07:精霊王イエリディス
夜の闇の中にあっても、精霊界は静謐の青白い光に包まれていた。
時忘れの森とは違う、背の高い樹木に囲まれた青い森。柔らかな草地に生えるのは瑞々しい花々だけでなく、精霊界を青く染める水晶がそこかしこに群生している。
淡く発光しているのか、精霊界の夜を照らしているのはその水晶のようだ。地面だけでなく木の幹にも所々生えており、それが天然のランプの役割を担っているらしい。
小川のせせらぎに合わせて、小さな光がくるくると舞っている。光の飛んでいく方を見上げると、アンティルーネと似たような小さな精霊が木の影からこちらの様子を窺っているのが見えた。秘された国に訪れたレティシアたちがめずらしいのだろう。
礼儀としてレティシアが軽く頭を下げると、「きゃー」と可愛らしい声をあげて森の向こうへ飛んでいってしまった。
「私の役目はここまで。あとはよろしくね。騎士さま」
「ここで放り出されても困るんだが」
「その白い花を辿っていけばお城に着くわ。私、こう見えても忙しいのよ。あなたたちのお部屋の準備もしなくっちゃ!」
「部屋?」
「そうよ。今夜はここにお泊まりするって、精霊王様から伺ったわ。お部屋は一緒でいい?」
「別に決まってるだろう!」
思わず吹き出しそうになるのを堪えてそう言うと、なぜかアンティルーネが残念そうに頬を膨らませた。
「女心がわかってないのねー。お姫様も、もっと気の利いた殿方にした方がいいんじゃない?」
「えっ? えっ、……あのっ、それは」
急に話を振られて、レティシアがおもしろいくらいに声を詰まらせた。何なら咳き込む勢いだ。
アンティルーネは言動も少し大人びていて、顔を赤くしたまま俯くレティシアの方が年下に見えるくらいだ。精霊という種族だから、見た目のわりに長く生きているのかもしれない。
からかうようなアンティルーネの物言いは、龍神界の大人たちとよく似ている。たまにそうやってからかわれていたことを思い出すと、苦い記憶にアレスの眉間が深い皺を刻んだ。
「冗談はもういいだろう。用があるならさっさと行け。俺たちは城へ向かわせてもらう」
「はいはい。邪魔者は消えるわよ」
慣れた様子で軽くあしらうと、アンティルーネもさほど気にしない様子ですいっと森の奥へと飛んでいく。残された二人の間には少しだけ気まずい空気が流れたが、それもアレスが一歩足を踏み出すことで意識は自然と本来の目的へと引き戻された。
「俺たちも行くか」
「……はい」
緩やかに蛇行して伸びる小道の両端には白い小さな花が咲いており、薄暗い道の先をほのかな灯りで照らしている。その白い花が導く先に、濃紺の影を落とす大きな城が見えた。
距離はあるが、歩いて行けないほどでもない。それに普通であれば目にする機会もなかった精霊界だ。この機会にじっくりと堪能しながら行くのも悪くないと、そう思って隣を窺い見れば、案の定目を輝かせて周囲を眺めているレティシアの姿があった。
小川のほとりにはクリーム色をした光の花が群生している。そっと踏み分けて入ると、丸い光がふうわりと舞ってレティシアの頬を優しく撫でた。精霊界の入口で見た花畑と同じだ。
小川の底にも蒼水晶が咲いており、流れる水さえ控えめな光源となって精霊界を照らしている。水辺の、少し湿った空気を胸いっぱいに吸い込むと、それだけで体の疲れが癒やされていくようだ。
「とても……美しい場所ですね」
どこまでも透き通った小川の水に触れて、レティシアがほぅっと小さく息を漏らした。しゃがんだレティシアの周りには光の綿毛がふわふわと舞っていて、まるで一枚の完成された絵画のようだ。
ガラでもない。そう思うのに、レティシアから目が逸らせない。現実から切り離された幽美な風景に、自分でも驚くほど心が凪いでいるのが分かる。張り詰めていた緊張が解れ、自然と頬が緩んでも、アレスはその笑みを隠すことはしなかった。
少し歩いてはめずらしい植物に目を奪われ、また歩いては精霊に声をかけられて立ち止まる。城への距離は一向に縮まらなかったが、楽しんでいるレティシアを見ていると急ぐ気にもなれなかった。
「ようこそ、オルディオへ。お花をどうぞ」
すれ違いざまに二人組の精霊から手渡されたのは一輪の白い花だ。道標に咲くものとは違って、五枚の花びらの縁が薄青に染まっている。水辺に咲いていたものなのか花びらには水滴が付いており、鼻を近付けなくとも瑞々しい清涼な香りがした。
「はじめて見るお花ですね。天界に咲くレイメルに似ていて、とても綺麗です」
アレスが持つ花をめずらしそうに見つめるレティシアの表情は、好奇心に紛れてかすかな憂いが垣間見える。
「レイメルは知らないが、この花は……お前に似合う気がする」
理由のわからないレティシアの憂いを取り去るように。アレスはほとんど無意識に、白い花をレティシアの髪にそっと飾った。
想像通り、白い花はレティシアの銀髪によく映えて美しい。耳元の髪に触れたまましばらく見つめ合っていると、やがてアレスの指先でレティシアの頬がぼんっと紅潮した。そこでようやく見つめ合っていることに気付いたアレスが、だらしなく緩む顔を悟られる前に慌てて身を翻した。
「そろそろ行こう。精霊王が待っている」
「……は、はい」
足早に歩いて行くアレスの表情は見えなかったが、何となく耳が赤いようにも思える。物言わぬ背中を見つめながら、アレスも同じように照れていればいいと……そう考える自分に、レティシアはまた頬が赤くなるのをとめられなかった。
城というわりには、入口に衛兵らしき姿はなかった。重厚な扉はレティシアたちが到着すると同時に勝手に開き、花の道標の代わりに壁に取り付けられたランプの明かりがポッと灯る。その灯りが導く先へ進むと、次の扉もまた道を空けるようにゆっくりと開いてレティシアたちを奥へと誘う。
元々ひとの目から隠された国だ。来客すら稀なこの国では、侵入者を警戒する必要もないのだろう。
その証拠に、花を敷き詰めたガラス張りの床の先――木の蔓を編んで作られた王座のそばにも精霊王以外の姿は誰ひとり見当たらなかった。
「我が精霊界へようこそ、客人よ」
ゆったりとした白い服に金色の腰帯。素足には草花を編み上げたサンダルを履いており、その足元にまで届く長い髪は宵闇を思わせる濃紺に染まって床の上を流れている。
王座の肘掛けについた右手に顎を乗せたまま、興味深げにこちらを見つめるのは精霊界の王イエリディスだ。頭に被った王冠は深緑。草木を編んだだけのそれは質素で、けれど身に纏う雰囲気はこちらが声をかけるのを躊躇うほどの威圧感に満ちていた。
「メルドールから手紙をもらった時は驚いたが……なるほど、神龍の加護を求めるのがお前なら納得だ」
「どういう……」
「お前はジークの息子なのだろう? その深緑の瞳、そっくりだ」
「っ、知っているのか!?」
そう口にした後で、アレスはばつが悪そうに自身の口元を手で覆った。相手は精霊界を統べる王だ。対して自分は龍神界の田舎に住む、ただの竜使い。敬意を払わねばならない相手だと分かっていても、王族に対する挨拶の仕方も知らないアレスはここに来て自分の無知を呪った。
「アンティルーネから詳細は聞いている。そう萎縮せずともよい」
何の詳細かと一瞬戸惑ったが、そういえば話の流れでアンティルーネに「作法も知らない」と言ったような気がする。それがそのまま伝わっていたことに唖然としたが、結果的にアレスが苦手とする礼儀作法を省略できたのだから、これはこれで良しとするべきか。
そんなことを考えているうちに隣でレティシアが簡易的な挨拶を終えており、精霊王のすべてを見透かすような瞳が再度アレスへと向き直った。
「ジークのことは残念だった。惜しい人間を失ったが、どうやら彼の思いは子のお前に受け継がれているようだな」
「それは、どういう……」
アレスの父ジークが魔界跡で消息を絶ってから、もう十年が経っている。アレスの中でも記憶は過去として既に錆び付いているのに、精霊王の口振りではまるでつい先日起こった出来事のようだ。その違和感が顔に出ていたのだろう。アレスの戸惑うような視線に、イエリディスが困ったように笑った。
「我々精霊族は、時の流れが非常にゆっくりでな。外界ともあまり深く関わりを持たぬゆえ、世界の……強いて言えば人の動きに疎いところがあるのだ。長く生きていると、人が感じる時間の流れがわからなくなる」
そう言ったイエリディスは、傍目には三十代後半くらいだ。ジークのことを知っているということは、天界で行われていた会合に参加していたのだと想像が付く。
精霊族がどれくらいゆっくり年を取るのか想像もつかなかったが、もしかしたらガッシュと同じか、あるいは彼より年上なのかもしれない。そう思うと、自然とアレスの背筋が伸びた。
「とはいえ、自然界の変化には敏感でな。少し前から魔界跡ヘルズゲートを覆う闇が濃くなってきている。近くに住む精霊たちの中にも体調を崩す者が現れてきたのだ。ちょうど我が息子ルネリウスを調査に出したところで、今度はお前たちが来たというわけだ」
手にしていたメルドールからの手紙を一瞥し、イエリディスが探るようにアレスの目をまっすぐに見つめてきた。
「メルドールからの手紙によれば、お前たちは魔界跡ヘルズゲートへ向かうため、神龍の加護を欲しているそうだな」
「メルドールが、精霊界は今も神龍を守り続けていると言っていた。神龍イルヴァールは……生きているのか?」
「生きているかどうかは、我にもわからぬ。月下大戦後の神龍の記録は何ひとつ残されてはいないからな。ただ我を含め歴代の精霊王は、「龍のゆりかご」を守る使命を負っている」
「龍のゆりかご?」
「見たことはない。ただ時が来るまで守れと強く伝えられている」
理由のわからない不快感が、アレスの背筋をぞわりを這う。まるで見えない糸に絡め取られ、知らずと決められた道を歩かされているようだ。
精霊王に伝えられている「その時」が「いま」なのかはわからない。ただ神龍イルヴァールの加護を求めて訪れたアレスたちに、それはあまりにも都合のいい道標だ。
仮にも月下大戦で魔界王を討ち滅ぼした神龍が闇に染まっているなどあり得ない話だが、消化不良の気持ち悪さだけはアレスの心の奥にひっそりと刻まれた。
「龍のゆりかごは、時忘れの森の果て――微睡みの蒼湖水にあると言われている。湖に行くのは許可するが、そこでお前の望む加護が得られるかどうかまでは保証できない」
「充分だ。感謝する。……正直、もっと警戒されるものかと思っていた」
「お前は龍神界の民だ。もしかすると、神龍の声が聞こえるかもしれない。それに、お前の目的に興味がある」
「目的?」
「そうだ。メルドールの手紙には、結晶石の謎を解くべく魔界跡へ向かうこと。そのための力として神龍の加護を欲していると書いてあった」
「ヘルズゲートに行くために、力は多い方がいい」
「結晶石は一万年前からずっと存在してきた。天界にて繰り返し守られてきた石の謎を、なぜ今になって解き明かそうとする?」
先ほどの柔らかい印象から一転して、イエリディスの瞳に鋭い光が宿る。わずかな揺らぎも見逃さぬよう、じっとこちらを見つめる鋭利な眼差し。その視線から目を背けてはいけないような気がして、アレスは無意識に唇をきゅっと噛み締めた。
「結晶石の封印は解かれる。失った国や命も戻らない。魔界跡も滅びたままだ。今更、結晶石の謎を解き明かして何が変わるというのだ?」
アレスの背後で、レティシアがはっと息を呑むのがわかった。振り返らずとも、肩を竦めて俯くレティシアの姿が容易に想像できる。きっとガルフィアスのことを思い出しているのだろう。
無念のうちに散っていったガルフィアスの住人たち。彼らを思うがゆえに魔物に身を堕としてしまった女王エレインと、彼女を救おうと寄り添っていたレイナ。
確かに結晶石の謎を解いたところで、彼らの悲劇がなくなるわけではない。結晶石の封印は解かれるだろうし、レティシアもクラウディスに狙われたままだ。
結晶石の謎を解くこと。それはアレスたちにとって結果ではなく、ただの過程に過ぎない。だから――。
「それはレティシアが変わるためだ」
月の結晶石という、形も見えないものに囚われたレティシアを解放してやりたい。永劫封印などという悍ましい自己犠牲に頼らずとも、周りの力を借りて前に進む道を指し示してやりたい。これはその一歩なのだ。レティシアが自分の意思で歩き始めた、旅のはじまり。
「……そうか」
一言だけ声を発したイエリディスが次に瞼を開けた時にはもう、先ほどの鋭い光は瞳の奥にすっかりと溶けて消えていた。代わりにふわりと柔らかい、子を見守る親のような笑みが浮かんでいる。
「やはりお前は騎士だな」
「っ、だから……」
「レティシア殿も、よい出会いに恵まれた。その絆を大事にされよ」
「……はい」
背中越しに聞こえたレティシアの声がかすかに震えていた。けれども後ろを振り返るよりも先にアンティルーネが現れ、アレスたちは元気な彼女に連れられて謁見の間を後にしたのだった。




