第十話 消えた三時間
それから、四日が過ぎた。
八月二十五日。
夏休みも、残り少なくなってきた。
浅野悠真は、朝から机の前に座っていた。
机の上には、一年前の古いスマートフォン。
そして、何度も開いた写真フォルダ。
画面には、去年の夏に撮った写真が並んでいる。
海。
学校。
友達。
夏祭り。
けれど。
ある時間帯だけ、妙に写真が少なかった。
「……まただ」
悠真は時計を見る。
去年の八月。
スマートフォンに残っている最後の記録は、十九時四十二分。
次の記録は。
――二十三時十八分。
「三時間以上……」
悠真は呟いた。
その間に何をしていたのか。
どうして記録がないのか。
何度考えても分からない。
最初は、ただの記録漏れだと思っていた。
でも。
今は違う気がする。
誰かが消した。
そんな気がしてならなかった。
悠真は写真フォルダをさらに遡る。
すると。
一枚だけ、妙な写真があった。
ほとんど真っ黒。
何が写っているのかも分からない。
「……これ」
悠真は画面を拡大する。
暗闇の中。
ほんのわずかに。
何かが映っている。
人影。
そして――。
手。
「……手?」
悠真は眉を寄せた。
指先だけが、かろうじて見える。
誰の手なのかは分からない。
どうしてこんな写真を撮ったのかも分からない。
ただ。
その写真を見た瞬間。
胸の奥がざわついた。
まるで。
その三時間の中に、自分が思い出したくない何かがあるような。
誰かが。
自分に思い出させないようにしているような。
「……誰が」
悠真は小さく呟いた。
その先の言葉は、出てこなかった。
◇
午後。
悠真は神社へ向かった。
以前、調べると言っていた場所。
あの日以来、何度も考えていた。
写真に残っていた三時間。
佐伯が話していたこと。
そして。
何度も頭に浮かぶ、あの手。
神社の境内を抜ける。
夏の強い日差し。
蝉の声。
木々の間を通る風。
悠真は、ゆっくりと奥へ進んだ。
やがて。
一年前の記憶に残っていた、大きな桜の木が見えた。
「……桜」
季節は違う。
当然、花は咲いていない。
それなのに。
その木を見た瞬間。
頭の奥が、かすかに痛んだ。
「……っ」
悠真は立ち止まる。
視界が一瞬だけ揺れた。
春。
満開の桜。
淡い色の花びら。
その下に。
誰かが立っている。
白い服。
長い髪。
顔は見えない。
ただ。
こちらに向かって、手を伸ばしている。
「……誰だ」
悠真は息を呑んだ。
少女が何かを言っている。
声は聞こえない。
けれど。
その手だけは、妙にはっきり見えた。
白い指。
細い手首。
そして。
こちらへ差し出された手。
次の瞬間。
景色が変わった。
夜。
暗い道。
遠くで誰かが叫んでいる。
足元に、人が倒れている。
「……っ」
悠真の呼吸が止まる。
自分の手。
誰かの手を握っている。
強く。
絶対に離さないように。
その手は、最初は温かかった。
けれど。
少しずつ。
温度が失われていく。
「待って……」
自分が何かを叫んでいる。
誰かの名前を呼んでいる。
でも。
聞き取れない。
救急車の音。
赤い光。
誰かの慌てた声。
そして。
握っていた手。
温かかった。
なのに。
最後には。
冷たくなっていた。
「……違う」
悠真は頭を押さえた。
「これは……」
桜の下で伸ばされた手。
夜の中で握っていた手。
その二つが。
頭の中で重なった。
「……同じ……」
悠真は息を呑んだ。
桜の下で差し出された手。
夜の暗闇の中で、自分が必死に握っていた手。
「……同じ手だ」
その瞬間。
胸の奥が、強く締めつけられた。
なぜか分からない。
ただ。
その手を思い出したことが、ひどく怖かった。
まるで――。
ずっと忘れてはいけないものを、今さら思い出してしまったような気がした。
「……っ」
耳鳴りがした。
最初は小さかった。
けれど。
すぐに音が大きくなった。
「……うるさい」
指先の感覚が消える。
右手。
左手。
どちらも、自分のものではないようだった。
「……待って」
足に力が入らない。
膝が崩れそうになる。
悠真は桜の木に手をついた。
けれど。
指が動かない。
呼吸が浅くなる。
視界の端が暗くなっていく。
「……誰なんだ」
自分でも驚くほど弱い声だった。
「誰の手だった……?」
答えはない。
代わりに。
また、あの声が聞こえた。
遠くから。
必死に自分を呼んでいる声。
「……悠真」
その声だけは。
なぜか聞き覚えがあった。
「……萤?」
その瞬間。
頭の中で何かが弾けた。
「……っ!」
身体から力が抜ける。
地面が近づいてくる。
意識が遠のく。
最後に見えたのは。
桜の花びらだった。
そして。
その向こうから伸びてくる。
白い手。
◇
「悠真!」
声がした。
遠い。
けれど。
聞き覚えがある。
「悠真、聞こえる?」
肩を揺すられる。
悠真はゆっくり目を開けた。
「……萤?」
目の前に。
水野萤がいた。
息を切らしている。
顔色も悪い。
「どうして……」
「前に、ここを調べるって言ってたから」
萤は答えた。
「連絡もつかなかったし……」
そこで言葉を止める。
「……嫌な予感がしたの」
悠真は何も言わなかった。
萤の手が震えている。
「また……無理したの?」
「……少し」
「少しじゃないよ」
萤の声が震えた。
「顔、真っ青だよ」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない」
珍しく強い声だった。
悠真は彼女を見る。
萤は唇を噛んでいた。
「どうして、そこまで……」
「え?」
「俺のことを心配するんだ?」
「……」
「俺が調べるたびに止める」
悠真はゆっくり立ち上がろうとした。
けれど。
足に力が入らない。
萤がすぐに支える。
「無理しないで」
「水野」
「……なに?」
「お前は俺を守ろうとしてるのか?」
萤の動きが止まった。
「それとも」
悠真は彼女を見る。
「何か知られたくないのか?」
「……」
萤は答えなかった。
「一年前のこと」
「……」
「俺が忘れてる三時間」
「……」
「桜の木の下にいた女の子」
萤の顔色が変わる。
「白い服を着てた」
「……やめて」
小さな声。
「その子の手を見た」
萤の指先がわずかに震えた。
「それから……」
悠真は息を整える。
「夜の中で、俺は誰かの手を握ってた」
「……」
「最初は温かかった」
萤が動かなくなる。
「でも最後には、冷たくなってた」
その瞬間。
萤の指先が、ほんの一瞬だけ止まった。
そして。
何気ない動作のように、親指で自分の手首を一度だけ撫でた。
本人も気づいていないような、小さな動きだった。
悠真は眉を寄せる。
「……萤?」
「……なに?」
「今、何か思い出した?」
「ううん」
萤は首を振る。
けれど。
声が少し震えていた。
「……分からない」
「嘘だろ」
「嘘じゃない」
「じゃあ、なんでそんな顔するんだよ」
「……」
「俺が死ぬのか?」
「違う!」
萤が叫んだ。
声が境内に響く。
自分でも驚いたように、萤は口元を押さえた。
「……違う」
今度は小さな声。
「そんなこと、言わないで」
「でも」
「違うから……」
萤の目が揺れる。
「悠真は……」
そこで。
声が突然途切れた。
「……いや」
萤は小さく首を振った。
「何でもない」
「今、何を言おうとした?」
「……何も」
「水野」
「お願い。今は、それ以上聞かないで」
悠真は黙った。
けれど。
納得したわけではなかった。
萤は何かを知っている。
その確信だけが、胸の中に残った。
◇
しばらくして。
二人は神社の石段に座っていた。
悠真は水を飲んだ。
まだ身体に力が戻りきっていない。
「……今日のこと」
悠真が言った。
「忘れないから」
萤は黙っている。
「三時間のことも」
「……」
「桜の下の女の子のことも」
萤の視線が落ちる。
「それから、あの手のことも」
「……もう、無理しないで」
「できない」
悠真は答えた。
「ここまで来たら」
スマートフォンを見る。
日付。
八月二十五日。
八月三十一日まで。
あと六日。
「……あと六日か」
萤が顔を上げた。
「何が?」
「花火大会」
「……」
「八月三十一日に、大きな花火大会があるんだろ?」
「うん」
「そこまでに」
悠真は一度言葉を止めた。
「全部、思い出したい」
萤の表情が曇る。
「……どうして?」
「分からない」
悠真は空を見上げた。
「でも、あの日に何かがあった気がする」
「だから……」
言葉を探す。
「その日までに、知りたい」
萤は何も言わなかった。
ただ。
横顔が、少しだけ疲れて見えた。
頬も。
いつもより白い。
悠真はそれを見て。
少し心配になった。
「萤」
「ん?」
「お前も、ちゃんと休めよ」
「……大丈夫」
その返事が。
どこか自分と似ていた。
「俺のせいで寝てないんじゃないだろうな」
「そんなことないよ」
萤は笑った。
けれど。
その笑顔は、いつもより少しだけ弱かった。
「……ならいいけど」
悠真はそれ以上聞かなかった。
きっと。
自分のことを心配しすぎているだけだ。
そう思うことにした。
◇
夜。
家に戻った悠真は。
机の前に座っていた。
古いスマートフォンを開く。
十九時四十二分。
そして。
二十三時十八分。
消えた三時間。
黒い写真。
桜の下の少女。
伸ばされた手。
夜の中で握った手。
どれも。
まだ答えには届かない。
けれど。
悠真はもう確信していた。
あの三時間には。
何かがある。
そして。
自分は。
その何かを忘れさせられている。
「……あと六日」
カレンダーを見る。
八月三十一日。
赤い丸がついている。
その日まで。
自分は本当にここにいられるのだろうか。
そんな考えが。
頭から離れなかった。
悠真は右手を見つめた。
しばらくして。
ゆっくりと、その手を握った。
遠くで。
花火の音がした。
小さく。
夜の向こうから。
八月三十一日まで。
あと六日。




