第七話 八月の空白
夏休み八日目。
あの日から、二日が過ぎた。
町はいつも通りの夏を続けていた。
蝉の声。
強い日差し。
道路に揺れる陽炎。
何も変わっていない。
――そう見えるだけだった。
◇
浅野悠真は、学校の図書室にいた。
夏休みでほとんど人のいない校舎。
冷房の音だけが、静かな室内に響いている。
机の上には、去年の学校行事に関する資料。
その隣には、自分の古いノート。
そして。
スマホ。
画面には、去年の写真フォルダが表示されていた。
「……やっぱり」
写真が少ない。
八月。
その中でも。
ある時期だけ、妙に記録が途切れている。
悠真は画面をスクロールする。
八月二日。
八月三日。
八月四日。
そこから。
八月九日。
「……」
五日分。
写真がない。
たまたま撮らなかった。
そう考えることもできる。
でも。
ノートも同じだった。
その期間だけ。
何も書かれていない。
「偶然にしては……」
悠真は呟いた。
そこで。
「浅野?」
声がした。
顔を上げる。
入口に立っていたのは、佐伯だった。
「お前、こんなところで何してんの?」
「ちょっと調べ物」
「珍しいな」
佐伯は笑いながら、向かいの椅子に座った。
「去年のことを調べてる」
「去年?」
「ああ」
悠真は少し迷ってから聞いた。
「俺って、去年の夏……何か変だった?」
「変?」
「学校にあまり来なかったとか」
佐伯は少し考える。
「……あったな」
その一言で。
悠真の指が止まった。
「やっぱり?」
「確か、八月の途中だったと思う」
「何日くらい?」
「そこまでは覚えてないけど」
佐伯は天井を見上げた。
「お前、しばらく学校来なかったよな」
「理由は?」
「体調じゃなかったか?」
「体調……」
「ああ」
佐伯は頷く。
「先生が、お前のこと気にしてたの覚えてる」
悠真は黙った。
「俺、病気だった?」
「いや、そこまでは知らない」
「他に何か覚えてない?」
「うーん……」
佐伯は腕を組む。
「お前、あの頃ちょっと変だった気はする」
「どういう意味?」
「なんていうか……」
少し考えて。
「何かを探してるみたいだった」
「……俺が?」
「ああ」
「何を?」
「知らない」
佐伯は苦笑した。
「俺に聞かれても分からんって」
「そうだよな」
悠真も笑った。
でも。
胸の奥には、嫌な感覚が残った。
「なあ、佐伯」
「ん?」
「俺って……去年の夏、誰かとよく一緒にいた?」
佐伯の表情が止まった。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
「……誰かって?」
「女の子とか」
「女の子?」
佐伯は少し考えて。
「……覚えてないな」
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
けれど。
佐伯が目を逸らしたことだけは。
悠真は見逃さなかった。
◇
佐伯と別れたあと。
悠真は旧校舎の廊下を歩いていた。
誰もいない。
窓から差し込む光が、床に長い四角形を作っている。
「……八月」
去年の八月。
学校に来なかった。
体調を崩していた。
何かを探していた。
そして。
写真も。
ノートも。
その期間だけ空白になっている。
「偶然じゃない」
そう思った。
自分の記憶だけではない。
記録まで消えている。
誰かが意図的に消したのか。
それとも。
自分自身が何かを残さなかったのか。
まだ分からない。
ただ。
一年前の夏に。
何かがあった。
それだけは確かだった。
◇
午後。
家に戻った悠真は、押し入れの奥から古いスマホを取り出した。
一年前に使っていたもの。
充電器を繋ぐ。
しばらく待つと。
画面が点いた。
「……まだ動くのか」
ロックを解除する。
写真。
メッセージ。
メモ。
順番に確認していく。
ほとんどは普通の内容だった。
友達とのやり取り。
学校の連絡。
くだらない写真。
けれど。
八月に入ったところで。
「……」
メッセージの履歴が途切れている。
八月四日。
次は。
八月十日。
「まただ」
六日間。
何もない。
悠真は眉を寄せた。
さらに写真を見る。
八月五日。
写真が一枚だけ残っている。
夜の道。
ぼやけた街灯。
それだけ。
「……何でこんなの撮ったんだ?」
撮った覚えがない。
写真を拡大する。
奥の方に。
何かが写っている。
人影。
でも。
暗すぎて顔までは見えない。
「……誰だ?」
その瞬間。
頭の奥が。
ズキッ、と痛んだ。
「……っ」
悠真はスマホを机に置く。
こめかみを押さえる。
「また……」
少し待てば治る。
そう思った。
けれど。
痛みは引かなかった。
むしろ。
少しずつ強くなっていく。
耳鳴り。
視界の端が白くなる。
指先が冷たくなる。
「……なんだよ、これ」
立ち上がろうとした。
足に力が入らない。
膝が崩れかける。
「……っ」
机に手をつく。
手のひらに感覚がない。
まるで。
自分の身体ではないようだった。
呼吸が浅くなる。
息を吸っているのに。
空気が入ってこない。
「……落ち着け」
自分に言い聞かせる。
「大丈夫……」
けれど。
耳鳴りが大きくなる。
世界の音が遠ざかっていく。
そして。
頭の中に。
また何かが浮かんだ。
夏の夜。
暗い道。
誰かの声。
『悠真!』
「……誰?」
次の瞬間。
視界が揺れた。
誰かが。
地面に――。
「……っ」
そこで記憶が途切れた。
悠真は机に身体を預けた。
荒い呼吸。
額には汗。
指先はまだ震えている。
数十秒。
いや。
もっと長かったのかもしれない。
ようやく。
視界が戻ってくる。
「……今の……」
誰かが倒れていた。
そんな気がした。
でも。
本当に見たのか。
夢だったのか。
分からない。
ただ。
一つだけ。
妙に鮮明な感覚が残っていた。
自分の手。
誰かの手を。
掴んでいたような。
「……誰の手だ?」
思い出そうとした瞬間。
また頭が痛んだ。
「……もういい」
悠真は目を閉じた。
これ以上は。
本当に危ない。
そんな考えが初めて頭をよぎった。
◇
夕方。
スマホにメッセージが届いた。
水野萤。
『今日、少し会える?』
悠真はしばらく画面を見つめた。
そして。
『分かった』
と返した。
◇
公園。
昨日と同じベンチ。
萤は先に来ていた。
「……悠真」
「待った?」
「ううん」
萤は笑った。
でも。
その笑顔は少し疲れていた。
「どうした?」
「何が?」
「顔」
「……何でもないよ」
萤は目を逸らした。
悠真は少し迷った。
そして。
「俺、調べてる」
「……」
萤の表情が変わった。
「去年のこと」
沈黙。
「佐伯に聞いた」
萤の指が止まる。
「昔のスマホも見た」
「……悠真」
「八月の途中だけ、記録が全部抜けてる」
萤は何も言わない。
「俺、去年の夏に何かあったんだろ?」
「……」
「教えてくれ」
萤は俯いた。
「ごめん」
「またそれか」
悠真は苦笑した。
「謝るだけじゃ分からない」
「分かってる」
「じゃあ――」
「でも」
萤が顔を上げた。
目が少し赤い。
「お願いだから」
「もう調べないで」
悠真は黙った。
「どうして?」
「……」
「俺が何か思い出すのが怖い?」
萤は答えない。
「それとも」
悠真は続ける。
「思い出したら、俺に何か起こるのか?」
「……違う」
「じゃあ何?」
萤の唇が震える。
「今の悠真を見てると……」
そこで言葉を止めた。
「……何?」
「怖い」
それだけ。
「昨日も今日も」
「苦しそうにして」
「それでも無理して……」
萤は両手を握りしめる。
「お願いだから、もう少し自分を大事にして」
「俺は自分のことを知りたい」
「知ることより大事なこともあるよ」
「例えば?」
「……」
萤は答えなかった。
悠真は彼女を見つめる。
「俺、八月三十一日までもつのかな」
「……っ」
萤の顔が強張った。
「そんなこと言わないで」
「でも」
「大丈夫だから」
今度は。
はっきりと言った。
「大丈夫だよ」
「……本当に?」
「うん」
けれど。
その声は。
自分自身を安心させようとしているように聞こえた。
◇
「……もう帰ろう」
萤が言った。
「今日は何も考えないで」
「水野」
「なに?」
「さっきから何をそんなに怖がってる?」
「……」
「俺が死ぬこと?」
萤の瞳が揺れた。
「違う」
「じゃあ何?」
「……今は」
言葉を探す。
「今は、ただ……」
萤は目を伏せた。
「無理しないでほしい」
「それだけ?」
「うん」
嘘。
悠真には。
そう感じた。
でも。
追及する前に。
「……っ」
頭の奥に。
突然。
鋭い痛みが走った。
「悠真?」
音が消える。
視界が歪む。
「……っ、あ……」
息が吸えない。
胸が苦しい。
指先の感覚が消える。
立っているはずなのに。
身体が自分の命令を聞かない。
「悠真!」
萤が腕を掴む。
その声さえ遠い。
耳の奥で。
高い音が鳴り続けている。
「……水野……」
「ここにいるよ!」
萤の声が震えている。
「だから……お願い」
「目、開けて」
悠真は目を開けようとした。
けれど。
まぶたが重い。
視界の中に。
また。
去年の夏が浮かんだ。
暗い夜道。
遠くに赤い光。
誰かの声。
『救急車……』
「……」
地面。
誰かが倒れている。
自分は。
その人の手を――。
「……誰……?」
そこで。
記憶が途切れる。
悠真の身体から力が抜けた。
「悠真!」
萤が必死に支える。
「お願い……!」
声が震えていた。
「もう……無理しないで……」
悠真は薄く目を開ける。
目の前の萤。
泣きそうな顔。
その表情を見て。
悠真は思った。
自分は。
本当に。
八月の終わりまで。
このまま持つのだろうか。
そんな考えが。
初めて。
冗談ではなく。
現実として浮かんだ。
「……萤」
「なに……?」
「俺……」
声が出ない。
萤が顔を近づける。
「大丈夫」
「大丈夫だから」
何度も。
そう繰り返している。
悠真は目を閉じた。
意識が遠くなる。
最後に聞こえたのは。
「……私が、ちゃんと……」
その続きは。
聞こえなかった。
◇
しばらくして。
悠真はベンチで目を覚ました。
頭が重い。
身体に力が入らない。
隣には萤が座っている。
彼女は俯いたまま。
両手を膝の上で握っていた。
「……水野」
「起きた?」
「ああ」
「よかった……」
萤は小さく息を吐いた。
その声には。
明らかな安堵が混じっていた。
「……さっき」
悠真は言う。
「何か見えた」
萤の肩が揺れた。
「でも……よく分からない」
「うん」
「誰かがいた」
「……」
「倒れてたような気がする」
萤は何も言わない。
「俺……その人の手を」
悠真は眉を寄せる。
「……掴んでた?」
自信がない。
「分からない」
「ただ……そんな感じがする」
萤は俯いたまま。
「……そう」
それだけだった。
「水野」
「うん」
「去年、何かあったんだろ?」
「……」
長い沈黙。
「ごめん」
また。
その言葉だった。
「今は……まだ」
萤は言葉を止める。
「まだ?」
「……何でもない」
悠真はそれ以上聞かなかった。
聞けば。
また彼女を追い詰める気がした。
◇
夜。
悠真は自分の部屋に戻っていた。
机の上には。
古いスマホ。
去年のノート。
そして。
八月五日に撮られた写真。
暗い道。
街灯。
遠くの人影。
悠真は写真を見つめる。
「……ここ」
写真の場所。
どこか見覚えがある。
神社の裏手。
去年の夏祭りの帰り道。
「……行ってみるか」
そう思った。
でも。
身体が少し震えた。
今日のことを思い出す。
息ができなくなった。
指の感覚が消えた。
意識まで遠くなった。
「……」
もし。
このまま思い出し続けたら。
自分はどうなる。
八月三十一日。
そこまで。
本当に。
もつのだろうか。
悠真は目を閉じた。
怖かった。
でも。
やめるつもりはなかった。
◇
翌日。
佐伯からメッセージが届いた。
『そういえば、八月の終わりに花火大会あるぞ』
『今年も結構大きいらしい』
悠真は画面を見た。
八月の終わり。
花火大会。
萤のことを思い出す。
そして。
八月三十一日という数字。
「……」
偶然だ。
そう思おうとした。
でも。
胸の奥に。
嫌な予感が残った。
その日の夜。
悠真は窓を開けた。
遠くから。
小さな音が聞こえた。
――ドン。
一発だけ。
花火。
悠真は夜空を見る。
何も見えない。
けれど。
なぜか。
あの夏祭りの日と同じ感覚がした。
「……あと少し」
誰に言うでもなく。
悠真は呟いた。
蝉の声は。
まだ遠くで聞こえている。
昼間より。
少しだけ遠くなっていた。
八月の夜は。
静かに深まっていく。
そして。
悠真はまだ知らない。
自分が追いかけている「空白」が。
ただの失われた記憶ではないことを。
その空白の向こうに。
あの日、守れなかった何かがあることを。




