第六話 思い出せない約束
夏休み六日目。
夏祭りが終わった翌日の町は、昨日までとは別の場所のように静かだった。
道端には、まだいくつかの祭りの飾りが残っている。
けれど、夜まで続いていた人の声も、屋台の明かりも、もうない。
祭りが終わった。
ただ、それだけのことなのに。
悠真には、何か大切なものまで置き去りにされたように感じられた。
◇
浅野悠真は、自分の部屋で机に向かっていた。
スマホの画面には、昨日の写真。
夏祭りの夜。
夜空に広がる花火。
その下にいる人々。
そして――隣に立っていた少女。
昨日、花火を見た瞬間。
初めて、その顔がはっきりと見えた。
水野萤。
今、自分の隣にいる少女と同じ顔だった。
「……」
悠真は写真から目を離す。
昨日の記憶を思い出そうとしただけで、こめかみの奥が重くなった。
指でそこを押さえる。
まだ痛みは残っている。
でも、それ以上に気になることがあった。
あの声。
『悠真……約束したよね』
『ずっと一緒にいようね』
あれは本当に、自分が忘れている記憶なのか。
それとも。
ただの夢なのか。
「……分からない」
悠真は椅子の背にもたれた。
もう一度、写真を見る。
昨日とは何かが違って見える気もした。
けれど、今度は目をこすって確認することはしなかった。
「……疲れてるだけだ」
そう決めつける。
これ以上考えるのはやめよう。
その時。
スマホが震えた。
画面に表示された名前。
水野萤。
『おはよう』
続けて。
『昨日、大丈夫だった?』
悠真の指が止まる。
しばらく考えてから、返信した。
『大丈夫』
そして。
少し迷ってから、もう一文。
『昨日のこと、覚えてる?』
送信。
既読はすぐについた。
けれど、返事は来なかった。
一分。
二分。
やがて。
『覚えてるよ』
『でも、今日は無理しないでね』
それだけ。
悠真はスマホを机に置いた。
「……やっぱり」
萤は何かを知っている。
それだけは間違いなかった。
そして。
自分が思い出そうとすることを、怖がっている。
「……調べるしかないか」
小さく呟いた。
◇
昼前。
二人は神社から少し離れた公園で会った。
昨日まで祭りで賑わっていた場所とは思えないほど、静かだった。
ベンチの隣には、自動販売機が一台。
木陰には、まだ夏の暑さが残っている。
「……本当に大丈夫?」
萤は会ってすぐに聞いた。
「大丈夫だって」
悠真は笑ってみせる。
萤は納得していない。
視線を逸らしながら、服の袖を指先でつまんでいた。
「水野」
「ん?」
「昨日のこと」
萤の指が止まる。
「花火の時、俺が見た記憶」
少し間を置いて。
「……あれ、お前だったのか?」
風が吹いた。
萤の髪が頬にかかる。
彼女はそれを耳にかけた。
「どうして……そう思うの?」
「分からない」
悠真は正直に答える。
「でも、顔が見えた」
「それが、お前だった」
萤は何も言わなかった。
ただ、足元を見つめている。
「……そう」
「それだけ?」
「うん」
短い返事。
けれど。
その声は少し震えていた。
「じゃあ聞く」
悠真は姿勢を正した。
「俺は何を忘れてる?」
「……」
「一年前に何があった?」
萤は答えない。
代わりに、ぎゅっと袖を握った。
「悠真」
「ん?」
「もう、無理に思い出そうとしないで」
「どうして?」
「……怖いから」
小さな声だった。
「何が?」
萤は答えようとして。
やめた。
「うまく言えない」
「でも」
彼女は顔を上げる。
「今の悠真が、これ以上無理するのが怖い」
悠真は黙った。
「だからお願い」
「少しだけ、忘れたままでいて」
その言葉が妙に引っかかった。
「……忘れたまま?」
「うん」
「そんなの無理だろ」
悠真は苦笑する。
「自分のことなのに」
「知らないままなんて、気持ち悪いよ」
「でも――」
「水野だけ知ってるんだろ?」
萤の目が揺れた。
「俺に何が起きたのか」
「……」
「俺、何か病気なのか?」
萤は答えない。
「昨日から、思い出そうとすると頭がおかしくなる」
悠真はこめかみを押さえた。
「だったら病院に――」
「行かないで」
萤が突然言った。
今までで一番強い声だった。
悠真が驚いて顔を上げる。
萤自身も驚いたように、口元を押さえた。
「……ごめん」
少しだけ息を整えて。
「でも……今は行かないで」
「どうして?」
「……」
萤は答えられない。
何度か言葉を探して。
それでも見つからないように、視線を落とした。
「今、病院に行っても……」
小さく息を吸う。
「たぶん、何も分からない」
「何も?」
「うん……」
その声が震える。
「だから、お願い」
「今は……無理しないでほしい」
「それだけでいいから……」
悠真は彼女を見つめた。
まるで。
何かを知っているような言い方だった。
「水野」
「……」
「何を知ってる?」
萤は答えなかった。
◇
「……俺、そんなに危ないのか?」
悠真が尋ねた。
萤の肩が小さく揺れる。
「分からない」
「でも、怖いんだろ?」
「……うん」
その返事を聞いた瞬間。
悠真は黙った。
そして。
もう一度だけ。
「俺、死ぬのか?」
「……っ」
萤の顔から、一瞬で血の気が引いた。
「違う!」
反射的に否定する。
「そんなこと言わないで!」
声が震えていた。
「死ぬなんて……そんな……」
言葉が続かない。
萤は両手を強く握りしめた。
「ごめん……」
「でも、そんなこと……絶対に……」
そこで言葉が途切れる。
萤は俯いたまま、小さく首を振った。
「……大丈夫だから」
まるで自分自身に言い聞かせるようだった。
「ちゃんと大丈夫だから……」
悠真は彼女を見る。
その表情には。
隠しきれない恐怖が浮かんでいた。
けれど。
その答えを聞く前に。
「……っ」
突然。
頭の奥に、強い痛みが走った。
今までとは違う。
こめかみではない。
頭の中心を、内側から強く掴まれたような感覚。
「……あ」
息が詰まる。
視界が狭くなった。
「悠真?」
萤の声が遠くなる。
足元が分からない。
立っているはずなのに。
地面が消えたようだった。
「待っ……」
悠真はベンチに手をつく。
指先に力が入らない。
次の瞬間。
頭の中に光が走った。
夜。
花火。
少女。
笑顔。
そして――。
『悠真……約束したよね』
『ずっと一緒にいようね』
「……っ!」
頭の奥が熱くなる。
呼吸ができない。
胸が締めつけられる。
「やめて……」
萤の声。
今まで聞いたことがないほど弱い。
「お願い……」
悠真は何かを言おうとした。
けれど、声にならない。
鼻の奥に、嫌な熱が走った。
指先で触れる。
赤い。
「……血?」
それを見た瞬間。
萤の顔が青ざめた。
「悠真!」
身体が傾く。
萤が慌てて抱き止めた。
「しっかりして!」
「大丈夫だから……」
自分に言い聞かせるように、萤が何度も繰り返す。
「大丈夫……大丈夫だから……」
けれど。
その手は震えていた。
悠真は薄く目を開ける。
目の前にいる萤の顔。
その瞳には。
涙が浮かんでいた。
「……萤」
「なに……?」
「やっぱり……知ってるんだろ」
「……」
「俺が……何を忘れてるのか」
萤は答えなかった。
ただ。
悠真の肩を抱く腕に、少しだけ力を込めた。
「今は……」
震える声。
「今は、何も考えなくていいから」
「お願い……」
「無理しないで……」
そして。
ほとんど聞き取れない声で。
「……ちゃんと、ここにいて」
そう呟いた。
悠真はその言葉を聞いて。
意識が少しずつ遠くなるのを感じた。
◇
しばらくして。
悠真はベンチに座っていた。
萤が自動販売機で買った水を渡してくる。
「……飲める?」
「ああ」
ペットボトルを受け取る。
手がまだ少し震えていた。
「病院に行く」
悠真が言った。
「頭をちゃんと調べてもらう」
萤は黙った。
「今度は止めるなよ」
「……」
「水野」
萤は唇を噛んだ。
「……今は」
「行かないでほしい」
「理由は?」
萤はしばらく黙っていた。
「今、行っても……」
声が小さくなる。
「きっと何も分からない」
「それはさっきも聞いた」
「うん……」
萤は膝の上で手を握りしめる。
「でも、今は本当に……」
言葉が詰まる。
「ただ……怖いの」
悠真が黙る。
「また、あんなふうに苦しんでるところを見るのが……怖い」
萤は顔を上げない。
「だから……お願い」
「今日は帰ろう」
その声は。
もう拒むというより。
懇願に近かった。
悠真は何も言わなかった。
ただ。
萤の顔を見つめる。
彼女は何かを隠している。
そのことだけは、もう確信していた。
◇
夕方。
二人は公園の前で別れた。
「じゃあ」
萤が小さく手を振る。
「また明日」
「ああ」
悠真も手を上げる。
萤は一度だけ振り返った。
何か言いたそうな顔。
でも。
結局、何も言わずに歩いていった。
その背中を見送りながら。
悠真は考えていた。
怖い。
思い出すことも。
その先に何があるのか分からないことも。
それでも。
もう、知らないふりはできなかった。
◇
家に帰ると。
机の上には、昨日のラムネ瓶が置かれていた。
中のビー玉が、夕日の光を受けて小さく光っている。
悠真は椅子に座った。
スマホを開く。
写真。
夏祭り。
花火。
そして。
少女。
「……一年前」
呟く。
何があった。
誰といた。
何を忘れた。
そして。
なぜ萤は、そこまで自分の記憶を恐れている。
悠真は立ち上がった。
本棚から古いノートを取り出す。
一年前のもの。
ページをめくる。
学校のこと。
友達とのこと。
くだらない出来事。
いくつもの記録。
けれど。
夏のある時期だけ。
妙にページが少なかった。
「……?」
悠真は眉を寄せる。
ページをさらにめくる。
途中で。
紙が一枚、不自然に破られている。
「なんだ、これ……」
破られた跡は古い。
偶然破れたようには見えなかった。
そのページだけ。
きれいに抜き取られている。
悠真はしばらく黙っていた。
やがて。
小さく息を吐く。
「……誰かが、消した?」
自分の記憶だけじゃない。
もしかしたら。
自分が知らないように、誰かが何かを隠している。
そう考えると。
昼間の萤の様子が頭に浮かんだ。
「……」
疑いたいわけじゃない。
むしろ。
一番信じたい。
けれど。
今日の彼女の反応を思い出すと。
何も聞かずに信じ続けることもできなかった。
「……ごめん、水野」
小さく呟く。
「俺、自分で調べる」
怖い。
それでも。
もう止まるつもりはなかった。
「調べよう」
一年前のことを。
自分が忘れていることを。
そして。
自分から失われたものが何なのかを。
窓の外では。
夏の夕暮れが静かに沈んでいく。
遠くから蝉の声が聞こえる。
昨日より。
少しだけ遠く。
悠真は破られたページを見つめた。
この先に。
自分が忘れてしまった「何か」がある。
そんな気がしてならなかった。




