第十三話 思い出した夏
八月三十一日の夜。
病院の廊下は、静かだった。
さっきまで聞こえていた花火の音も。
人々のざわめきも。
救急車のサイレンも。
今は、遠いところにあるように感じる。
悠真はベンチに座ったまま、自分の右手を見つめていた。
何度も。
指を握っては、開く。
そこには何もない。
それなのに。
まだ、残っている気がした。
あの手の温度が。
「……萤」
名前を呼んでも。
返事はない。
少し離れたところで、医師と看護師が話している。
声は小さく。
何を言っているのか、聞き取れない。
やがて。
一人の医師が、ゆっくりこちらへ歩いてきた。
「浅野さん……」
「……はい」
医師はすぐには続けなかった。
ほんの少しだけ、目を伏せる。
その沈黙だけで。
悠真には分かってしまった。
「水野さんの……」
喉が乾く。
「水野さんは……?」
医師は一度息を吸った。
「……できる限りの処置をしました」
悠真は黙っている。
「ですが……」
その先を聞きたくなかった。
それでも。
耳だけは、逃げられなかった。
「……残念ですが」
医師の声が。
静かに落ちた。
「……亡くなられました」
悠真は何も言わなかった。
頭の中が。
真っ白になる。
「……そう、ですか」
それだけだった。
泣かなかった。
声も出なかった。
ただ。
自分の右手を見つめる。
ついさっきまで。
そこには確かに。
萤の手があった。
温かかった。
まだ。
温かかった。
なのに。
もう。
何もない。
◇
その夜。
家に帰っても眠れなかった。
布団に入っても。
目を閉じても。
萤の顔が浮かぶ。
笑っている顔。
ラムネを飲んでいた顔。
少し困ったように笑う顔。
そして。
最後に見た顔。
「……」
悠真は布団の中で、右手を握った。
その瞬間。
「……っ」
頭の奥に。
鋭い痛みが走った。
いつもの頭痛だった。
けれど。
今までとは違う。
痛みの向こうに。
何かがある。
ずっと遠くに置き忘れていたものが。
こちらを呼んでいるような。
「……何だよ」
悠真は目を閉じる。
そのとき。
机の上に置かれていたものが目に入った。
萤からもらった。
小さな飾り。
悠真はベッドから起き上がり。
それを手に取った。
指先に触れた瞬間。
遠くから。
小さな音が聞こえた。
ドン――。
花火。
「……っ」
視界が揺れる。
桜。
風。
白い服。
誰かが笑っている。
今まで。
どうしても見えなかった顔。
それが。
少しずつ。
はっきりしていく。
「……萤」
その瞬間。
記憶が。
堰を切ったように溢れ出した。
◇
一年前。
八月三十一日。
夏祭りの夜。
「悠真、こっち!」
「待ってよ、萤」
人混みの中を。
二人で歩いている。
屋台。
提灯。
夜空。
ラムネ。
全部。
知っている。
いや。
違う。
知っていた。
「来年も来ようね」
萤が笑う。
「もちろん」
「約束?」
「約束」
小指を絡める。
その手が。
とても温かかった。
そして。
悠真は思い出す。
自分が。
この少女を。
好きだったことを。
ただの友達じゃない。
大切な。
恋人だった。
◇
記憶が変わる。
花火。
大きな音。
人々の歓声。
その中で。
何かが倒れる音。
「危ない!」
誰かが叫ぶ。
悠真が振り向く。
人の流れが一気に乱れる。
けれど。
悠真は。
何が起きているのか理解できなかった。
その瞬間。
「悠真!」
萤が走ってくる。
腕を掴まれる。
「え――」
強く引かれる。
そして。
押された。
悠真の身体が地面に倒れる。
「萤!」
大きな音。
耳鳴り。
視界が白くなる。
人の叫び声。
そして。
倒れている萤。
「……萤?」
悠真は立ち上がった。
足が震えている。
それでも。
走った。
「萤!」
地面に膝をつく。
萤の手を握る。
「萤、聞こえる?」
「……うん」
弱い声。
それでも。
萤は笑った。
「よかった……」
「何がよかったんだよ!」
悠真の声が震える。
「こんなの……全然、大丈夫じゃないだろ!」
萤はゆっくり首を振る。
「大丈夫」
「大丈夫じゃない!」
「悠真は……無事だから」
「そんなの……!」
涙が溢れる。
萤はそんな悠真を見つめた。
そして。
小さく笑った。
「……よかった」
「何が……」
「悠真が、無事で」
その声を最後に。
記憶が途切れた。
◇
「……っ!」
悠真は目を開けた。
息が苦しい。
全身が震えている。
「……俺……」
頭の中に。
一年前の光景が残っている。
萤。
あの夜。
握った手。
救急車。
病院。
そして。
自分が目を覚ましたとき。
萤のことを。
何も覚えていなかった。
◇
その先の記憶も。
少しずつ戻ってくる。
白い天井。
消毒液の匂い。
病院のベッド。
「強いショックを受けています」
「今は、無理に思い出そうとしないでください」
誰かがそう言っていた。
悠真は。
何か大切なものを失ったような気がしていた。
けれど。
何を失ったのか。
分からなかった。
名前すら。
思い出せなかった。
それでも。
胸の奥だけが。
理由もなく痛かった。
時間が経つにつれて。
その痛みは少しずつ遠くなっていった。
忘れたかったわけじゃない。
忘れようとしたわけでもない。
ただ。
あまりにも苦しかった。
あの日の恐怖も。
自分を守るために倒れた少女の姿も。
握った手から温度が消えていく感覚も。
心が耐えられなかった。
だから。
いつの間にか。
その夏の記憶だけが。
深いところへ沈んでいった。
まるで。
自分自身が。
もう一度あの日を生きなくてもいいように。
◇
悠真は机の前に座った。
震える手で。
スマートフォンを開く。
去年の写真。
去年のメッセージ。
去年の記録。
今まで。
気にしたこともなかった。
けれど。
今なら分かる。
八月三十一日。
十九時四十二分。
最後の記録。
そして。
二十三時十八分。
次の記録。
「……三時間以上」
その間だけ。
何もない。
でも。
今なら分かる。
「ここだ……」
悠真は画面を見つめる。
「ここに……全部あったんだ」
夏祭り。
事故。
病院。
萤。
消えた三時間ではなかった。
消えていたのは。
自分の記憶だった。
◇
悠真はさらに古い写真を探した。
一年前の八月。
そして。
その前の月。
何枚もの写真をめくっていく。
その中に。
一枚だけ。
見覚えのない写真があった。
桜の木の下。
そこに。
自分と萤が写っている。
「……え」
二人とも笑っている。
距離が近い。
悠真の肩に。
萤が寄り添っている。
今までなら。
ただの友達だと思ったかもしれない。
でも。
今は分かる。
これは。
恋人の距離だった。
写真の裏側を見る。
小さな文字が残っていた。
――また夏に。
悠真の指が止まる。
「……俺たち」
写真を見る。
「こんなに……」
好きだったんだ。
その言葉が。
自然に浮かんだ。
自分は。
萤と恋をしていた。
それを。
一年間。
忘れていた。
◇
そして。
もう一つ。
思い出した。
一年前。
病院で目を覚ましたあと。
萤は。
何度も悠真のところへ行こうとしていた。
けれど。
悠真は。
彼女を覚えていなかった。
以前のように笑うことも。
名前を呼ぶこともできなかった。
恋人だったことも。
一緒に過ごした時間も。
何も。
何も覚えていない。
それを知った萤は。
泣いた。
それでも。
悠真の前には戻らなかった。
無理に思い出させれば。
あの事故も思い出してしまう。
自分が傷ついたことも。
悠真が自分を責めることも。
だから。
離れた。
でも。
忘れることはできなかった。
一年経っても。
悠真を好きな気持ちは。
消えなかった。
だから。
今年。
もう一度。
悠真の前に現れた。
ラムネを飲んで。
一緒に歩いて。
夏祭りの準備をして。
花火を見る約束をして。
何も知らないふりをしながら。
もう一度。
二人で夏を過ごした。
◇
「……馬鹿だよ」
悠真は呟いた。
誰に向けた言葉なのか。
自分でも分からない。
「なんで……戻ってきたんだよ」
けれど。
答えは。
もう分かっていた。
好きだったから。
それだけだった。
誰かに決められたわけじゃない。
何かに命令されたわけでもない。
萤自身が。
もう一度。
悠真のそばにいたかった。
もう一度。
一緒に夏を過ごしたかった。
だから。
戻ってきた。
そして。
今年も。
悠真に危険が迫った瞬間。
迷わず。
彼を守った。
「……二回も」
悠真の右手が震える。
「俺を……」
言葉が続かない。
一年前も。
今年も。
最後に握ったのは。
同じ手だった。
◇
ふと。
悠真はカレンダーを見る。
八月三十一日。
ずっと。
自分の身体の残り時間だと思っていた。
あと十日。
あと六日。
あと一日。
自分が。
八月三十一日まで生きられるのか。
ずっと。
そう思っていた。
違った。
あの数字が数えていたのは。
自分の命じゃない。
萤が。
自分のそばにいられる時間だった。
「……そういうことだったのか」
悠真は笑おうとした。
けれど。
うまく笑えなかった。
最後まで。
自分は何も分かっていなかった。
萤が苦しんでいたことも。
怖がっていたことも。
それでも。
自分の前では笑っていたことも。
全部。
◇
夜が明ける頃。
悠真は一人で家を出た。
向かったのは。
二人で何度も話した。
あの桜の木の下。
今は。
花なんて咲いていない。
ただ。
静かな木が立っているだけだった。
悠真はその下に座る。
手の中には。
萤からもらった小さな飾り。
右手を握る。
何もない。
それなのに。
まだ。
あの温度を覚えている。
「……萤」
名前を呼ぶ。
返事はない。
風が吹く。
木の葉が揺れる。
悠真は目を閉じた。
一年前の夏。
二人で交わした約束を思い出す。
――また来年も、一緒に見よう。
「……見たよ」
小さく呟く。
「今年も、一緒に見た」
だから。
余計に苦しかった。
八月三十一日が終わる。
長かった夏も。
終わっていく。
俺は。
ようやく全部を思い出した。
あの夏のことも。
あの手の温度も。
そして。
あの頃の俺が。
誰を一番大切にしていたのかも。
右手を握る。
そこには。
もう何もない。
それなのに。
あの温度だけは。
まだ消えてくれなかった。
「……萤」
もう一度だけ。
名前を呼んだ。
返事の代わりに。
朝の風だけが。
静かに吹いていた。




