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覇王綺譚  作者: 春乃こより
第一章
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5話 春が運んだ出会い

朝の柔らかな陽射しが執務室へ差し込む。


開け放たれた窓から吹き込む涼しい風が、白いカーテンを静かに揺らしていた。


コン、コン。


「おはようございます。テオ王子殿下。」


エルの穏やかな声が寝室の扉越しに響く。


返事はない。


「失礼いたします。」


静かに扉を開けると、整えられた寝室に人の気配はなかった。


エルは小さく首を傾げ、その時、隣の執務室の扉がわずかに開いていることに気付く。


そっと覗くと、窓辺に腰を下ろしたままテオは眠っていた。


頬には朝日がやさしく差し込み、昨夜から開けたままの窓では白いカーテンが風に揺れている。


窓からは、祝典を待ちわび、いつもとは違う賑わいを見せる城下街と、王城の正門へ向かういくつもの荷車や人々の行列が見えた。


エルは起こさないようそっと窓を閉めると、窓辺で眠るテオを静かに見つめた。


景色を眺めることが好きなテオらしいと思うと、エルの頬は自然とほころんだ。


その小さな音に気付いたテオが、ゆっくりと目を開けた。


「あ……エル。」


「おはようございます。テオ王子殿下。」


「もう朝……?」


「はい。本日は、年に一度のアルセリア・フローリス祝典でございます。」


その言葉に、テオははっとしたように立ち上がる。


「いけない……。」


エルは慣れた手つきでテオの身支度を整え、テオは祝典用の正装へ袖を通した。


胸元には王家の紋章。


肩には金糸の刺繍が施された深紅のマントが掛けられる。


エルは襟元を整えながら、ふと口を開いた。


「昨夜は陛下も、公爵様とのお話が夜更けまで続いていたそうですよ。」


テオは一瞬だけ動きを止めた。


「……そうだったんだ。」


そう呟くと、再び祝典の支度へ意識を戻した。


鏡の中には、幼さを残しながらも、アルセリア王国の後継者として凛と立つ一人の王子が映っていた。


「参りましょう。」


テオは鏡の中の自分を見つめる。


昨夜、父と交わした約束。


母に会いに行くはずだった夜。


その記憶を胸の奥へそっとしまい込む。


小さく息を整えると、鏡に映る王子の姿をまっすぐ見つめた。


「……行こう。」


部屋を出てしばらく歩くと、不意に足が止まる。


廊下の先。


その角を曲がれば、王妃の部屋がある。


昨夜、父と訪れるはずだった場所。


テオは静かにその先を見つめていた。


「テオ王子。」


エルが穏やかに声を掛ける。


「皆様がお待ちです。」


テオは王妃の部屋からゆっくりと視線を外した。


「……うん。」


もう一度だけ背筋を伸ばす。


そして、アルセリア・フローリス祝典が開かれる中庭広場へ向かって歩き出した。



◇ ◇ ◇



テオとエルが中庭広場へ姿を現すと、すでに多くの貴族たちが整然と並び、開祭の時を待っていた。


色鮮やかな花々で飾られた中庭広場には、アルセリア王国の紋章旗が風にはためき、城壁や回廊には祝典のために集められた無数の花籠が並べられている。


遠く城下街からは、祭りを楽しむ人々の賑やかな声が微かに聞こえてきた。


やがて、ラッパのファンファーレが高らかに響き渡る。


「国王陛下、ご入場。」


その声とともに国王がゆっくりと姿を現すと、広場に集まった貴族たちは一斉に頭を垂れた。


国王は静かに頷き、隣に立つテオへ優しく目を向ける。


その眼差しに小さく頷き返すと、テオは一歩前へ歩み出た。


中庭広場に集まった無数の視線が、一斉に自分へ向けられる。


胸の鼓動が早まる。


昨日まで何度も練習した言葉。


父の「大丈夫だ」という優しい声が脳裏によみがえる。


テオは静かに息を吸い、小さく唇を開いた。


「こ……。」


一瞬だけ声が震える。


しかし、もう一度小さく息を吸うと、まっすぐ前を見据え、澄んだ声で言葉を紡いだ。


「これより、年に一度のアルセリア・フローリス祝典を開祭いたします。」


その凛とした声が、中庭広場いっぱいに響き渡る。


広場はしばし静寂に包まれ――


やがて、大きな拍手が湧き起こる。


それと同時に、祝典の開幕を告げる空砲が高らかに鳴り響いた。


「お見事でしたな。」


「まだ幼い王子とは思えぬ堂々たるお姿でした。」


「王位継承者として、頼もしい限りです。」


穏やかな笑みを浮かべながら、口々に称賛の言葉を交わす貴族たち。


その様子を見た国王は、誰にも気付かれぬよう、静かに口元を緩めた。


少し離れた場所では、ヴィクトール公爵の後ろに控えていた長男セドリックと次男エリックも、静かに壇上を見つめていた。


「……見事だったな。」


セドリックが感心したように呟く。


エリックも静かに頷いた。


「ええ。あれほど落ち着いてお務めになるとは思いませんでした。」


二人の視線の先には、王位継承者として凛と立つテオの姿があった。


その時、ヴィクトール公爵の隣に立っていた地方の公爵が、穏やかに声を掛けた。


「今朝、ヴィクトール公爵様は『王子にはまだ早い』と仰っておられましたが、どうやら杞憂でございましたな。」


その言葉に、周囲の貴族たちも思わず小さく笑みを浮かべる。


ヴィクトール公爵の頬がわずかに紅潮した。


唇を固く結び、握った拳に静かに力がこもる。


それでも何も言い返さず、ただ険しい表情で前を見据える。


その胸中には、悔しさと屈辱が静かに燻り続けていた。


やがて、テオは中央に設えられた円形花壇の前へ案内される。


色とりどりの花々に囲まれたその場所は、王家が代々受け継いできた「播種の祭壇」。


楽隊が再び高らかなファンファーレを奏でた。


「これより、アルセリア王国王位継承者――」


「テオドール・クラリス・アルセリア王子殿下による播種の儀を執り行います。」


その名を耳にしたテオは、小さく息を整え、背筋を伸ばした。


会場中の誰もが、息を呑んだ。


侍女が恭しく銀の器を差し出す。


器には、王国の繁栄を願うルミフローリスの種。


テオはその一粒を静かに土へ播いた。


その瞬間、春風がそっと中庭を吹き抜けた。


続いて国王。


そしてヴィクトール公爵をはじめとする貴族たちも順に種を播いていく。


春の実りと、人々の幸せを願う静かな祈りが、中庭広場を包み込んだ。


儀式が終わると、今度は広場中央に掲げられた旗竿の前へと歩み寄る。


テオが王旗を手にすると、広場は再び静まり返った。


ゆっくりと紐を引く。


青空へ向かって、アルセリア王国の紋章旗が少しずつ掲げられていく。


旗が頂へと届いた、その瞬間――


ゴォーン……


王城中に鐘の音が鳴り響いた。


それを合図に、城壁や回廊に控えていた侍女たちが一斉に花籠を掲げる。


ふわり。


白、桃、黄色。


色とりどりの花びらが春風に舞い上がり、中庭広場いっぱいへと降り注ぐ。


まるで空から祝福が舞い降りたかのような光景に、貴族たちから感嘆の声が上がった。


城下街でも歓声が響き渡り、人々は笑顔で空を見上げる。


アルセリア王国中が、一年に一度の祝福に包まれていく。


テオは思わず空を見上げた。


青く澄み渡る空と風に乗って舞う無数の花びら。


「……きれい。」


その光景は、生涯忘れることのない、美しい春の始まりだった。


こうして、アルセリア王国最大の祝祭――アルセリア・フローリス祝典は、華やかに幕を開けた。


開祭の務めを終えたテオは、エルとともに執務室へ戻ってきた。


窓の外からは、城下街の賑やかな歓声が今も風に乗って聞こえてくる。


祭りは、まだ始まったばかりだった。


「テオ王子、今日は本当にお疲れ様でございました。」


エルはそう言うと、銀の盆を机へ置いた。


ふわりと紅茶の豊かな香りが立ちのぼり、焼きたての焼き菓子の甘く香ばしい匂いが部屋を満たした。


「少しお休みになられてください。私は祝宴の準備のお手伝いへ行ってまいります。」


「うん。ありがとう、エル。」


エルは優しく微笑み、一礼すると静かに部屋を後にした。


扉が閉まり、部屋は静寂に包まれる。


テオはふぅ、と小さく息を吐いた。


今日一日張り詰めていた緊張が、ようやく少しだけほどけていく。


祭りの喧騒が、閉じられた執務室には遠い世界の出来事のように聞こえた。



◇ ◇ ◇



――祝典が始まる少し前。


王城使用人用通用口。


城下街に店を構える王室御用達のパン屋が、祝宴で振る舞われる焼きたてのパンを届けに来たのだ。


荷車を引く父親は気付いていない。


荷台の木箱の陰に、一人の小さな少年が身を潜めていることを。


父親が厨房へ向かっていく姿を見届けると、少年は小さく拳を握った。


「よし、今だ!」


荷車から飛び降り、人目を盗んで王城へ忍び込む。


「……わぁ。」


まるで別の世界のようだ。


初めて見る王城。


磨き上げられた床。


高い天井。


豪華な絵画。


少年は夢中で歩き出した。


右へ、左へ。


階段を上り、また曲がる。


気が付けば、見覚えのない廊下へ迷い込んでいた。


「……あれ?」


少年は辺りを見回す。


「ここさっきも通った……?」


完全に迷ってしまった。


その時だった。


ふわり。


甘く香ばしい香りが鼻先をくすぐる。


焼き菓子と、温かな紅茶の香り。


「いい匂い……。」


思わず鼻をひくつかせ、匂いに誘われるように歩き出す。


廊下の一番奥。


重厚な木の扉が、ほんの少しだけ開いていた。


少年は、そっと扉へ手を伸ばした。



◇ ◇ ◇



テオは窓辺に立ち、祭りで賑わう城下街を眺めながら、紅茶を一口含んだ。


部屋の中には、焼き菓子の甘い香りが静かに漂っている。


その時。


ギィ――


静かな音を立てて扉が開いた。


テオはゆっくりと振り返る。


そこには、一人の見知らぬ少年が立っていた。


「……。」


「……。」

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