第四話 夏祭りの準備
夏休み四日目。
朝から蝉の声が騒がしい。
窓を開けても涼しい風は入ってこない。代わりに、むっとするような熱気だけが部屋へ流れ込んできた。
浅野悠真は机の前に座り、静かにスマホの画面を見つめていた。
そこに映っているのは、一枚の写真。
夏祭りの夜。
色鮮やかな花火。
屋台の灯り。
楽しそうに歩く人々。
そして。
その中に立つ、一人の少女。
顔だけが分からない。
ぼやけているわけでもない。
隠れているわけでもない。
なのに。
そこだけ、自分の記憶から切り離されているようだった。
「……またか」
悠真は小さく息をつく。
何度見返しても同じだった。
写真を見るたびに胸が苦しくなる。
頭の奥が鈍く痛む。
それなのに、目を逸らすことができない。
昨日。
水野萤と夏祭りの準備を手伝う約束をした。
まだ二回しか会っていない。
それだけのはずなのに。
彼女の笑顔が頭から離れない。
隣にいると安心する。
声を聞くだけで、不思議と心が落ち着く。
まるで。
ずっと昔から知っている人みたいに。
「……そんなわけないだろ」
自分に言い聞かせるように呟く。
だが、その言葉には自信がなかった。
悠真はもう一度写真を見る。
少女の細い肩。
風に揺れる長い髪。
横を向いた小さなシルエット。
その姿が。
昨日の萤と、どこか重なって見えた。
「水野……」
名前を口にした瞬間。
胸の奥が小さく疼く。
答えを知りたい。
でも。
知ってしまえば、もう今までの自分ではいられない。
そんな気がしていた。
スマホの画面を閉じる。
悠真は深く息を吸い、部屋を出た。
◇
神社へ続く商店街には、夏祭りの準備が進んでいた。
提灯が風に揺れ。
屋台が少しずつ組み立てられていく。
子どもたちの笑い声。
遠くから聞こえる金槌の音。
町全体が、祭りを待っているようだった。
境内へ入ると。
「悠真」
優しい声が聞こえた。
振り向く。
水野萤が手を振っていた。
白い半袖のブラウス。
紺色のスカート。
髪を一つに結び、額に浮かんだ汗を手の甲で拭っている。
「おはよう」
「おはよう」
自然に言葉が返る。
その時だった。
風が吹く。
萤は乱れた前髪を耳にかけた。
その仕草を見た瞬間。
悠真の身体が止まった。
頭の中で。
写真の少女が、同じように髪を耳へかける。
花火の光。
夜風。
ぼやけた横顔。
ほんの一瞬だけ。
二つの景色が重なった。
「……っ」
鋭い頭痛。
思わず額に手を当てる。
「悠真?」
萤が心配そうに近づく。
「大丈夫?」
「……ああ」
痛みはすぐに消えた。
まるで何事もなかったように。
「少し立ちくらみしただけ」
「本当に?」
「うん」
萤は少しだけ安心したように笑った。
でも。
その目には小さな不安が残っていた。
「今日はよろしくね」
「こちらこそ」
二人は並んで境内へ歩いていく。
その距離は昨日より少し近い。
けれど。
悠真の頭の中には、さっき見た景色が焼き付いたままだった。
◇
「浅野くん!」
町内会のおじさんが手を振る。
「こっち頼めるか?」
「はい!」
悠真は返事をしながら駆け寄った。
机を運び。
提灯を吊るし。
屋台の備品を並べる。
気づけば、あっという間に一時間が過ぎていた。
「悠真」
萤が小走りで近づいてくる。
「これ、町内会の人から」
一枚の紙を差し出す。
当日の役割表だった。
「途中で別々になるかもしれないね」
「そうだな」
「だから……」
萤は少し言いにくそうに視線を落とした。
「もしよかったら」
一拍置いて。
「LINE、交換しない?」
悠真は少し驚いた。
けれど。
断る理由はない。
「いいよ」
ポケットからスマホを取り出す。
二人はQRコードを開く。
ピッ。
小さな読み取り音。
「追加できた」
「うん」
萤が微笑む。
悠真の画面には。
水野 萤
という名前が表示されていた。
その文字を見た瞬間。
胸が少しだけ締めつけられる。
初めて登録したはずなのに。
どこか懐かしい。
そんな感覚だった。
「どうしたの?」
「いや……」
悠真は苦笑する。
「初めて登録した名前なのに」
「前から入ってた気がして」
その一言に。
萤の笑顔が止まった。
「……」
ほんの一瞬だけ。
何かを堪えるように唇を結ぶ。
けれど。
すぐにいつもの笑顔へ戻った。
「それって」
少しだけ冗談っぽく笑う。
「私の名前がありふれてるからじゃない?」
「そうかも」
悠真も笑った。
だが。
二人とも。
本当はそうではないことを知っているような空気だけが。
夏の風に静かに残っていた。
午前中の作業がひと段落すると、町内会の人たちは昼休憩に入った。
境内には風鈴の音が静かに響いている。
蝉の声は相変わらず賑やかだったが、木陰へ入ると少しだけ暑さが和らいだ。
「疲れた?」
萤が石段に腰を下ろしながら尋ねる。
「思ったより重労働だったな」
悠真が笑う。
「祭りって、もっと楽な準備かと思ってた。」
「みんなが楽しめるようにするのって、大変だから。」
萤はそう言って立ち上がる。
「飲み物、買ってくるね。」
「俺が行くよ。」
「え?」
「昨日ラムネもらったし。」
「……もらった?」
萤は少しだけ首を傾げたあと、小さく笑った。
「じゃあ、お願い。」
数分後。
悠真は自動販売機から戻ってきた。
手には二本のラムネ。
「またラムネ?」
萤は思わず笑う。
「好きなんだろ?」
「うん。」
その返事は昨日よりもずっと自然だった。
二人は同時に瓶を開ける。
ポン。
ビー玉が落ちる。
炭酸が小さく泡立つ。
「やっぱり、この音好き。」
萤は瓶を軽く揺らす。
コロン。
ビー玉が転がる。
夏を閉じ込めたような、小さな音だった。
悠真も同じように瓶を揺らす。
コロン。
その音を聞いた瞬間。
頭の奥に何かが引っ掛かった。
夜空。
花火。
二本のラムネ。
誰かの笑い声。
けれど。
その先だけ思い出せない。
「……どうしたの?」
萤が心配そうに覗き込む。
「いや。」
悠真は苦笑した。
「この音。」
「どこかで聞いたことがある気がして。」
その一言に。
萤の指先がぴくりと震えた。
瓶を持つ手に、少しだけ力が入る。
「……そう。」
それだけ答えて。
彼女はラムネを一口飲んだ。
冷たい炭酸が喉を通る。
けれど。
胸の苦しさは消えなかった。
「萤。」
「ん?」
「俺さ。」
悠真は瓶の中のビー玉を見つめる。
「何か、大事なことを忘れてる気がする。」
沈黙。
蝉の声だけが響く。
萤は目を閉じ、小さく息を吸った。
「……」
言いたい。
本当は全部伝えたい。
でも。
伝えてしまえば。
あの日と同じ未来になるかもしれない。
だから。
「悠真は。」
ゆっくり口を開く。
「きっと。」
「いつか思い出せるよ。」
その言葉に。
悠真は顔を上げる。
「どうしてそう思う?」
「それは──」
萤の言葉が止まった。
一瞬だけ。
"だって、あなたは――"
そう続けそうになった。
しかし。
彼女は慌てて笑う。
「……私の勘。」
「悠真って、大切なことを忘れたままの人じゃない気がするから。」
「勘?」
「うん。」
「当たるんだ、私。」
そう言って笑う。
けれど。
その笑顔は少しだけ震えていた。
◇
午後。
提灯を取り付ける作業が始まった。
萤が脚立の上で飾りを結び。
悠真が下から支える。
風が吹く。
萤はまた髪を耳へかけた。
その瞬間。
悠真は反射的にスマホを取り出す。
あの写真。
画面の中の少女。
そして。
目の前の萤。
耳へ髪をかける仕草。
肩の傾け方。
花火を見上げるような横顔。
すべてが。
あまりにも似ていた。
「……同じ、だ。」
思わず漏れた声。
「悠真?」
萤が脚立から降りてくる。
「何見てるの?」
悠真は少し迷った。
でも。
もう隠す必要はない気がした。
「この写真。」
スマホを差し出す。
萤は画面を見た。
その瞬間だった。
呼吸が止まる。
瞳が大きく揺れる。
指先がわずかに震えた。
「……っ」
思わず画面へ手を伸ばきかける。
けれど。
途中で止めた。
触れてしまえば。
押さえ込んできた感情が溢れてしまう。
「萤?」
「あ……」
彼女は慌てて笑顔を作る。
「ご、ごめん。」
「急に日差しが眩しくて。」
そう言って。
ゆっくり視線を逸らした。
二度と写真を見ようとはしなかった。
「知ってる?」
悠真は静かに尋ねる。
萤は首を横に振る。
「……ううん。」
少し間が空く。
「でも。」
彼女は空を見上げた。
「誰かにとって。」
「夏祭りって、一生忘れられない場所になることがあるんだと思う。」
それだけ言うと。
話を終わらせるように立ち上がった。
「町内会の人、呼んでるみたい。」
逃げるように。
その場を離れていく。
悠真は後ろ姿を見つめた。
やっぱり。
水野は何かを知っている。
そう確信した。
◇
夕方。
すべての準備が終わった。
提灯に明かりが灯り始める。
明日には、この境内はたくさんの人で賑わう。
「今日はありがとう。」
萤が微笑む。
「こちらこそ。」
二人は神社の石段をゆっくり下りる。
別れ道で。
萤が立ち止まった。
「また明日。」
「うん。」
「夏祭り。」
「楽しみにしてる。」
悠真は笑う。
「俺も。」
その一言を聞いて。
萤も笑った。
でも。
その笑顔の奥には。
どこか覚悟を決めたような静かな強さがあった。
◇
夜。
スマホが震える。
水野 萤
『今日はありがとう。』
短いメッセージ。
悠真は少し考え。
『俺も。』
とだけ返した。
送信。
画面が暗くなる。
部屋は静かだった。
机の上には。
昨日から捨てられないラムネ瓶。
月明かりがビー玉を照らしている。
コロン。
小さな音が響く。
悠真は窓の外を見る。
明日の夏祭り。
きっと。
ただ花火を見るだけでは終わらない。
そんな気がしていた。
もし。
明日。
何かを掴めなかったら。
大切な何かが。
もう二度と手の届かない場所へ沈んでしまう。
理由は分からない。
それでも。
その予感だけは。
胸の奥で、静かに鳴り続けていた。
夏休み五日目。
夏祭りの日が、始まる。




