な被害をもたらす時もある。
でも、水を通さない性質を持つモルタルで地面全体を厚くコーティングし、さらにその上に化粧石を敷き詰めて道路全体をかさ上げすれば、海水の浸み出しを軽減できるのではないかという話だ。
ただ、その計画だと懸念点もある。
「兄さん、ドージェに伝えてほしい。その計画に加えて、道路自体に水が流れるような角度をつけることと、その道路に対して排水溝を必ずつけること。そして、道路敷設と同時に、護岸工事によるセレニア本島全体のかさ上げを実施した方がいいことを」
「道路の角度と排水溝と護岸な…なぜだ?」
「コンクリートで敷き詰めた道路は、今度は雨を吸収しなくなる。つまりきちんと排水してやらないと、これまで以上に大変なことになるよ。そして、高潮対策を考えるなら、護岸も一緒にやらないとダメ。高潮時に、コンクリートによって行き場を失った海水は、コンクリートによって蓋されていない、弱いところから噴き出してくる。どこかの家の真下から噴き出したら、目も当てられないよ」
「…それはまずいな」
「案自体は良いんだよ。でも、敷設した後の影響が考えられていない。本当なら、島全体をコンクリートでかさ上げしたいくらいだ」
「ふむ、確かにな…マルチェッロ家は、ご先祖様のおかげで、ドージェだった時代に、大幅にかさ上げしてある。だが、そうではない場所の方がたくさんあるものな」
「だよね。だから、道路だけではなく、セレニア本島全体での開発計画を再検討してほしい旨を伝えてもらいたい。お願いします」
「わかった…助かったぞ、ルカ」
兄さんが頷いた。
せっかくの計画を否定するような意見なのに、しっかり理解したうえで快く了承してくれるロレンツォ兄さん。本当にありがたいなあ。
僕には協力してくれる人も、理解してくれる人もたくさんいる。僕を支えてくれる手のひらが、こんなにもたくさんあるんだ。
見晴るかす未来が待っている。僕はそれを、確信していた。
(第92話「見晴るかす未来」終わり)
◆◇◆次回予告◆◇◆
「ここまできたら望遠鏡作りたい!スキルで作れば、僕しか作れないものだから、技術流出の恐れもないしね。ただ、光学計算式を思い出さなくちゃなあ。昔、必死に勉強した時に使った『材料・化学系技術者のための光学入門』が手元にあれば!…無理だけど!」
「次回、『望遠鏡』。遠くに見えるあれは…?」




