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第五話 花火と、消えゆく夏

 夏休み五日目。


 夏祭りの日。


 朝から町は、いつもとは違う空気に包まれていた。


 商店街には色鮮やかな飾りが並び、昨日まで準備されていた屋台が次々と開かれていく。


 神社へ続く道には浴衣姿の人が増え始め、まだ昼前だというのに、町全体が夜を待ち望んでいるようだった。


 浅野悠真は玄関で靴を履く前に、机の上へ置かれたスマホへ視線を向けた。


 画面には、一枚の写真。


 夏祭りの夜。


 夜空に咲く花火。


 屋台の光。


 楽しそうに歩く人々。


 そして。


 その中に立つ、一人の少女。


 顔だけが分からない。


 ぼやけているわけでもない。


 隠れているわけでもない。


 ただ。


 そこだけが、自分の記憶から切り離されたように存在していた。


 悠真は静かに画面を見る。


 胸の奥が、少しだけ苦しくなる。


 指先で写真に触れた瞬間。


「……っ」


 頭が少しくらっとする。


 視界が一瞬だけ揺れた。


 夜空。


 花火。


 誰かの笑い声。


 隣にいる誰か。


 伸ばした手。


 けれど。


 その先を見る前に、すべてが消える。


「……まただ」


 悠真は額に手を当てる。


 何かを忘れている。


 それだけは分かる。


 でも。


 無理に思い出そうとすると、頭の奥が拒むように痛む。


 しばらく黙ったあと。


 悠真はスマホを閉じた。


「……今日は」


 小さく呟く。


「考えるのは、あとでいいか」


 昨日。


 水野萤と約束した。


 今日は夏祭りを楽しむ。


 それだけでいい。


 悠真は写真を見直すことなく、スマホを机へ置いた。


「行くか」


 そう呟いて。


 家を出た。


     ◇


 神社へ向かう道は、昨日までとは全く違う景色になっていた。


 屋台から漂う甘い匂い。


 風鈴の音。


 子どもたちの笑い声。


 浴衣姿で歩く人々。


 昨日まで準備をしていた場所が。


 今日はもう、夏祭りそのものになっていた。


 境内へ入った瞬間。


「悠真」


 優しい声が聞こえた。


 振り向く。


 そこには水野萤が立っていた。


 白を基調とした浴衣。


 淡い色の帯。


 髪はいつもより少しだけ綺麗にまとめられている。


 普段とは違う姿。


 なのに。


 悠真はなぜか、初めて見る気がしなかった。


 まるで。


 何年も前から、この姿を知っていたような。


「……」


 思わず言葉が止まる。


「どうしたの?」


 萤が首を傾げる。


「あ……いや」


 悠真は慌てて視線を逸らした。


「その……」


 少し迷って。


「似合ってると思って」


 言った瞬間。


 自分でも恥ずかしくなる。


「……ありがとう」


 萤は小さく笑った。


 そして。


 浴衣の袖で口元を隠すように俯く。


 その仕草を見て。


 悠真の胸が少しだけ跳ねた。


「悠真も」


 萤が顔を上げる。


「今日はいつもと違うね」


「そう?」


「うん」


 彼女は微笑む。


「なんか……新鮮」


「萤も」


 自然に名前が口から出た。


 二人とも一瞬止まる。


「あ……」


 悠真は少し焦る。


「ごめん」


「ううん」


 萤は首を横に振った。


 そして。


 少し嬉しそうに笑う。


「……もう一回呼んでもいいよ」


「え?」


「なんでもない」


 そう言って。


 萤は少し早歩きで先へ進む。


 でも。


 耳は少し赤くなっていた。


 悠真はその後ろ姿を見て。


 自然と笑った。


     ◇


 昼過ぎ。


 二人は祭りの手伝いを終えたあと、少しだけ境内を歩いていた。


「人、多いね」


 萤が周囲を見る。


「昨日まで、ここに何もなかったのにな」


「本当だね」


 二人は屋台を眺めながら歩く。


 金魚すくい。


 射的。


 焼きそば。


 夏祭り特有の匂いが、辺りに広がっていた。


「やってみる?」


 萤が射的を指差す。


「意外だな」


「何が?」


「水野がこういうの好きだと思わなかった」


「私だって普通の女の子だよ」


 少しむくれたように言う萤に。


 悠真は思わず笑った。


 二人で笑った。


 それだけのことなのに。


 なぜか胸の奥が温かくなった。


 ラムネを買って。


 並んで飲む。


 瓶の中でビー玉が転がる音。


 コロン。


 その音を聞いた瞬間。


 悠真の表情が少し固まった。


「……」


「悠真?」


「いや」


 悠真は笑う。


「なんでもない」


 でも。


 胸の奥には、また知らない景色が浮かんでいた。


     ◇


 夕方。


 祭りがさらに賑やかになる頃。


 突然。


 悠真の視界が揺れた。


「……っ」


 頭の奥に強い痛み。


 足元が少しふらつく。


「悠真?」


 萤がすぐに近づく。


「大丈夫?」


「ああ……」


 悠真は壁に手をつく。


「ちょっと暑さにやられただけ」


 そう言った。


 けれど。


 萤の顔から笑顔が消えていた。


「……」


 何かを言おうとして。


 止める。


「こうなるって……」


 小さな声。


「え?」


「……ううん」


 萤は首を振る。


「少し休もう」


 その声には。


 隠しきれない不安が混じっていた。


     ◇


 夜。


 神社は光で満ちていた。


 提灯。


 屋台。


 人々の笑い声。


 夏の夜。


 二人は並んで歩いていた。


 肩が触れそうな距離。


 でも。


 どちらも少し意識して、ほんの少しだけ離れている。


 何度も話しかけようとして。


 結局やめる。


 そんな時間が続いた。


 そして。


 花火の時間が近づく。


「綺麗だね」


 萤が夜空を見る。


 悠真も同じ方向を見る。


 その横顔を見た瞬間。


 また胸が痛んだ。


「……」


 まるで。


 前にも見たことがあるような。


 そんな感覚。


     ◇


 花火が始まる。


 一発目の大きな音が夜空に響いた瞬間。


 悠真の中で何かが決壊した。


 頭の奥に激しい痛みが走る。


 視界が白く染まる。


 笑顔。


 涙。


 誰かの声。


「悠真……約束したよね」


「ずっと一緒にいようね」


「……っ!」


 頭が割れるように痛む。


 足から力が抜ける。


「悠真!」


 萤が必死に支える。


 その体温が。


 なぜか少し冷たく感じた。


 悠真は反射的に彼女の腕を掴む。


 その瞬間。


 少女の顔が見えた。


 水野萤。


 今、隣にいる彼女そのものだった。


「……萤?」


 痛みがさらに強くなる。


「お願い……」


 萤の声が震える。


 彼女は悠真を抱きしめる。


 泣きそうな声で囁いた。


「思い出さないで……」


「今はまだ……思い出さないで……」


 その声には。


 はっきりとした恐怖が混じっていた。


     ◇


 花火が終わったあと。


 二人はゆっくり帰り道を歩いていた。


 萤はいつもより静かだった。


 顔色も少し悪い。


「萤」


「ん?」


「大丈夫?」


 彼女は少し笑う。


「うん」


「ただ……」


 夜空を見る。


「夏は短いから」


「大事な時間を、無駄にしたくないの」


 悠真は何も言えなかった。


 その言葉が。


 なぜか胸に残った。


     ◇


 家に帰ったあと。


 悠真はスマホを開いた。


 あの写真。


 少女の輪郭が。


 確かに、昨日より薄くなっている。


「……気のせいか?」


 目をこする。


 もう一度見る。


 変わらない。


 けれど。


 胸の奥のざわめきは消えなかった。


 この夏が終わったら。


 何かが。


 決定的に失われてしまうような気がした。


 夏祭りの夜は。


 終わった。


 でも。


 二人の物語は。


 まだ終わっていなかった。

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最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 まだ明かされていない謎は、少しずつ紐解かれていきます。 次回もよろしくお願いいたします。
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