第八話 掴んだ手
夏休み九日目。
佐伯に一度話を聞いてから、二日が過ぎていた。
あれからも、悠真は何度も考えていた。
一年前の夏。
自分は何をしていたのか。
なぜ、そこだけ記憶が曖昧なのか。
そして――。
なぜ、水野萤はあれほどまでに、自分が思い出すことを怖がっているのか。
答えは、まだ何一つ見つかっていなかった。
それでも。
悠真は、もう一度だけ佐伯に会うことにした。
◇
昼過ぎ。
学校から少し離れた商店街の前で、佐伯を見つけた。
「……またお前かよ」
悠真を見るなり、佐伯は少し嫌そうな顔をした。
「悪い」
「この前も聞いただろ」
「ああ」
悠真は頷いた。
「でも、もう一つだけ聞きたい」
「何だよ」
「去年の夏のこと」
佐伯はため息をついた。
「だから、俺もそんなに覚えてないって」
「分かってる」
悠真はポケットからスマホを取り出した。
「これを見てほしい」
「写真?」
「ああ」
画面に映っているのは、昨日の夏祭りで撮った写真だった。
花火。
夜空。
人混み。
そして。
その隣に立つ少女。
水野萤。
「……」
佐伯の表情が変わった。
ほんの一瞬だった。
けれど。
悠真には、はっきり分かった。
「……どうした?」
「いや」
佐伯は視線を逸らした。
「何でもない」
「知ってるのか?」
「知らない」
「でも、今……」
「気のせいだろ」
佐伯はそう言った。
けれど。
そのまま歩き出そうとはしなかった。
しばらく黙って写真を見つめている。
「……水野」
やがて。
小さく名前を口にした。
悠真の指が止まる。
「水野……萤?」
「ああ」
「去年、お前……」
佐伯は言いかけて。
口を閉じた。
「……何だよ」
「いや」
「言ってくれ」
「でも……」
佐伯は頭を掻いた。
「俺、前にも言っただろ。あんまり覚えてないって」
「それでもいい」
「……」
長い沈黙。
佐伯は一度、スマホの画面を見た。
そして。
小さく息を吐いた。
「お前さ」
「ん?」
「去年の夏、水野とよく一緒にいたよ」
「……俺が?」
「ああ」
悠真は何も言えなかった。
「学校でも、帰り道でも」
佐伯は記憶を探すように目を細める。
「いつも一緒だった……気がする」
「俺たち、どういう関係だった?」
「それは知らない」
「付き合ってた?」
「知らないって」
佐伯はすぐに否定した。
「ただ……」
「ただ?」
「お前、水野のことかなり気にしてた」
その言葉を聞いた瞬間。
頭の奥が、かすかに痛んだ。
「……っ」
悠真は額を押さえる。
「おい、大丈夫か?」
「ああ……」
佐伯の顔が曇った。
「やっぱり、聞かない方がいいんじゃないか」
「まだ何も聞いてない」
「でも――」
佐伯は言葉を止める。
「……祭りのあとから、お前、変だった」
「祭り?」
「ああ」
「去年の夏祭り?」
「たぶん」
佐伯は自信なさそうに答えた。
「その後、学校にもあまり来なくなったし」
「俺が?」
「ああ」
「何があった?」
「分からない」
佐伯は首を振った。
「本当に覚えてないんだ」
少し間を置いて。
「ただ……」
「何だ?」
「病院に行ったって……聞いた気がする」
その瞬間。
悠真の呼吸が止まった。
「病院?」
「いや」
佐伯がすぐに手を振る。
「本当に聞いた気がするだけだ。誰から聞いたのかも覚えてない」
「いつ?」
「だから、分からないって」
佐伯は困ったように眉を寄せた。
「悪い。これ以上は本当に何も知らない」
「佐伯」
「もういいだろ」
「でも――」
「悠真」
佐伯の声が少し強くなった。
「俺が覚えてるのは、それだけだ」
少し沈黙して。
「……俺、余計なこと言ったかもしれない」
佐伯は視線を逸らした。
「忘れてくれ」
そう言って。
「もう、これ以上は聞かない方がいい」
悠真は返事をしなかった。
佐伯も、それ以上は何も言わなかった。
◇
佐伯と別れたあと。
悠真は一人で歩いていた。
頭の中には、さっきの言葉が残っている。
水野とよく一緒にいた。
自分は彼女を気にしていた。
そして。
祭りのあとから、何かがおかしくなった。
病院。
その単語だけが、妙に引っかかっていた。
「……何なんだよ」
呟いた瞬間。
耳の奥で。
キーン、と高い音が鳴った。
「……っ」
足が止まる。
視界が少し揺れた。
右手を見る。
指先の感覚が、薄くなっていた。
「また……」
手を握る。
うまく力が入らない。
そのまま数秒。
耳鳴りが続く。
やがて。
音が少しずつ遠ざかっていった。
悠真は壁に手をついた。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせる。
「これくらい……」
けれど。
その言葉とは反対に。
胸の奥には、別の考えが浮かんでいた。
もし。
佐伯の言っていたことが本当なら。
自分は一年前。
何かが起きたあとに、病院へ行った。
そして。
その何かを忘れている。
「……水野」
萤の顔が浮かんだ。
彼女は知っている。
きっと。
何かを。
◇
夕方。
悠真のスマホが震えた。
画面には、萤の名前。
『今、会える?』
短いメッセージだった。
悠真は少し迷った。
けれど。
『分かった』
そう返信した。
◇
待ち合わせ場所は、神社の近くの道だった。
萤は先に来ていた。
「……悠真」
「ああ」
萤は笑おうとした。
けれど。
その表情は、どこか疲れていた。
「どうした?」
「何が?」
「顔色、悪くないか?」
「大丈夫」
そう言った瞬間。
萤の手が小さく震えた。
悠真はそれに気づいた。
けれど。
昨日から自分のことで心配しているせいだろうと思った。
「水野」
「うん」
「今日、佐伯に会ってきた」
萤の表情が止まった。
「……そう」
「去年のことを聞いた」
「……何て?」
「俺とお前が、よく一緒にいたって」
萤の目が揺れた。
「それから」
悠真は続ける。
「祭りのあとから、俺がおかしくなったって」
「……」
「病院に行ったって話も聞いた」
萤の顔から、少しだけ血の気が引いた。
「……そう」
「やっぱり知ってるんだな」
「違う」
「何が違う?」
萤は答えない。
「お前は俺を守ろうとしてるのか?」
「……」
「それとも」
悠真は一歩近づいた。
「俺に何か知られたくないのか?」
萤の唇がわずかに震えた。
しばらく。
何も言わない。
やがて。
「……どっちでもない」
「じゃあ、何なんだよ」
萤は答えなかった。
視線だけが、ゆっくりと落ちていく。
「……分からない」
「分からないって……」
悠真は言葉を止めた。
萤の手が、まだ小さく震えている。
嘘をついているようには見えなかった。
けれど。
本当のことを話しているようにも見えない。
そのどちらなのか。
悠真には判断できなかった。
「ただ……」
萤が小さく息を吸う。
「今の悠真を見てると……怖い」
「俺が?」
「うん」
「何が怖い?」
萤は答えられなかった。
唇を噛む。
それから。
「これ以上、無理しないで」
それだけだった。
「お願い」
今度の声は、ほとんど消えそうだった。
悠真は何も言わなかった。
ただ。
目の前の萤を見つめていた。
信じたい。
それは、今でも変わらない。
でも。
もう、何も疑わずにいることもできなかった。
◇
「……一年前」
悠真は呟いた。
「俺に何があった?」
萤は答えない。
「お前は知ってるんだろ」
「……」
「だったら教えてくれ」
「無理」
「どうして?」
「……言えない」
「言えない?」
「うん」
「俺に関係することなのに?」
萤は俯いた。
「だからこそ……」
その先を言わなかった。
「だからこそ、何だよ」
「……ごめん」
悠真は拳を握った。
「俺は、自分のことを知りたいだけだ」
「分かってる」
「じゃあ――」
「分かってるよ!」
萤の声が突然大きくなった。
悠真が黙る。
萤自身も驚いたように口元を押さえた。
「……ごめん」
声が震えている。
「でも……お願い」
「もう、これ以上……」
そこで言葉が途切れた。
「……無理しないで」
萤の目には、涙が浮かんでいた。
悠真は何も言えなかった。
その瞬間。
耳の奥で。
また音が鳴った。
「……っ」
今度は。
さっきより強かった。
キーン――。
周囲の音が消える。
「悠真?」
萤の声が聞こえない。
口が動いている。
けれど。
何を言っているのか分からない。
「……水野?」
声が出たかどうかも分からない。
右手。
左手。
どちらも感覚が薄い。
足元が揺れた。
「……っ」
膝から力が抜ける。
身体が傾いた。
萤が腕を掴んだ。
「悠真!」
その声だけが。
一瞬だけ聞こえた。
次の瞬間。
視界が白くなった。
◇
暗い。
何も見えない。
音もない。
ただ。
手に何かが触れている。
温かい。
小さな手。
自分の手より少し細い。
悠真は、その手を掴んでいた。
強く。
絶対に離さないように。
なぜか。
そうしなければいけない気がした。
『……待って』
誰かの声。
遠い。
『お願い……』
花火の音。
人の声。
足音。
誰かが走っている。
そして。
地面に倒れている誰か。
顔は見えない。
ただ。
自分の手が。
その人の手を掴んでいる。
温度だけが。
妙にはっきりしていた。
離したくない。
離してはいけない。
そう思った。
次の瞬間。
遠くから。
救急車の音。
赤い光。
「……っ!」
悠真は目を開けた。
◇
目の前に萤がいた。
「悠真!」
肩を支えられている。
呼吸がうまくできない。
肺が空気を拒んでいるようだった。
「……はっ……」
「大丈夫?」
萤の声が震えている。
「息……」
「ゆっくりでいいから」
萤が背中に手を当てる。
「大丈夫……」
悠真は何度も息を吸った。
けれど。
身体が自分のものではないような感覚が残っている。
指先はまだ痺れていた。
耳鳴りも消えていない。
立とうとして。
足に力が入らなかった。
「……無理しないで」
萤が支える。
「……さっき」
悠真は息を整えながら言った。
「何か見えた」
「……」
「誰かが……」
言葉が止まる。
その続きを口にしようとすると。
また頭の奥が痛んだ。
「……分からない」
悠真は目を閉じる。
「でも」
手を見た。
「俺、誰かの手を掴んでた」
萤の身体が、一瞬だけ固まった。
「……そう」
その声は小さかった。
「誰の手?」
「分からない」
「……」
「顔も見えなかった」
悠真は自分の手を見つめた。
「でも……」
なぜか。
その温度だけは忘れられなかった。
「離したくなかった」
萤は何も言わなかった。
ただ。
俯いたまま、自分の手を強く握っていた。
◇
しばらくして。
二人は神社の石段に座っていた。
悠真の呼吸は、ようやく落ち着いてきた。
けれど。
身体の重さは残っている。
「……病院に行く」
悠真が言った。
萤は顔を上げた。
「今度こそ、ちゃんと調べてもらう」
「……」
「止めるなよ」
萤は何も答えない。
「水野」
「……今は」
声が小さい。
「行かないでほしい」
「またそれか」
「……ごめん」
「佐伯の話を聞いて、さっきの記憶も見えた」
悠真は萤を見る。
「もう、何もなかったことにはできない」
「分かってる」
「だったら、どうして?」
萤は答えない。
しばらくして。
「……怖いの」
「何が?」
「また、悠真が苦しむのを見るのが」
その声は震えていた。
「でも」
悠真は続けた。
「お前は俺を止めるだけだ」
「……」
「何も教えてくれない」
「……」
「それじゃ、俺はどうすればいい?」
萤は答えられなかった。
ただ。
手を握りしめる。
悠真はその様子を見ていた。
やっぱり。
何かを隠している。
でも。
それが自分を守るためなのか。
それとも。
別の理由なのか。
今の悠真には分からなかった。
◇
帰り道。
一人になった悠真は、何度も右手を見た。
さっきの感覚が残っている。
温かい手。
強く握った感触。
離したくなかったという感情。
あれは誰だったのか。
一年前。
祭りの夜。
何かが起きた。
そのあと。
自分は変わった。
学校にも来なくなり。
病院に行ったという話まで残っている。
「……本当に」
悠真は足を止めた。
「俺……何があったんだ」
返事はない。
夏の風だけが吹いていた。
スマホを見る。
八月のカレンダー。
指が止まる。
八月三十一日。
夏休みが終わる日。
「……あと三週間くらいか」
昨日までなら。
ただの夏休みの終わりだった。
でも今は。
違う。
もし。
このまま思い出し続けたら。
「……俺、本当に八月三十一日までもたないんじゃないか」
口に出した瞬間。
自分でも怖くなった。
そんなはずはない。
そう思いたい。
けれど。
今日の身体の状態を思い出す。
指先の感覚。
耳鳴り。
立っていられなかった身体。
そして。
意識が消える直前に見えたもの。
「……考えすぎだ」
そう呟いた。
けれど。
その言葉は、自分自身にも信じられなかった。
◇
家に着く頃には、空が少し暗くなっていた。
蝉の声は、まだ遠くで聞こえている。
昼間より。
ほんの少しだけ遠くなっていた。
悠真は自分の部屋に入り。
机の前に座った。
ノートを開く。
一年前の夏。
ページをめくる。
やはり。
あの時期だけ、記録が少ない。
空白。
まるで。
そこだけ何かを抜き取られたようだった。
悠真はペンを取った。
ページの端に書く。
『一年前の夏祭り』
『水野萤』
『祭りのあと、体調が悪化?』
『病院?』
そして。
最後に。
『掴んだ手』
そこまで書いて。
悠真はペンを止めた。
なぜ。
自分はあの手を離したくなかったのか。
誰の手だったのか。
それだけが。
どうしても思い出せなかった。
その時。
遠くから。
一発だけ。
花火の音がした。
悠真は顔を上げる。
まだ祭りには早い。
窓の外を見ても。
花火は見えない。
ただ。
少し遅れて。
もう一度、小さな音が響いた。
悠真は何も言わなかった。
右手を。
ゆっくり握る。
あの温度だけが。
まだ手の中に残っているような気がした。




