08:蒼にゆらめく
王城の裏手には、王族のみが使用することを許された水浴び場がある。地表からこんこんと湧き出る泉が小さな湖になっており、湖岸にはレティシアの髪に飾ったものと同じ花が咲いていた。
湖底にぼんやりと光るのは蒼水晶だろう。見上げれば木々の天蓋はそこだけが開かれていて、頭上からも白銀の月光が降り注いでいる。ざぱりと水中から顔を出すと、跳ね上がった水飛沫がきらきらと輝きながら湖面の波紋に吸い込まれていった。
今夜だけは特別に使うことを許された水浴び場。泉の水にも治癒効果があるのだろうか。静かに身を沈めるだけでも、アレスは体の疲れがじんわりと和らいでいくのを感じた。
こんなにも長く龍神界を離れることはあまりないため、アレスでも気付かないほど体に疲労が溜まっている。アレスでさえそうなのだから、遠出自体初めてのレティシアには負担が大きいだろう。
明日には神龍の加護を求めて、微睡みの蒼湖水へ出発する。そのあとは闇に包まれた魔界跡ヘルズゲートだ。体調を万全にしておくためにも、今夜ここで休息できたのは幸いだった。癒やしの空気が満ちる精霊界は、レティシアの体と心を穏やかに癒やしてくれるはずだ。
レティシアを助けたい一心でここまで来てしまったが、思い返せば少し強引だったかもしれないと今更ながらに思う。それでもあの時は少しでも早く、レティシアを魔法都市から連れ出したかった。そうでもしないと、永劫封印によって引き離されてしまうと焦ったのだ。
(――引き離される?)
ふっと、自分の思考に疑問が浮かぶ。これではまるで、レティシアを自分のそばへ引き止めておきたい願望のようだ。どこにも行くなと懇願する、浅ましい男の――ただの恋情だ。
「……馬鹿馬鹿しい」
そう吐き捨てて、再び頭のてっぺんまで深く潜る。水中で仰向けになると、湖底の蒼水晶に照らされた湖水が月光を浴びて蒼く揺蕩うのが見えた。
――レティシアの、瞳の色だ。
胸がどくんと鳴った。
天界の王族にのみ許された高貴な銀髪は、それだけで目を奪われるほどに美しい。加えてレティシアの容姿は同じ人間かと思うほどに完成されすぎていて、他国では絶世の美女とまで囁かれているほどだ。
地上に落ちた星屑のように輝く長い銀髪と、穢れを知らぬ澄んだ青色の瞳。線の細い華奢な体に、天界人を表す真っ白な翼。
一目見れば誰もが心奪われる美貌だが、アレスはレティシアがそんなにか弱い女ではないことを知っている。
大人しそうな外見とは裏腹に頑固で、庇護欲を掻き立てるくせに人に助けを求めない。重い使命を、そして世界すらひとりで守ろうとするレティシアに声を荒げたりもしたが、裏を返せば頼ってもらえなかったことに焦燥したのだ。
『私は……この世界を、もっと見てみたい。お兄様にも元に戻って欲しい、です。それをわがままだと言わないでくれるのなら……私は……アレス、あなたを頼ってもいいのでしょうか』
魔法都市の別室で、声を震わせながらそう言ったレティシアの姿が思い出される。強引に抱きしめた体の柔らかさまでもが肌によみがえりかけたところで、不意に湖面を激しく叩く水音がした。それと同時に、自分を呼ぶくぐもった声が聞こえる。
「……ス! だい……ですか!」
水中から見上げた水面に、月光を浴びてきらりと輝く銀髪が揺らめいて見えた。届く声音は焦っているようで、水面を叩く手も激しさが増している。何かあったのかと慌てて水中から顔を出すと、目が合ったレティシアがすかさずアレスの方へと手を伸ばした。
「大丈夫ですか!?」
「どうした?」
「どうしたじゃないです! 早く手を……っ、引き上げますから!」
何やら焦っている様子のレティシアだったが、アレスにはその理由がわからない。しばらく呆けたように見ていると、痺れを切らしたレティシアが伸ばした右手で軽く水面を叩いた。
「早くしないと、溺れてしまいますっ!」
その言葉にレティシアの意図を知り、アレスの唇がかすかに緩んだ。水中に潜ったアレスを溺れていると勘違いしたらしい。
「あ、あぁ……俺は別に溺れては……」
「死なないで下さい! 私をひとりにしないで……っ」
大丈夫だと、笑ってそう返そうとした。なのに。
レティシアの必死な声を聞いた瞬間、アレスの呼吸が一瞬だけ止まってしまった。まるで本当に溺れているかのように、胸が苦しい。
――ひとりになど、するものか。
そう心に呟いて、アレスはレティシアの白い手を掴むと、そのままぐいっと自分の方へ力任せに引き寄せた。
「……きゃっ!」
引き寄せたつもりが引っ張られ、レティシアの軽い体などあっという間に宙に浮く。かと思うと、レティシアは盛大な水飛沫を上げて湖の中へ飛び込んでしまった。
「ちょ……っ、やだ……わたっ、……泳げな……っ」
ばしゃばしゃと水を弾きながら、レティシアの体が沈んでいく。まさか泳げなかったとは予想もしておらず、引き込んだ張本人の方が狼狽えてしまう。慌てて手を引くと、勢いそのままにレティシアがアレスの胸にぎゅうっとしがみ付いた。
「落ち着け。足が付くから大丈夫だ」
濡れた服のせいで、密着した肌の感触が生々しい。気を抜くと一気に理性が吹き飛んでしまいそうで、アレスはしがみ付くレティシアの体を引き離すことで気持ちを落ち着かせることにした。それでもレティシアを不安にさせないように、両腕だけはしっかりと掴んでやる。
そうしているうちに状況を把握できたのか、水底に足を着いたレティシアが濡れた髪を頬に張り付かせたままアレスを恨めしげに見上げてきた。
「……っ、じょ、冗談にしてはひどすぎます!」
「お前が泳げないとは思わなかったが……悪かった」
「アレスは時々いじわるが過ぎますっ。お礼を言おうと思って来たのに……」
「礼?」
何かしただろうかと首を傾げると、レティシアが怒っているのか照れているのか、よく分からない表情を浮かべてぷいっと顔を逸らした。
「でも、もういいです! アレスはひとりで溺れてて下さいっ」
完全に機嫌を損ねたらしいレティシアは、アレスの腕を振り払って湖岸へと戻っていく。さすがに羽目を外しすぎたかと思う反面、顔を真っ赤にして怒る姿もかわいいと……そう思ったところでアレスの胸がまた小さな音を鳴らした。
「レティシア。おい」
「もう知りません。わたし、帰ります!」
「そっちは深いぞ」
「これくらい大丈夫です!」
振り返ることなく進んでいくレティシアの姿が、次の瞬間アレスの視界から完全に消え失せた。と同時に激しい水飛沫が上がる。
「だから言ったろう」
激しくばたつく手を難なく掴んでまたも引き寄せると、今度はしっかりと両腕の中に抱きしめてやる。相変わらず密着する肌の感触に意識を持っていかれそうになったが、それよりも目を離した隙にレティシアが溺れてしまうよりはいい。
けれどそのレティシアは落ち着かない様子で、アレスの腕から逃れようと身を捩っている。拒絶されているのかと思ったが、さっきよりも数倍赤く染まった顔を見るに、そうではないと期待した。
「あ、あの……大丈夫ですからっ」
「溺れそうになったヤツが言うセリフか?」
「それはアレスのせいです! わたっ、私のことはいいので、手を離して下さい」
「なぜだ?」
「……っ。……ふ、くが……薄い、です」
銀髪からのぞく耳朶さえ朱に染めて、レティシアが恥ずかしそうに俯いた。けれどもその額がアレスの胸元に触れると、それすら耐えきれないというように狭い腕の中で精一杯の距離を取る。
水浴びするために上着は脱いだ。薄いシャツ一枚も、今は水に濡れて肌にべったりと張り付いている。うっすらと肌を映すシャツを視界に入れないように俯くレティシアは、腕まで真っ赤にするだけでは収まらずかすかに震えてもいるようだ。
何もそんなに動揺することでもないだろうと、そう思いはしたものの、レティシアは天界の城から出たことがない箱入り娘だ。年の近い異性など兄しかいなかったとも聞いている。滅びた国ガルフィアスへ迷い込んだ時も、距離の近いアレスに対してレティシアはおかしいくらいに恥ずかしがっていた。
腕から抜け出したいというのが拒絶ではなく、ただの羞恥心であるのなら……あと少し踏み込んだ時、レティシアはどんな反応を見せるのだろう。
「レティシア」
少しだけ声を落として名を呼ぶと、腕の中でレティシアの体が大きく震えた。
「……放して下さい……」
「嫌だと言ったら?」
はっと、息を呑むのがわかった。ようやく重なり合った視線に、隠しきれない熱が絡みつく。
蒼水晶に照らされた水面のように、戸惑い揺れるレティシアの青い瞳。アレスの深緑色の瞳に捕らわれることを恐れて、震えた睫毛がそっと伏せられる。それはまるで無意識に身を委ねているようで――。
濡れた唇に吐息が触れ合うその瞬間。髪の先からこぼれ落ちた水滴が、静寂を破って水面を無遠慮に揺らした。
「……っ!」
涼やかに響く音に目を覚ましたかと思うと、レティシアの背中から二枚の翼が勢いよく弾き出された。忙しなく羽ばたく翼によって水飛沫が豪快に撒き散らされ、その勢いに目を閉じたアレスの隙を突いて、レティシアが湖の外へと飛び出していった。
「わっ、私っ、部屋に戻ります!」
そう言って一目散に走り去っていくレティシアは、その姿が闇に消えてしまうまで結局一度もアレスの方を振り返ることはなかった。
細かな波紋を揺らす水面に、レティシアの髪から落ちた花が浮かんでいる。レティシアに似合うと言って髪に飾った、名も知らぬ白い花。まるでレティシアの名残のようにゆらりと揺蕩い、アレスの胸元に流れ着く。
「……レティシア」
重なり合わなかった唇の代わりに、掬い上げた白い花にそっとくちづける。濡れた花びらは、ほんの少しだけあまい香りがした。




