4話 夜を待つ窓辺
夕食を終えた王城は、昼間の賑わいが嘘のように静まり返っていた。
テオは一人、自分の部屋へ戻ってきた。
昼間は歴史書や地図が広げられていた机も、今は静かな月明かりに照らされている。
整然と並ぶ本棚や歴代国王の肖像画が、薄暗い部屋の中で静かに浮かび上がっていた。
テオの足は、自然と大きな窓へ向かっていた。
床まで続く窓の前へ腰を下ろし、窓枠の柱へそっと小さな肩を預ける。
王城で一番好きな景色が、そこにあった。
ひんやりとした夜風が頬を優しく撫でる。
遠くでは虫の声が静かに響き、見上げた夜空には無数の星が瞬いていた。
テオはしばらく黙って星空を見上げる。
「あっ。」
「あの赤い星……。」
「一昨日は真上にあったのに、今日は城下街の上まで動いてる!」
嬉しそうに目を輝かせる。
窓辺へ肘をついたまま、しばらく夜空を眺めていた。
「はぁ……。」
と小さく息を吐いた。
もう一度だけ夜空へ目を向けると、静かに窓を閉めた。
寝間着へ着替える頃には、張り詰めていた肩の力も、少しだけ抜けていた。
寝室へ戻ると、月明かりに照らされたネモスフィアが静かに揺れていた。
テオは月明かりに照らされたネモスフィアをじっと見つめると、そっと今朝見つけた一輪だけ手に取った。
寝台の枕元に浅く腰を下ろし、分厚い寝具をそっと持ち上げ、その下からお気に入りの本を取り出した。
テオは嬉しそうに表紙を撫でる。
本を開くと、色とりどりの押し花が静かに眠っていた。
何もないページを開くと、今日のネモスフィアを傷つけないようそっと挟む。
そして静かに本を閉じ、もう一度分厚い寝具の下へ大切そうに戻した。
部屋の明かりを消し、柔らかな布団へ身体を預ける。
静かな夜の王城。
テオはゆっくりと目を閉じた。
――国王執務室
大きな机いっぱいに広げられた王国の地図。
国王とテオは並んで地図を見つめていた。
国王はゆっくりとアルセリア王国を指差す。
「ここが我々の治めるアルセリア王国だ。」
「豊かな森と川、実り豊かな大地に恵まれている。」
「だからこそ、この国を欲しがる者も多い。」
テオは真剣な眼差しで地図へ目を落とす。
国王の指は東へ動く。
「ここがグランヴェル帝国。」
「帝国は古くから武力によって領土を広げてきた。」
「奪い、従わせ、さらに領土を広げる。」
「我々が最も警戒しなければならない国でもある。」
テオは静かに頷く。
国王は今度は西の海へ指を滑らせた。
「そして、この海の向こう。」
「大小さまざまな国々が点在している。」
「一つひとつの国は決して大きくはない。」
「だが、互いに手を取り合えば大きな力となる。」
「王とは剣だけで国を守る者ではない。」
「友を作り、民を守り、戦わずして平和を築くことも王の大切な務めだ。」
テオは国王の言葉を一つひとつ胸へ刻むように聞いていた。
国王は地図を閉じると、小さく微笑んだ。
「さて、明日はいよいよフローリス祝典だ。」
机の引き出しから、フローリス祝典の式次第を取り出した。
「今年、お前は十歳を迎えた。」
その表情には、どこか誇らしさが滲んでいた。
「王家では十歳を、一人前の王族として民の前へ立つ最初の節目としている。」
「だから今年の祝典では、お前が担う大切な役目がいくつもある。」
テオの表情が少しだけ強張る。
「もう準備はできているか?」
テオは小さく息を呑む。
「……私に、できるかな。」
国王は優しく微笑んだ。
「最初から立派にできる者などいない。」
「大切なのは、一つひとつ心を込めて務めることだ。」
少し間を置いて続ける。
「今日は夜、少しだけ時間が取れそうなんだ。」
「王妃のところへ一緒に行こう。」
テオの表情がぱっと明るくなる。
「本当?」
「ああ。」
国王は穏やかに頷いた。
その時だった。
コンコンッ!!
「失礼いたします!」
返事を待たず、扉が勢いよく開く。
部屋へ入ってきたのはヴィクトール公爵だった。
その後ろにはセドリックとエリックの姿もある。
和やかだった空気が、一瞬で張り詰める。
公爵は国王を真っ直ぐ見据えた。
「陛下。」
「僭越ながら、祝典につきまして申し上げたき儀がございます。」
国王の笑みが静かに消える。
「……申せ。」
公爵は一歩前へ進み出た。
「今年のフローリス祝典にございますが――」
「王子殿下のお務め、いささか過重ではございませぬか。」
「開祭の御挨拶に始まり、播種の儀、王旗掲揚……。祝典とは、王家の威信を国民へ示す大切な儀。ゆえにこそ、万全を期すべきかと存じます。」
「これほど王家を象徴するお役目を、幼き王子殿下お一人へ委ねることには、些か懸念がございます。」
「つまり何が言いたい。」
一拍置き、公爵は静かに口を開いた。
「……恐れながら。」
「我が息子セドリックにも、その大役の一端をお任せいただきたく存じます。」
テオは思わずセドリックへ目を向ける。
セドリックは口元をわずかに緩めた。
国王は静かに首を横へ振る。
「ならぬ。」
「祝典で民の前へ立つのは、王位を継ぐ者の務めだ。」
公爵の眉がぴくりと動く。
「しかし、王子殿下には、なお早うございましょう。」
「この話は終わりだ。」
国王の低い声が部屋へ響く。
部屋の空気は重く張り詰めたままだった。
公爵はなおも引き下がらなかった。
一歩前へ進み、国王を真っ直ぐ見据える。
「ならば、せめて一部のお役目だけでも、我が息子へお任せいただけませぬでしょうか。」
「もし、そのようにお取り計らいいただけますなら、公爵家といたしましても、西側港整備につきましては、なお一層のお支えを惜しまぬ所存にございます。」
国王の表情は変わらない。
「………」
部屋に静寂が落ちる。
国王はゆっくり公爵を見る。
「王位を継ぐ者の務めに、例外はない。」
「他者へ委ねることは、王家自ら責務を放棄するに等しい。」
誰一人、口を開く者はいなかった。
やがて、国王はゆっくりと王子へ視線を向けた。
「王子。」
「少し公爵と話がある。」
国王はわずかに表情を和らげた。
「夜、迎えに行く。」
テオは小さく頷く。
「……はい。」
一礼すると、静かに部屋を後にした。
扉が閉まる。
廊下へ出ると、柱にもたれるように立っていたセドリックとエリックが目に入った。
「追い出されたのか?」
セドリックが口元を歪める。
エリックも肩をすくめた。
「明日は失敗しないように気をつけろよ。」
「みんながお前を見てるんだから。」
二人の笑い声が廊下に響く。
テオは何も言い返さなかった。
そのまま小さく頭を下げ、静かに歩き出す。
背中に笑い声だけがいつまでもついてきた。
部屋へ戻る頃には、窓の外はすっかり夜の色へと変わっていた。
城下街には、祝典の準備に追われる人々の灯りが点々と揺れていた。
花飾りを運ぶ人。
屋台を組み立てる人。
遠くから聞こえる楽しげな笑い声。
テオは窓辺へ腰を下ろす。
時折、廊下を誰かが歩く足音が聞こえるたび、小さく扉へ目を向ける。
けれど、その扉が開くことはない。
城下街の灯りは、一つ、また一つと消えていく。
窓の外から聞こえていた笑い声も、いつしか聞こえなくなった。
それでもテオは、ただ一人、静かに待ち続けていた。
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次回、第5話は10月14日(水)20時更新予定です。




