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第十四話 「君を忘れない夏」

 蝉の声が聞こえる。


 朝だった。


 浅野悠真は目を開けた。


 カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の床を白く照らしている。


 しばらく、天井を見つめていた。


 何か夢を見ていた気がする。


 けれど、思い出せない。


 いや。


 思い出せないのではない。


 もう、思い出す必要がなかった。


 悠真はゆっくりと身体を起こした。


 昨日のことが、頭の中に残っている。


 消えていた記憶。


 一年前の出来事。


 そして――水野萤。


「……」


 名前を思い浮かべただけで、胸の奥が少しだけ重くなる。


 悠真はベッドの脇を見る。


 そこには、小さなアクセサリーが置いてあった。


 昨日までなら、それが何なのか分からなかった。


 ただ、なぜか気になっていた。


 何度も見て。


 何度も手に取ろうとして。


 それでも、思い出せなかった。


 今なら分かる。


 それが何だったのか。


 誰との時間につながっているのか。


 悠真は手を伸ばした。


 指先がアクセサリーに触れる直前で止まる。


「……」


 触れなかった。


 もう、触れる必要はない。


 目を閉じる。


 昨日の記憶が浮かんだ。


 萤の顔。


 声。


 笑い方。


 そして――最後の時間。


 悠真は目を開けた。


「……萤」


 小さく名前を呼ぶ。


 返事はない。


 部屋は静かなままだった。


 悠真は何も言わず、制服に着替えた。





 朝食を食べる。


 歯を磨く。


 靴を履く。


 玄関を出る。


 いつもと同じ朝だった。


 外は暑い。


 蝉がうるさいくらい鳴いている。


 悠真は歩きながら、何度も昨日のことを思い出しそうになった。


 そのたびに、頭の中で止めた。


 今は考えない。


 学校に行く。


 授業を受ける。


 帰る。


 それだけでいい。


 いつも通りにする。


 そうしていれば、きっと大丈夫だと思った。


 駅前を通る。


 学生たちが話している。


 コンビニの前には、いつもの店員がいる。


 信号が変わる。


 車が走っていく。


 世界は何も知らないまま動いていた。


 悠真は空を見上げる。


 雲一つない青空。


「……暑いな」


 それだけ呟いて、歩き続けた。





 学校に着く。


 昇降口には、いつものように生徒が集まっていた。


「おはよう」


「おはよ」


「今日、暑すぎない?」


「朝からこれかよ……」


 何気ない会話。


 笑い声。


 靴箱を閉める音。


 悠真はその中を通り抜けていく。


 教室に入る。


「おはよう」


「おう、おはよ」


「……おはよう」


 自分の席に座る。


 鞄を置く。


 教科書を取り出す。


 それだけ。


 昨日と何も変わらない。


 前の席では男子生徒が友達と話している。


 後ろでは女子生徒たちが夏休みの予定について話している。


「海行くんだって?」


「うん、来週」


「いいなぁ」


 悠真は窓の外を見る。


 風に揺れる木の葉。


 強い日差し。


 遠くから聞こえる蝉の声。


 その音を聞いた瞬間。


 胸の奥に、何かが引っかかった。


 ――あの夏。


 そう思った。


 すぐに視線を逸らす。


「……」


 授業が始まった。


 先生が黒板に文字を書く。


 シャープペンシルが紙の上を走る。


 ページをめくる音。


 いつもなら気にも留めない音ばかりだった。


 なのに今日は、一つ一つが妙に大きく聞こえた。


 悠真はノートを取る。


 文字を書く。


 間違える。


 消す。


 もう一度書く。


 それだけを繰り返す。


 頭の中に萤を浮かべないように。


 昨日のことを考えないように。


 ただ、目の前の授業だけを見る。


 そうしているうちに、午前中が終わった。





 昼休み。


 チャイムが鳴った。


 教室が一気に騒がしくなる。


「腹減った」


「購買行こうぜ」


「今日、何食う?」


 椅子を引く音。


 笑い声。


 誰かが廊下を走っていく。


 悠真は席に座ったままだった。


 昼食を食べる気になれない。


 昨日から、ほとんど何も考えていない。


 いや。


 考えないようにしている。


 それだけだった。


 悠真は窓の外を見る。


 眩しい。


 夏の太陽が、校舎を白く照らしている。


 蝉の声が聞こえる。


 昨日と同じ。


 あの日と同じ。


「……」


 悠真は立ち上がった。


 教室を出る。


 特に目的はなかった。


 ただ、少しだけここから離れたかった。





 廊下を歩く。


 階段を下りる。


 校舎の端まで来る。


 そこには自動販売機があった。


 悠真は足を止めた。


 飲み物を買うつもりなんてなかった。


 それなのに。


 視線が一つの商品で止まった。


 ラムネ。


「……」


 喉が渇いているわけではない。


 それでも。


 財布を取り出した。


 硬貨を入れる。


 ボタンを押す。


 ガタン。


 瓶が落ちる。


 悠真はそれを取り出した。


 冷たい。


 手のひらに伝わる冷たさ。


 瓶の中でビー玉が揺れる。


 カラン。


 その音を聞いた瞬間。


 胸の奥で、何かが崩れた。





『悠真って、ラムネ飲むの下手だよね』


「……」


 記憶の中の声。


 萤が笑っている。


『だって、ずっとビー玉見てるじゃん』


『……気になるんだよ』


『ふふっ。変なの』


 あの日の空。


 あの日の風。


 木陰。


 蝉の声。


 ラムネの瓶。


 隣にいた萤。


 全部。


 全部、鮮明だった。


 悠真は目を閉じる。


 もう、忘れていたことなんて一つもない。


 笑った顔。


 少し怒った顔。


 困ったように笑う顔。


 自分の名前を呼ぶ声。


 何でもない会話。


 くだらない約束。


 一緒にいた時間。


 全部が戻ってくる。


 戻ってきてしまう。


「……」


 悠真は瓶を握る。


 手に力が入る。


 指が白くなる。


 そして。


 昨日の最後の時間まで、思い出した。


「……やめろ」


 自分に言った。


 けれど、止まらない。


「もう……いいだろ」


 声が震える。


 ラムネの瓶が手の中で小さく揺れる。


「なんで……」


 喉が詰まる。


「なんで今なんだよ……」


 目の奥が熱くなる。


「もっと早く……」


 一滴。


 涙が落ちた。


「もっと早く思い出せよ……俺」


 もう一滴。


 止めようとする。


 手の甲で拭う。


 それでも止まらない。


「……萤」


 名前を呼ぶ。


 返事はない。


「……萤」


 もう一度。


 返事はない。


「……一回だけでいいから」


 声が震える。


「もう一回だけ……話したかった」


 悠真は俯いた。


 肩が小さく震える。


 誰もいない廊下。


 遠くから、生徒たちの声が聞こえる。


 昼休みはまだ終わっていない。


 世界はいつも通り動いている。


 それなのに。


 悠真だけが、その場所から動けなかった。


「……遅いよ」


 涙が落ちる。


「俺が……遅すぎた」


 ラムネの瓶を胸元に抱える。


 冷たい。


 その冷たさだけが、今ここにある。


 あの日の萤は、もういない。


 声も。


 笑顔も。


 温度も。


 もう戻ってこない。


 記憶だけが戻ってきた。


 それが、こんなにも残酷だとは思わなかった。


「……会いたい」


 小さな声だった。


 誰にも届かない。


「……会いたいよ」


 それ以上、言葉が出てこなかった。





 しばらくして。


 悠真は一人で廊下に座っていた。


 泣き疲れたわけではない。


 ただ、立ち上がる気力がなかった。


 手の中のラムネを見る。


 さっきまであんなに冷たかった瓶が、もう少しぬるくなっている。


 悠真は蓋を開けた。


 プシュッ。


 小さな音。


 一口飲む。


 甘い。


 炭酸が喉を通る。


 それだけだった。


 悠真はしばらく瓶を見つめていた。


「……こんな味だったんだな」


 笑おうとした。


 でも、うまく笑えなかった。


 瓶の中のビー玉が揺れる。


 カラン。


 その音を聞きながら。


 悠真は静かに目を閉じた。





 午後の授業。


 悠真はいつも通り席に座っていた。


 先生の声が聞こえる。


 黒板を見る。


 ノートを取る。


 けれど。


 午前中までとは違った。


 もう、萤のことを考えないようにはしなかった。


 考えたところで。


 何も変わらない。


 それなら。


 忘れないようにするしかない。


 そう思った。


 授業が終わる。


 チャイムが鳴る。


 生徒たちが帰り支度を始める。


 悠真も鞄を持った。


 教室を出る。





 帰り道。


 悠真は、いつもより少し遠回りをした。


 理由は分からない。


 気づけば、桜の木の下に来ていた。


 春には花を咲かせていた木。


 今は濃い緑の葉に覆われている。


 季節が変われば、景色も変わる。


 悠真は木の下で立ち止まった。


 ポケットから、一枚の写真を取り出す。


 写真の中には二人がいる。


 悠真と萤。


 桜の木の下で笑っている。


 悠真は写真を見つめた。


「……」


 写真の中の自分は、今より少し幼い。


 隣の萤は笑っている。


 その笑顔を見ていると。


 また胸が痛くなった。


 でも。


 昼のように涙は出なかった。


 ただ。


 どうしようもなく寂しかった。


「……本当に、いたんだな」


 そんな言葉が口から出た。


 馬鹿みたいだと思った。


 写真がある。


 記憶もある。


 確かに一緒にいた。


 それなのに。


 今になって、その事実を確かめたくなった。


 悠真は写真の端を指でなぞる。


「俺……」


 言葉が止まる。


「ちゃんと覚えてるから」


 返事はない。


 風だけが吹く。


 葉が揺れる。


「……だから」


 その先が言えなかった。


 “忘れない”と言おうとした。


 でも。


 今は、その言葉を口にするのが怖かった。


 忘れないと決めたところで。


 寂しさが消えるわけじゃない。


 萤が戻ってくるわけでもない。


 ただ。


 自分の中に残り続けるだけだ。


 悠真は写真を胸元にしまった。


「……まだ、無理だ」


 小さく呟いた。


 何が無理なのか、自分でも分からない。


 忘れること。


 受け入れること。


 前を向くこと。


 全部かもしれない。





 夕方。


 空が少しずつ赤くなっていく。


 悠真は一人で歩いていた。


 蝉の声が聞こえる。


 昼より少し遠い。


 それでも、まだ夏は終わっていない。


 悠真は空を見上げた。


 昨日までなら。


 夏という季節を、ただの季節だと思っていた。


 今は違う。


 夏を見るだけで。


 あの日のことを思い出す。


 ラムネ。


 蝉の声。


 夏祭り。


 萤。


 全部が、この季節に残っている。


 だから。


 きっとこれからも。


 夏が来るたびに思い出す。


 それが嫌なのか。


 悠真には、まだ分からなかった。


 でも。


 忘れたくはなかった。


 忘れてしまった一年間を、もう一度失うような気がするから。


 悠真は足を止めた。


「……忘れたくない」


 今度は、はっきりと言えた。


 声は小さい。


 誰も聞いていない。


 それでも。


 自分自身には届いた。


「……もう二度と」


 風が吹いた。


 木の葉が揺れる。


 蝉の声が遠くなる。





 夜。


 悠真の部屋。


 机の上に、一枚の写真が置かれている。


 その隣には、朝のアクセサリー。


 そして。


 飲み終わったラムネの瓶。


 悠真はベッドに横になっていた。


 部屋の明かりを消す。


 暗闇の中で、窓の外を眺める。


 今日一日を思い返す。


 朝。


 学校。


 昼。


 ラムネ。


 涙。


 写真。


 そして。


 帰り道。


 悠真は目を閉じる。


 萤の顔が浮かぶ。


 笑っている。


 何かを話している。


 声は聞こえない。


 ただ。


 笑っている。


 悠真は目を開けた。


「……」


 胸の奥が少し痛む。


 でも。


 今度は逃げなかった。


「おやすみ」


 小さく呟く。


 少しだけ間を置いて。


「……萤」


 返事はない。


 それでも。


 悠真は目を閉じた。





 翌朝。


 また蝉の声が聞こえる。


 夏は続いている。


 悠真は制服に着替える。


 玄関を出る。


 青い空を見上げる。


 昨日と同じ空。


 同じ道。


 同じ蝉の声。


 それでも。


 悠真は昨日より少しだけゆっくり歩いた。


 急ぐ必要はなかった。


 忘れる必要もない。


 無理に前を向く必要もない。


 ただ。


 覚えていればいい。


 あの夏を。


 あの日々を。


 そして。


 水野萤を。


 蝉の声が、夏の空に響いている。


 まだ、夏は終わらない。


 だから悠真は歩いていく。


 忘れないまま。


 この夏を。





 ――君を忘れない夏。

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最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 まだ明かされていない謎は、少しずつ紐解かれていきます。 次回もよろしくお願いいたします。
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