第三話 ラムネと約束
夏休み三日目。
午後の陽射しは、まるで街全体を閉じ込めるように強く降り注いでいた。
窓を開けても涼しい風は入ってこない。
聞こえてくるのは、遠くから絶え間なく響く蝉の声と、時々通り過ぎる車の音だけだった。
浅野悠真は机の前に座り、何度目か分からないほど同じ写真を見つめていた。
画面の中にあるのは、夏祭りの夜に撮られた一枚の写真。
人の波。
屋台の明かり。
夜空に広がる花火。
そして、その中にいる一人の少女。
顔だけが、どうしても思い出せない。
いや。
思い出せないというより、そこだけが最初から自分の記憶から切り取られているような感覚だった。
「……何なんだろうな」
誰に言うでもなく、悠真は小さく呟いた。
昨日出会った少女。
水野萤。
初めて会ったはずなのに、彼女の声や表情が妙に頭から離れない。
普通なら、名前を知っただけの相手をこんなに気にすることなんてないはずだ。
それなのに。
彼女と話している時だけ、自分の中にある何かが反応しているような気がした。
悠真はスマホの画面を消した。
考えても答えは出ない。
そう分かっているのに、考えることをやめられない自分が少し嫌になった。
「……暑いせいか」
適当な理由をつけて、椅子から立ち上がる。
冷たい飲み物でも買ってくれば、少しは頭も冷えるだろう。
そう思った。
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近所のコンビニへ向かう途中。
アスファルトの上では、陽炎が揺れていた。
歩くだけで体力を奪われるような暑さだったが、夏休みという雰囲気は嫌いではなかった。
子供たちの笑い声。
道路沿いに飾られた祭りの準備用の提灯。
風に揺れる風鈴の音。
何気ない夏の景色。
それを眺めながら、悠真はふと足を止めた。
理由は分からない。
ただ。
こういう景色を、誰かと一緒に見ていたような気がした。
しかし、そこから先へ進もうとすると、いつものように記憶は途切れる。
「……またか」
悠真は小さく息を吐き、コンビニの扉を開けた。
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店内に入ると、冷房の冷たい空気が肌を包んだ。
外との温度差に少しだけ安心しながら、悠真は飲み物の棚へ向かう。
そこで目に入ったものがあった。
ラムネ。
透明な瓶の中で、小さなビー玉が揺れている。
夏になると必ず見かける、昔からある飲み物。
特別珍しいものではない。
それなのに、なぜか少しだけ目を引かれた。
「夏休みだし、ラムネもいいかもね」
レジの店員が、商品を見ながら笑う。
「今なら二本買うと少し安くなるよ」
「二本……」
悠真は瓶を二つ手に取った。
一本で十分なはずだった。
でも、店員の言葉に深い意味もなく流される。
「じゃあ、二本で」
会計を済ませ、店を出る。
袋の中には二本のラムネ。
悠真は歩きながら、それを見下ろした。
「……まあ、安かったし」
自分に言い聞かせるように呟く。
特に理由はない。
ただの買い物。
そう思っていた。
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川沿いの道。
気づけば、悠真は昨日と同じ場所へ来ていた。
大きな桜の木。
春には満開の花を咲かせるその木も、今は青々とした葉を広げ、夏の日差しを静かに受け止めている。
そして。
木の下には、一人の少女がいた。
水野萤。
彼女はスマホを手にして、何かを録音していた。
悠真が近づくと、萤はすぐに気づいた。
「……こんにちは」
昨日と変わらない、柔らかな声。
「こんにちは」
悠真も自然に返した。
不思議だった。
昨日初めて会ったばかりなのに、二度目の会話はまるで以前から知っている相手とのように落ち着いていた。
「何してるの?」
悠真が聞く。
萤は少し迷ってから、スマホの画面を見せた。
「録音してるの」
「録音?」
「うん」
画面には、いくつもの音声データが並んでいた。
蝉の声。
風の音。
川の流れる音。
遠くを走る電車の音。
「夏を残してるんだ」
萤はそう言って、小さく笑った。
「夏を?」
「うん」
彼女は空を見上げる。
「夏って、楽しい時間ほど早く終わる気がするから」
「気づいた時には、もう秋になってる」
「だから……」
少しだけ間を置いて。
悠真は、しばらく何も言わずに萤の横顔を見ていた。
「……変わってるね」
思ったことを、そのまま口にする。
萤は少し驚いたように瞬きをした。
「そうかな?」
「うん」
悠真は川の方を見る。
「普通、夏の音を集めようなんて考えないだろ」
「そう?」
萤は首を傾げる。
「私は、普通だと思ってた」
その返事が妙に自然で。
悠真は少し笑った。
「水野って、不思議な人だな」
「よく言われる」
「やっぱり」
「でも」
萤は少しだけ目を細める。
「悠真も、少し変わってると思う」
「俺?」
「うん」
突然言われ、悠真は戸惑う。
「どこが?」
萤はすぐには答えなかった。
視線を悠真の持っている袋へ向ける。
そして。
「……ラムネ」
小さく呟いた。
「あ」
悠真も袋を見る。
「そういえば」
「一本いる?」
そう言って、袋からラムネを取り出す。
萤は少し迷った。
ほんの一瞬だけ。
けれど、その迷いを悠真は気づかなかった。
「ありがとう」
萤は受け取った。
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二人は桜の木の下に並んで座った。
近すぎない距離。
でも、昨日より少しだけ近い距離。
夏の風が二人の間を通り抜ける。
悠真は瓶の蓋を見つめた。
「これ、どうやって開けるんだっけ」
「忘れたの?」
萤が少し笑う。
「いや……」
悠真は苦笑した。
「久しぶりだから」
その言葉を聞いた瞬間。
萤の指がわずかに止まった。
「……そっか」
小さな声。
けれど、その表情はすぐに戻った。
「貸して」
萤が手を伸ばす。
悠真はラムネを渡した。
萤は瓶の上にビー玉を押し当てる。
そして。
ポン。
小さな音が響いた。
炭酸の泡が一気に上がる。
透明な瓶の中で、ビー玉がゆっくりと揺れた。
「……やっぱり」
萤が呟く。
「この音、好き」
「開ける音?」
「ううん」
萤は瓶を少し傾ける。
コロン。
ビー玉が瓶の中で転がる。
「この音」
「夏って感じがするから」
悠真も自分のラムネを開ける。
同じ音。
同じ瓶。
同じ夏の日。
なのに。
なぜか胸の奥に小さな痛みが残った。
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「ねえ」
萤が言った。
「悠真は」
「忘れたいことってある?」
突然の質問。
悠真は少し考える。
「忘れたいこと……」
すぐには答えられなかった。
「分からない」
「でも」
悠真は瓶の中のビー玉を見る。
「忘れたことなら、ある気がする」
萤の表情が少し変わる。
「……」
「何か大事なものを忘れてる感じ」
悠真は苦笑する。
「変な話だよな」
「記憶にないのに」
「忘れたって分かるなんて」
萤は何も言わなかった。
ただ。
ラムネ瓶の中のビー玉を静かに見つめていた。
「……そうだね」
しばらくして。
萤は小さく答えた。
「でも」
「なくなったわけじゃないと思う」
悠真を見る。
「忘れても」
「どこかに残ってることって、あるから」
その言葉の意味を。
悠真にはまだ理解できなかった。
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夕方。
太陽が少しずつ沈み始める。
川の水面がオレンジ色に染まっていた。
「そろそろ帰るね」
萤が立ち上がる。
悠真も立ち上がった。
「今日もありがとう」
「こっちこそ」
「ラムネ」
萤は瓶を見る。
「ごちそうさま」
「別に安かったから」
悠真が言うと。
萤は少し笑った。
「そういうところ」
「変わってないね」
その言葉の後。
萤は一瞬、口を閉じた。
自分でも気づいたのかもしれない。
今の言葉が少しおかしかったことに。
「……ごめん」
「何が?」
「ううん」
萤は首を振った。
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二人が別れる場所。
交差点の前。
萤は少し迷ってから言った。
「明日」
「もし時間があったら」
悠真を見る。
「夏祭りの準備、手伝ってくれない?」
「準備?」
「うん」
「人手が足りないみたいだから」
悠真は少し考えた。
でも。
断る理由はなかった。
「いいよ」
その返事を聞いた瞬間。
萤の表情が少しだけ柔らかくなる。
「本当に?」
「うん」
「じゃあ」
萤は持っていたラムネ瓶を軽く上げた。
「約束」
悠真も笑う。
「ラムネで約束って変じゃない?」
「そうかな」
萤は瓶の中のビー玉を見る。
「私は好きだよ」
「こういう約束」
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夜。
悠真は机の上に空になったラムネ瓶を置いていた。
捨てるつもりだった。
でも。
なぜか捨てられなかった。
月明かりが瓶を照らす。
中のビー玉が、小さく光っている。
悠真はそれを眺めながら考える。
どうしてだろう。
今日初めて飲んだはずなのに。
この音を。
この景色を。
どこかで知っている気がする。
「……水野萤」
名前を口にする。
その瞬間。
頭の奥で、また一瞬だけ何かが浮かんだ。
夏の夜。
花火。
誰かの笑顔。
そして。
「約束だからね」
誰かの声。
しかし。
次の瞬間には、全て消えていた。
悠真は目を開ける。
静かな部屋。
机の上のラムネ瓶だけが残っている。
その中のビー玉が。
小さく。
コロン、と音を立てた。




