06:精霊界への入口
「お前はどう思う?」
銀色の長い髪が風に揺れている。見晴らしのよい丘の上。眼下に広がるのは自然豊かな、とある王国の城下町。奥に聳える白亜の城は、まるでおとぎ話から抜け出したかのように美しい。
見上げた空はどこまでも青く澄んでいて、流れる雲の合間から注ぐ優しい陽光が女の傍らに突き立てられた剣の刃をチカチカと反射していた。
「お主はどうしたいのだ? 奴を救ってやれるだけの時間は、もうないのだ。それに……奴を救えるのは、我らではない」
女の問いに答えたのは、巨大な白い龍だ。体は白い羽毛で覆われ、背に生えた翼は六枚。女の背をまっすぐに見つめる青い瞳は、青空よりも濃く藍色に近い。
「愛は時に人を狂わせる。あの男の気持ちも、分からないわけではないのだ。――それでも」
傍らに突き立てた剣を抜き、女が龍を振り返る。青空を溶かしたような瞳に宿るのは、揺るぎない決意の光。
「止まることはできない。私たちが進む道は、常にひとつ。……つまらぬことを聞いたな」
ふっと、女が悲しげに笑う。それと同時に視界が薄れ、《《レティシアの夢》》がゆっくりと覚めようとしていた。
***
かくん、と頭が傾いた衝撃で目を覚ました。
空はすっかり日が暮れていて、西の空にわずかな夕焼けを残すだけだ。夜の帳が下り始めた濃紺の空には、小さな星が瞬き始めている。
「随分と眠っていたな」
昼頃に、人気のない森の中で休憩を取ったことは覚えている。買ってきたパンと果実水で簡単な昼食を取ったあと、しばらく目を瞑って小鳥のさえずりを聞いていたのだが……そのあとの記憶がレティシアにはまったくない。
「も、もしかして……私、お昼からずっと……?」
「まぁ、しばらく色々あったからな。疲弊するのも無理はない」
声に咎める音はなかったが、何となく笑いをこらえているような気がする。アレスの表情を確かめたい気持ちがある一方で、顔を見るのが恥ずかしいとも思う。
アレスに抱えられたことも、飛竜に乗った時に感じるであろう体の揺れも、レティシアは全く気付かなかったのだ。それほどまでに安心して寝入ってしまった自分にも驚いたが、何より無防備な寝顔を異性に見られたという羞恥心の方が勝ってしまう。
それは裏を返せばアレスに気を許しているということで。その淡い感情を知られてしまったのかと思えば、またレティシアの体に熱が篭もった。
「ごめんなさい」
「別に謝る必要はない。それにお前が眠っている間に、少し飛竜を急がせた。下を見てみろ」
促されて視線を落とすと、夕闇に染まる鬱蒼とした森が見えた。森と言うより樹海に近い広さだ。見渡す向こうまで、黒々とした樹木の屋根が連なっている。
「時忘れの、森?」
「たぶんな。メルドールは精霊界に近付けば合図があると言っていたが……」
特に開けた場所も見当たらず、夕闇漂う樹海には空よりも一足先に夜が訪れているようだ。黒々とした森は上空から見ればまるで漆黒の海のようでもあり、全くといっていいほど見通しが利かない。
このまま夜を迎えてしまえば飛竜を下ろす場所すら見つけられなくなる。森に下りられないのなら、一旦街へ戻った方がいいかもしれない。そう思ったレティシアの視界に、ふっと黄色い何かが紛れ込んだ。
「あ……」
それは小さな光だった。間隔を開けて緩やかに点滅しながら、レティシアたちの周りを浮遊している。ふよふよと右に流れて、止まる。かと思うと今度は左へ揺蕩い、動きが定まらない。風に流されているのかと思えばそうでないようで、レティシアの視線を引いているのだと気付けば、今度は目の前でぴょんっと上下に跳ねた。
「アレス。あの光は……」
「光?」
「え? 目の前に……《《いる》》んですけど」
闇に淡く点滅する光を、アレスが見落とすはずはない。目の前で今もなお跳ねる光に恐る恐る手を伸ばせば、まるで心が通じ合ったかのように光がレティシアの指先にちょこんと乗った。
「レティシア?」
「いま私の指に止まってます。見えませんか?」
「……俺には何も見えない。危険な感じはしないのか?」
「えぇ。ほんのりとあたたかいくらいで……あっ」
「どうした!」
指先から飛び立った光が、すぅーっと森へ下りていく。途中で止まって、また跳ねる様子は、レティシアたちを呼んでいるようにも見えた。
「光が森へ……ついてこいと、言ってるような気もしますが」
その先の判断を委ねるように振り返れば、眉間をわずかに寄せて森を見下ろすアレスがいた。
時忘れの森。樹海かと見紛うほどに広がる闇ではあるが、この場にもあの光にも邪悪な気配は感じられない。光がレティシアにだけ見えたのも、おそらくあれが魔力でできた「何か」だからだろう。
精霊界が隠されているというこの場所で、魔力のないアレスに感知できない光。それは言わずとも、精霊界に属するものである可能性が高い。
「何か違和感があったらすぐに知らせろ」
そう言って手綱を握ったものの、思い出したように飛竜を止める。光の飛ぶ方へ飛竜を進めたいが、アレスにはその光が見えないのだ。どうしたものかと逡巡していると、不意に手綱があらぬ方角へ引っ張られた。見ればレティシアが、その細腕で必死に手綱を引いている。
「私が案内します。早くしないと光を見失ってしまうかもしれません」
「おい。お前は扱い方が……」
アレスが止める間もなく手綱はくいっと手前に引かれ、二人を乗せた飛竜が小さく鳴いて翼を羽ばたかせた。けれども飛竜は森へ降下せずゆったりと前進して、レティシアに見える光からどんどんと遠ざかっていく。
「あ、あら? 下へ降りるには……こうかしら」
慌てて手綱を下へ引くと、今度はすいっと上昇する。慣れない上に焦って手綱を引くものだから、もう命令も何もあったものではない。困った飛竜が「クルルゥ」と喉を鳴らしてその場を旋回すると、もうレティシアがどんなに手綱を引いても向きを変えることはなかった。
「あの、下へ行きたいのですけど……」
最終的に口頭で願い出ると、飛竜ではなく声を漏らして笑ったアレスが手綱を引き取った。
「手綱を貸せ」
笑われていることは恥ずかしかったが、嫌な気持ちではなかった。何となくだが、アレスは優しい顔をして自分を見つめているような気がする。その表情を勝手に想像してしまい、レティシアは手が触れ合う前に慌てて手綱から手を離した。
「すみません」
「いや、なかなかおもしろいものが見られた。お前はたまに予想外の行動をするから目が離せない」
「え……」
「行こう。レティシア、光がどこにいるのか案内してくれ」
レティシアが声を発する前に言葉を被せて、アレスが飛竜の向きを変えた。そのままゆるりと降り始めれば、もう訊ね返す暇もなく――。レティシアは小さく刻む鼓動を押さえながら、光の行方を案内するしかできなかった。
ふっと、何か境界を越えたような気がした。肌に感じるというより、吸い込んだ空気が明らかに違う。呼吸するたびに体の内側を澄んだ水で洗われているかのような、鳥肌が立つくらいの清浄な空気だ。
畏怖すら感じる空気に思わず閉じていた瞼を開くと、アレスの目の前にはどこまでも続く黄色い花畑が広がっていた。
「これは……」
淡く発光する黄色の花畑。夜空にふわりと舞い上がっていく綿毛は星屑のように輝いていて、まるで星の誕生を見ているような錯覚に陥ってしまう。ゆっくりと着地した飛竜の周りにもたくさんの綿毛が揺れて舞い上がり、その光景はアレスでさえ言葉を失うほどに美しかった。
「こっちこっち! もう、気付くのが遅いんだから」
声のした方へ視線を向けると、綿毛よりも一回り大きな光が跳ねるようにして飛んできた。二人の目の前でぱちん、と弾けた光の中から現れたのはひとりの少女だ。しかも手のひらに乗るくらいの大きさしかない。
ツインテールのふわふわ髪は綿毛と同じ黄色。ピンク色のワンピースには腰に大きめの赤いリボンが結ばれており、裸足を飾るようにして絡みついた蔓草には白い小さな花が咲いている。その背でパタパタと羽ばたく透明の翅は、語らずとも少女の種族を明らかにしていた。
「精霊……っ!」
「そうよ。私はアンティルーネ。ずっと呼んでたのに、あなたたち全然気付いてくれないんですもの!」
「ごめんなさい。私、眠ってしまってて……」
「お姫様が眠ってても、騎士は気付くでしょう? それとも気付かないふりしてたの? そう言えばお姫様の寝顔、やけに熱心に眺めてたものね~」
意味深な笑みを浮かべてすいっと近寄ったアンティルーネを、アレスはまるで羽虫を追い払うような手つきではね除けると、眉間に深い皺を寄せたまま飛竜から飛び降りた。
「俺には魔力がない」
「えっ? 天界のお姫様を守る騎士なのに、魔力がないの?」
「さっきから騎士騎士言ってるが、俺は別にレティシアの騎士でも何でもない。ただの竜使いだ」
「えぇ? でもメルドール様の手紙には、天界のお姫様と騎士が来るからよろしくって……私、そう精霊王様から聞いたんだけど」
アレスの脳裏に、いたずらが成功した子供のように笑うメルドールの姿が浮かび上がった。真面目な話をしていた時に、こそっとそんな手紙を書いていたのかと思えば頭も痛くなるが、それも彼なりの気遣いのひとつなのだろう。……と、思いたい。
頭を抱えていた手を外して、気持ちを切り替えるために深く息を吸う。とりあえず飛竜の上にはまだレティシアが乗ったままだ。
「レティシアを守ることに異論を唱えるつもりはないが、生憎と俺は騎士なんてガラじゃない。そういう作法も礼儀も知らない無骨者だからな」
飛竜から下ろしてやろうと手を差し伸べれば、なぜか予想外に顔を赤くしたレティシアと目が合った。その青い瞳が恥じらいに揺れているの目にすると、なぜかアレスの胸にも言葉にならない思いが芽を出して、途端に居心地が悪くなる。差し出した手さえ引っ込めてしまいそうになるのを必死に堪えていると、視界の端でアンティルーネがにやにやと笑っているのが見えた。
「ふぅん。でもあながち間違いでもなさそうね」
「何がだ」
「何でもないわ。ささ、早く精霊界へ行きましょう。精霊王様にはあなたが作法も何も知らない無骨者だってこと、前もって知らせてあげるから安心してちょうだい」
そう言うと、アンティルーネの手のひらから新たな綿毛の光が生まれ出た。それは意思を持つようにくるりと飛び跳ねると、そのまま光舞う夜の向こうへ消えていく。
「アンティルーネ」
「アンでいいわ」
「なら、アン。ここは精霊界じゃないのか?」
「ここはまだ入口よ。普段は魔法で隠されているんだけど、今夜はあなたたちが来るって聞いていたから、特別に道を開いたの。精霊界はこの先よ」
アンティルーネが何もない場所でくるりと円を描いて飛ぶと、彼女に合わせて光の鱗粉が尾を描く。舞い上がる綿毛とは違って、緩やかな曲線を描き落ちていく鱗粉はさながら水の流れのようだ。
きらきらと輝く光の流れに見惚れていると、やがて鱗粉に触れて形を表したかのように大きな扉が姿を現した。
「ようこそ、精霊界オルディオへ」




