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第九話 十日の残り

 それから十日が過ぎた。


 八月も、もう半分を過ぎていた。


 悠真は、朝起きるたびに日付を確認するようになっていた。


 八月二十一日。


 机の上に置かれたカレンダー。


 その数字を見つめてから、指で残りの日数を数える。


「……あと十日」


 八月三十一日まで。


 たった十日。


 そう思うと、胸の奥が妙に重くなった。


 ここ数日。


 身体の調子は、少しずつ悪くなっていた。


 頭痛は以前より頻繁に起こるようになった。


 何でもない時に、突然視界が揺れることもある。


 手の指先が、数秒だけ自分のものではないように感じることもあった。


 夜も、あまり眠れない。


 目を閉じると。


 決まって、あの手が浮かんでくる。


 誰かの手。


 自分が握っていた手。


 温かかったはずの感触。


 そして――。


 少しずつ冷たくなっていく感覚。


「……」


 悠真は目を開けた。


 額に手を当てる。


 汗をかいていた。


 夢を見ていたわけではない。


 それなのに。


 あの感触だけは、妙に現実だった。


     ◇


 ここ十日ほど。


 悠真は、一年前のことを調べ続けていた。


 古い写真。


 昔のスマホ。


 学校の記録。


 残っているメッセージ。


 消されたデータ。


 どれだけ探しても。


 決定的なものは出てこなかった。


 ただ。


 何かがおかしい。


 そう思わせる痕跡だけが、少しずつ増えていった。


 そして。


 どうしても頭から離れないものがある。


 一年前の夏。


 祭りのあと。


 自分の身体がおかしくなったこと。


 病院に行ったらしいこと。


 そして。


 誰かと一緒にいたこと。


「……」


 悠真はスマホを閉じた。


 気づけば。


 いつもの場所まで来ていた。


 神社へ続く道。


 祭りの日とは違い、人影はほとんどない。


 蝉の声だけが、木々の間に響いている。


 悠真はゆっくり歩いた。


 足元を見る。


 去年の夏。


 ここで何かがあった。


 そう思う理由は、説明できない。


 ただ。


 身体が覚えているような気がした。


     ◇


 神社の裏手。


 人の少ない細い道まで来たところで。


「……」


 悠真は立ち止まった。


 胸の奥がざわついた。


 頭の奥に。


 何かが引っかかっている。


「ここ……」


 知らない場所のはずだった。


 なのに。


 見覚えがある。


 木。


 石垣。


 少し先にある古い街灯。


 全部。


 どこかで見たことがある気がした。


 その瞬間。


 耳鳴りがした。


「……っ」


 高い音が、頭の中いっぱいに広がる。


 悠真は耳を押さえた。


 音が消えない。


 むしろ。


 どんどん大きくなる。


「やめろ……」


 一歩下がる。


 足元が揺れた。


 視界が滲む。


 そして。


 一瞬だけ。


 目の前の景色が変わった。


 夜。


 暗い道。


 遠くで誰かが叫んでいる。


 花火の音。


 その音に混じって。


 慌ただしい足音。


「……誰か……」


 地面に。


 誰かが倒れている。


 顔は見えない。


 ただ。


 伸ばされた手だけが見えた。


「……っ」


 悠真の呼吸が止まる。


 自分の手が。


 その手を掴んでいた。


 強く。


 絶対に離さないように。


 温かい。


 その感触だけは、はっきりしていた。


 けれど。


 少しずつ。


 その温度が失われていく。


「待って……」


 自分の声。


 誰かの名前を呼んでいる。


 けれど。


 聞き取れない。


「待って……!」


 もっと強く握る。


 離したくない。


 怖かった。


 その手が冷たくなっていくことが。


 何よりも怖かった。


 遠くで。


 サイレンが聞こえた。


 赤い光。


 白い光。


 誰かが走ってくる。


 何人もの声。


 そして――。


「……っ!」


 映像が途切れた。


 悠真の身体が大きく揺れる。


「はっ……」


 息が吸えない。


 指先の感覚が消えた。


 右手が。


 自分のものではなくなったようだった。


「……動け……」


 力を入れる。


 動かない。


 膝から力が抜けた。


 地面に手をつく。


 耳鳴りがさらに大きくなる。


 視界の端が暗くなった。


「……誰だった……」


 声が震える。


「俺は……誰の手を……」


 答えは出てこない。


 ただ。


 手のひらに残った温度だけが。


 異様なほど鮮明だった。


 そして。


 その温度が。


 冷たくなっていく感覚も。


「……嫌だ」


 悠真は頭を抱えた。


「やめろ……!」


 その瞬間。


 意識が途切れた。


     ◇


「悠真!」


 誰かの声が聞こえた。


 遠い。


 ひどく遠い。


「悠真、分かる?」


 身体を揺すられている。


 ようやく。


 薄く目を開けた。


「……萤……?」


「よかった……」


 目の前に萤がいた。


 顔色が悪い。


 息も少し乱れている。


「どうして……ここに」


「前に、ここを調べるって言ってたから」


 萤は答えた。


「連絡しても出なかったし……」


 そこで言葉が止まる。


「嫌な予感がしたの」


「……そうか」


 悠真は起き上がろうとした。


 けれど。


 身体に力が入らない。


「動かないで」


 萤が肩を支えた。


「まだ、顔色が……」


「大丈夫」


「大丈夫じゃないよ」


 声が震えていた。


 悠真は萤を見る。


 彼女の手も。


 わずかに震えている。


「……また心配させたな」


「そういう問題じゃない」


 萤は俯いた。


「こんなところで、一人で……」


「調べてた」


「分かってる」


 萤の声が少し強くなる。


「だから……」


 そこで。


 言葉が止まった。


「だから、もうやめて」


 悠真は黙った。


「水野」


「……」


「俺、何か思い出した」


 萤の顔が固まった。


「誰かが倒れてた」


「……」


「俺は、その人の手を握ってた」


 萤の指が震えた。


「ずっと握ってた」


「……やめて」


「誰だったのかは分からない」


「悠真……」


「でも、怖かった」


 悠真は自分の右手を見る。


「その手が冷たくなっていくのが」


 萤は何も言わない。


「お前は、これを知ってるのか?」


「……」


「一年前のこと」


 沈黙。


「お前は俺を守ろうとしてるのか?」


 萤の瞳が揺れる。


「それとも――」


 悠真は一度、息を整えた。


「俺に何か知られたくないのか?」


「……」


 萤の唇が震えた。


「……どっちでもない」


「じゃあ、何なんだよ」


「分からない……」


「分からない?」


「うん……」


 萤は俯いた。


「私にも、どうしたらいいのか分からない」


 声が小さくなる。


「ただ……」


 指を強く握りしめる。


「今の悠真を見てると、怖い」


「俺が?」


「うん」


「何が怖い?」


 萤は答えられなかった。


 しばらく黙ったあと。


「全部」


 それだけだった。


「思い出すことも」


「また苦しくなることも」


「……それから」


 声が途切れる。


「今みたいに、目の前で倒れることも」


 悠真は黙って彼女を見る。


 萤の目には涙が浮かんでいた。


「もう……これ以上は」


 そこまで言って。


 萤は首を振った。


「ごめん」


「……」


「今日は、帰ろう」


 悠真はすぐには答えなかった。


 目の前の萤を見つめる。


 明らかに何かを恐れている。


 でも。


 それが何なのかは、まだ分からない。


「……分かった」


 そう答えた。


 萤の表情が、ほんの少しだけ緩む。


 けれど。


 悠真の中に残った疑問は消えなかった。


 むしろ。


 さっき見た記憶のせいで。


 以前より大きくなっていた。


     ◇


 帰り道。


 二人はほとんど話さなかった。


 しばらく歩いたところで。


 萤がふらついた。


「水野?」


「……大丈夫」


「顔、白いぞ」


「ちょっと疲れただけ」


 悠真は彼女を見る。


 確かに。


 ここ数日の萤は、以前より疲れているように見えた。


 目の下に、薄く影がある。


 それでも。


 悠真は深く考えなかった。


 自分のことで、ずっと心配させている。


 たぶん、それだけだ。


「無理するなよ」


「……うん」


 萤は小さく笑った。


「悠真もね」


     ◇


 家に帰ったあと。


 悠真は机の前に座った。


 カレンダーを見る。


 八月二十一日。


 指で数字をなぞる。


 その下。


 八月三十一日。


 赤い丸がついている。


 大きな花火大会の日。


 もうすぐ。


 十日後。


 悠真はスマホで予定を確認した。


 町の大きな花火大会。


 毎年、八月の終わりに行われる。


 去年。


 自分はどうしていたのだろう。


 思い出せない。


 ただ。


 今年は。


「……行きたい」


 小さく呟いた。


 理由は分からない。


 でも。


 八月三十一日まで。


 そこまで行けば。


 何かが分かる気がした。


 あるいは。


 何かを思い出せる気がする。


 けれど。


 その直後。


 別の考えが浮かんだ。


「……もし」


 悠真は黙る。


「その前に倒れたら……」


 最近の身体の状態を思い出す。


 頭痛。


 痺れ。


 耳鳴り。


 そして。


 今日のような意識の途切れ。


「俺……」


 喉が乾いた。


「本当に、八月三十一日までもつのかな」


 言葉にした瞬間。


 部屋が急に静かになった気がした。


 死ぬ。


 その言葉が。


 今までより近く感じられた。


 悠真はすぐに首を振った。


「……考えすぎだ」


 そう言い聞かせる。


 でも。


 完全には否定できなかった。


     ◇


 夜。


 窓を開ける。


 夏の風が入ってきた。


 遠くで。


 小さな音がした。


 ――ドン。


 悠真が顔を上げる。


 もう一度。


 ――ドン。


 花火の試し打ちだろうか。


 音だけが。


 夜の町に響いている。


 悠真は窓の外を見る。


 空には何も見えない。


 それでも。


 あの音を聞いた瞬間。


 あの手の感触が蘇った。


 温かかった手。


 強く握っていた自分の手。


 そして。


 冷たくなっていった感触。


「……」


 悠真は右手を握りしめた。


 十日。


 八月三十一日まで。


 その日まで。


 自分は本当に、ここにいられるのだろうか。


 遠くで。


 もう一度だけ。


 花火の音がした。


 ――ドン。


 悠真は、しばらく窓の外を見つめていた。

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最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 まだ明かされていない謎は、少しずつ紐解かれていきます。 次回もよろしくお願いいたします。
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