第十二話 夏の終わり
八月三十一日。
目を覚まして、最初に見たのはカレンダーだった。
八月最後の日。
そして、萤と約束した花火大会の日。
悠真はしばらくベッドの上から動かなかった。
頭の奥に、まだ薄い痛みが残っている。
指先にも、わずかな痺れがあった。
ここ数日のような強い頭痛ではない。
立てないほどでもない。
それでも。
身体のどこかに、ずっと消えない違和感が残っている。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく呟いた。
今日は帰らない。
最後まで、萤と一緒にいる。
それだけでいい。
そう思っていた。
◇
夕方。
待ち合わせ場所に着くと、萤はもう来ていた。
「悠真」
「待った?」
「ううん。今来たところ」
萤は笑った。
けれど。
悠真には、その笑顔が少しだけ無理をしているように見えた。
「……どうした?」
「何が?」
「いや」
悠真は首を振った。
「なんでもない」
「そう?」
萤は少しだけ笑って、歩き始めた。
「行こう」
「うん」
◇
花火大会の会場へ向かう道は、人でいっぱいだった。
屋台の明かり。
焼きそばの匂い。
子どもたちの笑い声。
浴衣姿の人たち。
夏の夜らしい景色が、目の前に広がっている。
「すごい人だな」
「迷子にならないでね」
「子どもじゃないんだから」
「でも悠真、よく道間違えるじゃん」
「それは……」
悠真が言葉に詰まる。
萤が笑った。
「ほら」
「笑うなよ」
「ふふっ」
その笑顔を見ていると。
ここ最近ずっと胸の中にあった重さが、少しだけ軽くなる気がした。
◇
花火が始まるまで、二人は屋台を見て回った。
萤はラムネを買った。
「またラムネ?」
「好きだから」
「前にも飲んでたよな」
「……うん」
萤の返事が、一瞬だけ遅れた。
悠真は瓶を見る。
透明なガラス。
青いラベル。
その瞬間。
頭の奥に、何かが浮かんだ。
――夏。
――誰かと並んで歩いている。
――笑い声。
――ラムネの瓶。
「……っ」
悠真は目を閉じた。
「悠真?」
「大丈夫」
「本当に?」
「うん」
頭痛はすぐに消えた。
けれど。
胸の奥に、妙な不安だけが残った。
◇
日が沈む。
空が少しずつ暗くなっていく。
二人は人混みから少し離れた場所に移動した。
川沿い。
遠くに花火の打ち上げ場所が見える。
「ここなら見やすそう」
「うん」
萤が隣に座る。
しばらく何も話さなかった。
静かな時間だった。
悠真は横目で萤を見る。
「なあ」
「ん?」
「今年の夏……」
萤が振り向く。
「楽しかった?」
「……うん」
少し考えてから。
萤は笑った。
「楽しかったよ」
「そっか」
「悠真は?」
「俺も」
悠真は空を見る。
「……かなり楽しかった」
「よかった」
萤の声は、とても小さかった。
「本当に……よかった」
悠真は少しだけ違和感を覚えた。
けれど。
聞かなかった。
◇
最初の花火が上がった。
夜空が、一瞬で明るくなる。
「始まった」
「綺麗……」
萤が空を見上げる。
悠真も同じように見上げた。
何発も花火が上がる。
大きな音。
歓声。
夜空に広がる光。
その光に照らされる萤の横顔。
悠真は思った。
この時間がずっと続けばいいのに。
そう思った瞬間だった。
――耳鳴りがした。
「……っ」
悠真は眉を寄せた。
音が遠くなる。
花火の音も。
人の声も。
全部が水の中に沈んだように聞こえた。
「悠真?」
萤の声だけが、かすかに聞こえる。
「大丈夫……」
立ち上がろうとする。
足元がふらついた。
「悠真!」
萤が腕を掴む。
「座って」
「平気……」
「平気じゃないよ」
その瞬間。
悠真の視界に、一瞬だけ別の景色が重なった。
暗い夜道。
人の声。
遠くで鳴る何かの音。
そして――
誰かが自分の前に立っている。
「……誰?」
悠真が呟いた。
目の前の景色が揺れる。
白い服。
顔は見えない。
ただ。
その人がこちらへ手を伸ばしている。
――逃げて。
「……っ」
悠真は頭を押さえた。
「悠真!」
萤の声が響く。
現実に戻る。
「大丈夫?」
「……今、何か……」
「何?」
「いや……」
言葉にできなかった。
◇
その直後。
会場の反対側から、突然大きな音がした。
ドンッ――。
花火とは違う。
低く、鈍い音だった。
悠真が振り向く。
会場の端に設置されていた、仮設の照明架が大きく揺れていた。
何人かの人が、その周囲から離れようとしている。
「危ない!」
誰かが叫んだ。
次の瞬間。
照明架が大きく傾いた。
上に取り付けられていた照明器具が、金属の軋む音を立てながら、人のいる方向へ倒れ始める。
「……え?」
悠真は動けなかった。
耳鳴りが一気に強くなる。
キィィィ――ン。
周囲の声が遠ざかっていく。
花火の音も。
人の叫び声も。
全部が水の中に沈んだように聞こえた。
視界が揺れる。
足元がふらついた。
「……っ」
右足に力が入らない。
手の指先も、急に感覚が薄くなる。
立っているだけなのに。
地面が大きく傾いているような感覚がした。
危険が近づいている。
それだけは分かった。
でも。
身体が動かない。
「悠真!」
萤の声。
今度ははっきり聞こえた。
顔を上げる。
萤がこちらを見ている。
その顔から。
血の気が引いていた。
「そこから離れて!」
「……え?」
「早く!」
萤が走ってくる。
悠真は動こうとした。
けれど。
足が動かない。
「……くそっ」
身体を支えようとした瞬間。
背後から。
金属が大きく軋む音がした。
「悠真!」
萤が駆け寄る。
そして。
悠真の腕を掴んだ。
「――っ!」
強く引かれる。
その瞬間。
悠真の身体が大きくよろめいた。
視界が一気に回転する。
「……っ!」
耳鳴りがさらに強くなった。
足元の感覚が消える。
身体が宙に浮いたような感覚。
何が起きているのか分からない。
ただ。
萤の手だけが。
自分の腕を強く掴んでいることだけ分かった。
「萤――?」
次の瞬間。
萤が。
悠真を突き飛ばした。
「逃げて!」
悠真の身体が横へ弾き飛ばされる。
地面に倒れ込む。
肩を打つ。
息が詰まる。
目の前が真っ白になる。
「……っ、あ……」
起き上がろうとする。
でも。
身体に力が入らない。
耳鳴りだけが残っている。
世界がぐるぐる回っていた。
そして。
すぐ目の前で。
巨大な金属音が響いた。
ガシャァン――!
悠真は倒れたまま顔を上げた。
人が叫んでいる。
誰かが走っている。
照明架が地面に倒れている。
そして。
「……萤?」
少し離れたところに。
萤が倒れていた。
「……え?」
一瞬。
頭の中が真っ白になった。
「萤!」
悠真は地面に手をついて起き上がろうとする。
腕が震える。
足にも力が入らない。
それでも。
立ち上がった。
「萤!」
人混みをかき分ける。
誰かが「危ない」と言っている。
誰かが救急車を呼んでいる。
けれど。
悠真には何も聞こえなかった。
萤だけを見ていた。
「萤!」
地面に膝をつく。
呼吸が乱れる。
「聞こえる?」
返事がない。
「萤……」
そのとき。
視界の端に。
萤の手が見えた。
地面に落ちている。
悠真は震える手を伸ばした。
指先が触れる。
「……!」
温かい。
まだ。
温かかった。
その瞬間。
頭の奥で。
何かが激しく弾けた。
◇
桜。
風。
白い服。
誰かが自分の前に立っている。
「悠真!」
その人が手を伸ばす。
自分も手を伸ばす。
指が触れる。
握る。
強く。
絶対に離したくないと思った。
その直後。
大きな音。
誰かの叫び声。
救急車。
そして。
手の中から。
少しずつ。
温度が消えていく。
「……嫌だ」
記憶の中の自分が叫んでいる。
「お願いだから……」
もう一度。
強く握る。
けれど。
その手は。
少しずつ冷たくなっていった。
◇
「……っ!」
悠真は現実に戻った。
目の前には萤。
その手を。
自分が握っている。
「……この手」
呼吸が止まりそうになる。
「……知ってる」
手の温度。
指の感触。
握ったときの感覚。
全部。
どこかで知っている。
「……違う」
悠真は首を振った。
「そんなはず……」
もう一度。
萤の顔を見る。
そして。
その手を見る。
頭の中で。
桜の下の白い服の少女と。
今、自分の目の前にいる萤の姿が。
一瞬だけ重なった。
「……同じだ」
悠真の声が震える。
「同じ……手だ」
胸の奥が痛い。
怖い。
どうして怖いのか分からない。
でも。
この手を離したら。
また何かを失う気がした。
「萤……」
悠真は手を強く握った。
「俺……」
言葉が出ない。
「前にも……」
頭の奥で。
また記憶が揺れる。
白い服。
桜。
夜。
救急車。
そして。
誰かの声。
――悠真。
「……誰なんだ」
悠真は呟いた。
「俺は……誰の手を握ってたんだ?」
◇
「悠真……」
かすかな声。
萤が目を開けた。
「萤!」
悠真が顔を近づける。
「大丈夫?」
「……うん」
萤は小さく笑った。
「悠真は……?」
「俺は大丈夫」
「……よかった」
その言葉を聞いて。
悠真の胸が苦しくなった。
「なんで……」
「え?」
「なんで、俺を押したの?」
萤は答えなかった。
「どうして……自分が危ないのに」
「……」
「前にも……」
悠真は言葉を止めた。
萤の目が揺れた。
「前にも、俺を助けたことあるの?」
長い沈黙。
萤は目を閉じた。
「……分からない」
「嘘だろ」
悠真の声が震えた。
「その顔……」
「……ごめん」
「何で謝るんだよ」
萤は何も答えなかった。
遠くから。
救急車のサイレンが近づいてくる。
悠真は萤の手を握ったまま。
離さなかった。
◇
救急隊が到着する。
周囲の人たちが少しずつ離れていく。
萤も搬送の準備をされる。
「待って」
悠真は手を離せなかった。
「悠真……」
「……まだ」
声が震える。
「もう少しだけ」
萤は悠真を見る。
そして。
ほんの少しだけ。
指を動かした。
「……大丈夫」
その声は。
いつもの萤よりずっと弱かった。
悠真はその手を握り返す。
温かい。
まだ。
温かい。
けれど。
頭の奥には。
さっきの記憶が残っていた。
桜の下。
白い服。
伸ばされた手。
そして。
自分が最後まで離したくなかった手。
「……俺は」
悠真は小さく呟いた。
「何を忘れてるんだ……?」
答えは返ってこない。
ただ。
夜空では。
花火が上がり続けていた。
大きな音が。
何度も夜を揺らす。
悠真は。
最後まで萤の手を握っていた。
その温度だけを。
確かめるように。
まだ。
何も知らないまま。




