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第十一話 明日ね

 それから、五日が過ぎた。


 八月三十日。


 夏休みは、もう終わりかけていた。


 目を覚ました悠真は、しばらく天井を見つめていた。


「……少し、楽だな」


 完全に平気なわけではない。


 頭の奥には、薄い痛みが残っている。


 身体も少し重い。


 けれど。


 ここ最近のような、立ち上がるだけで視界が揺れる感覚はなかった。


 右手の指を動かす。


 ちゃんと動く。


 痺れもない。


 悠真は手のひらを見つめた。


 昨日までなら、少し動かすだけでも不安だった。


 今日は違う。


 ほんの少しだけ。


 身体が戻ってきたような気がした。


 机の上のカレンダーを見る。


 八月三十日。


 その隣には、明日の予定が書いてある。


 ――八月三十一日。


 花火大会。


「……あと一日」


 口に出してみる。


 たった一日。


 そこまでなら。


 もしかしたら。


 悠真はそう思った。


 けれど、その考えの奥には、消えない不安があった。


 ――もし、明日までにまた倒れたら。


 ――もし、あの記憶を思い出してしまったら。


 そこまで考えて。


 悠真は首を振った。


「……考えすぎだ」


 今日は。


 少しだけ普通に過ごしたかった。


     ◇


 昼過ぎ。


 スマートフォンが震えた。


 画面を見る。


 水野萤からだった。


『今日、少し時間ある?』


 珍しい。


 最近は、悠真から連絡することのほうが多かった。


『あるけど』


 返信する。


 少しして。


『じゃあ、会いたい』


 短い文章だった。


 悠真は画面を見つめる。


 なぜか。


 その言葉が少しだけ気になった。


 けれど。


『分かった』


 そう返した。


     ◇


 待ち合わせ場所に着くと、萤は先に来ていた。


「ごめん、待った?」


「ううん。今来たところ」


 いつもの笑顔。


 でも。


 悠真はすぐに気づいた。


「……眠そう」


「そう?」


「うん」


「昨日、ちょっと寝るの遅くなっただけ」


「ちゃんと寝ろよ」


「悠真に言われたくない」


「それはそう」


 二人で笑った。


 萤は歩き出した。


 けれど。


 いつもより少しだけ歩く速度が遅い。


 悠真が合わせると、萤は気づいたように笑った。


「どうしたの?」


「いや、別に」


「歩くの遅い?」


「ちょっとだけ」


「やっぱり疲れてるじゃん」


「大丈夫だよ」


 そう言って笑う。


 けれど、その笑顔が一瞬だけ消えた。


 本当に一瞬だった。


 悠真は何も言わなかった。


     ◇


 二人は近くのコンビニで飲み物を買い、そのまま川沿いを歩いた。


 蝉の声が遠くで聞こえている。


 八月の終わりらしい、少しだけ涼しい風が吹いていた。


「夏休みって、短いね」


 萤が言った。


「そうか?」


「うん。始まったばかりだと思ってた」


「俺は早く学校始まってほしいけど」


「どうして?」


「暇だから」


「嘘」


「なんで分かるんだよ」


「顔に書いてある」


「書いてないだろ」


 二人で笑った。


 それから少し歩いて。


 萤が空を見上げた。


「明日、花火だね」


「ああ」


「楽しみ?」


「楽しみだよ」


 悠真は少し笑った。


「ここまで来たんだしな」


「……ここまで?」


「ん?」


「ううん」


 萤は首を振った。


「なんでもない」


 少しだけ間があって。


「私も、楽しみ」


 そう言った。


     ◇


 しばらく歩いたところで。


 萤が小さな袋を取り出した。


「これ」


「何?」


「悠真に」


 袋を受け取る。


 中には、小さな夏祭りの飾りが入っていた。


「なんで?」


「……なんとなく」


「なんとなくでくれるのかよ」


「嫌だった?」


「別に」


 悠真はそれを眺めた。


「ありがとう」


「うん」


「大事にするよ」


「……本当に?」


「たぶん」


「そこは絶対って言ってよ」


「じゃあ、絶対」


 萤は笑った。


「よかった」


 悠真はそれを鞄にしまった。


     ◇


 夕方。


 二人は公園のベンチに座っていた。


 しばらく会話が途切れる。


 でも。


 嫌な沈黙ではなかった。


 悠真は空を見上げた。


 明日の花火大会のためか。


 遠くのほうから、準備をしている音が聞こえていた。


「……明日、人多いかな」


「たぶん多いよ」


「迷子になるなよ」


「悠真こそ」


「俺は大丈夫」


「本当かな」


 二人で笑う。


 萤はそのまま黙った。


 何かを考えているようだった。


「萤?」


「……ん?」


「どうした?」


「ううん」


 萤は少しだけ笑う。


「明日も、ちゃんと会えるかなって」


「会えるだろ」


 悠真は何気なく答えた。


「約束したじゃん」


「……そうだね」


 萤は小さく頷いた。


「約束したね」


     ◇


 帰り道。


 悠真は隣を歩く萤を見た。


「最近、なんか変じゃない?」


「……私が?」


「うん」


「どこが?」


「疲れてる」


 萤は少し黙った。


「ちゃんと寝てる?」


「寝てるよ」


「本当に?」


「本当」


 笑って答える。


 けれど。


 少し歩いたところで、萤の足が止まった。


「……萤?」


「ごめん」


「何が?」


「ちょっとだけ、立ち止まりたくなった」


「大丈夫?」


「うん」


 萤は深呼吸した。


「大丈夫だから」


 その声は。


 さっきより少しだけ弱かった。


 悠真は心配そうに見つめる。


「無理するなよ」


「……うん」


 萤は頷いた。


「悠真こそ」


「俺は平気」


「……本当に?」


「今日は結構調子いい」


 そう言うと。


 萤は少しだけ安心したように笑った。


「そっか」


     ◇


 駅へ向かう途中。


 悠真は突然、足を止めた。


「……っ」


 頭の奥が、急に痛んだ。


 視界が揺れる。


 耳鳴り。


 ほんの数秒前まで聞こえていた蝉の声が遠ざかっていく。


「悠真?」


 萤の声も遠い。


 悠真は額を押さえた。


「大丈夫……」


 そう言おうとした。


 けれど。


 別の景色が、頭の中に流れ込んできた。


 暗い夜道。


 誰かが倒れている。


 自分は、その人のそばにいる。


 手を握っている。


 温かい。


 必死に。


 離さないように。


「……離さないで」


 自分の声だったのか。


 誰かの声だったのか。


 分からない。


 次の瞬間。


 その手の温度が変わった。


 少しずつ。


 温かさが消えていく。


 冷たくなっていく。


「……っ!」


 悠真は目を開けた。


 息がうまく吸えない。


 膝から力が抜けそうになる。


 萤が慌てて肩を支えた。


「悠真!」


「……大丈夫」


「大丈夫じゃない!」


 萤の声が震えていた。


 悠真は何度か深呼吸する。


 やがて。


 視界が戻ってきた。


 耳鳴りも少しずつ消えていく。


「……今の」


 悠真は自分の手を見る。


「また、あの手だった」


 萤の表情が固まった。


「……手?」


「ああ」


 悠真は自分の右手を見つめる。


「誰かの手を握ってた」


 萤は何も言わない。


「前より、少しだけ分かった」


「……何が?」


「その人を、俺は……」


 言葉が止まる。


 胸の奥が痛い。


 理由も分からないのに。


 なぜか、ひどく悲しかった。


「……離したくなかった」


 萤の指が、ほんの少し震えた。


「でも」


 悠真は続ける。


「最後には、その手が冷たくなった」


「……」


 萤は黙っていた。


 悠真はその顔を見る。


「萤?」


「……ごめん」


「なんで謝るんだよ」


「……分からない」


 萤は笑おうとした。


 でも。


 うまく笑えなかった。


     ◇


 少し歩いたところで。


 萤が突然、悠真の手を取った。


「……え?」


「少しだけ」


 萤はそのまま手を握る。


 強くはない。


 ただ。


 離さないように。


 悠真は自分の手を見る。


 さっきまで記憶の中にあった手。


 そして。


 今、握られている手。


 一瞬だけ。


 重なった。


「……」


 悠真の呼吸が止まる。


 似ている。


 そう思った。


 けれど。


 すぐに、その考えを振り払う。


「どうしたの?」


「いや……」


 悠真は萤を見る。


「なんでもない」


 萤の手は冷たかった。


「……冷たいな」


「そう?」


「ああ」


「悠真の手が温かいだけじゃない?」


「そうか?」


「うん」


 萤は笑った。


 けれど。


 その笑顔は少しだけ震えていた。


 悠真は握られた手を見る。


 なぜか。


 今度は、自分からも少しだけ握り返した。


     ◇


 別れ道に着いた。


「じゃあ」


 萤が言う。


「うん」


「明日、忘れないでね」


「忘れるわけないだろ」


「……そっか」


 萤は笑った。


 悠真は少し歩く。


 そして。


 ふと振り返った。


 萤はまだそこにいた。


 こちらを見ている。


 悠真が手を上げる。


 萤も小さく手を振った。


 悠真はまた歩き出す。


「悠真!」


 呼ばれて。


 振り返る。


 萤は何か言おうとしていた。


 けれど。


 ほんの少し迷って。


「……ううん」


 首を振った。


 そして。


「明日ね」


 悠真は笑った。


「ああ。また明日」


 それだけ言って。


 今度こそ歩き出した。


     ◇


 悠真の姿が見えなくなってから。


 萤は一人、その場に立っていた。


 夜風が吹く。


 萤は自分の右手を見る。


 さっきまで、悠真の手を握っていた手。


 指先をほんの少し動かす。


 それから。


 無意識に、親指で手首を一度だけ押さえた。


 すぐに手を下ろす。


 まるで。


 自分でも、その動きを意識していなかったように。


「……明日」


 小さく呟く。


 遠くで、花火大会の準備をする音が聞こえていた。


 八月三十日。


 あと一日。


 夏の夜は、静かだった。

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最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 まだ明かされていない謎は、少しずつ紐解かれていきます。 次回もよろしくお願いいたします。
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